【荒漠甘泉】2015/04/25

发表于:2015-04-25 20:59 [只看楼主] [划词开启]

点击查看大图"And there was Mary Magdalene and the other Mary, sitting over against the sepulchre." (Matt. 27:61)

“有抹大拉的马利亚和那个马利亚在那里,对着坟墓坐着。”(马太福音27:61)

マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。   マタイ二七 61

How strangely stupid is grief. It neither learns nor knows nor wishes to learn or know. When the sor rowing sisters sat over against the door of God's sepulchre, did they see the two thousand years that have passed triumphing away? Did they see any thing but this: "Our Christ is gone!"

多么愚蠢盲目的悲痛。既不知道,又不了解,又不希望去知道或了解。这一对感到悲伤的姊妹对着墓门坐着的时候,她们可曾想到今后两千年已在胜利中了?她们只想到:“我们的基督不见了!”

悲しみを理解するには、なんと長い時間を要することでしょう。悲しみは意識したり、学ぼうなど考えるものではりません。悲しみの中にある女性たちが「墓にむかってそこにすわっていた」とき、その後二千年にも及ぶ勝利を理解していたでしょうか。亡くなったキリスト以外に、なにか目に入っていたでしょうか。



Your Christ and my Christ came from their loss; Myriad mourning hearts have had resurrection in the midst of their grief; and yet the sorrowing watchers looked at the seed-form of this result, and saw nothing. What they regarded as the end of life was the very preparation for coronation; for Christ was silent that He might live again in tenfold power.

你的基督和我的基督在她们的丧失中回来了:无数悲痛的心灵已在她们的悲痛中复活了;可是这对感到悲痛的守灵人,眼见这个成果在萌芽却若无睹。她们所认为的生命的结局却是加冕大典的筹备过程。基督之所以寂静无声,为的是复活时可有十倍的力量。

だれもが知っているとおり、キリストは喪失感の中にあった彼女たちのもとにやってこられました。それ以降、うめき声をあげている無数の人びとは、悲しみのただ中で復活を経験してきました。しかし、この悲しんでいる女性たちは一部始終を見守っていたのに、なにも理解していませんでした。生命の終わりだと思っていたものが、実は戴冠式の準備であったのです。何十倍もの力を携えてもう一度よみがえることについて、キリストは口を閉ざしておられたのですから。



They saw it not. They mourned, they wept, and went away, and came again, driven by their hearts to the sepulchre. Still it was a sepulchre, unprophetic, voiceless, lusterless.

她们没有看到这点。她们哀痛,哭泣,离去,受心灵驱使而又回到墓地。但她们仍然只见到一座没有预兆、没有声音、没有光彩的坟墓。

それを知らないかった女性たちは、悲しみ、涙を流して立ち去ったのですが、傷ついた心を抱えてもう一度墓場に戻ってきました。そこはただの墓場でした。預言する声もなく、なにも変ってない墓場でした。



So with us. Every man sits over against the sepulchre in his garden, in the first instance, and says, "This woe is irremediable. I see no benefit in it. I will take no comfort in it." And yet, right in our deepest and worst mishaps, often, our Christ is lying, waiting for resurrection.

我们也是这样,起初坐在自己花园里对着坟墓说:“这个丧失是无法弥补的。我看不出其中有什么益处。我不会从中得到安慰了。”可是,就在我们最大最痛苦的灾难中,我们的基督常常躺着等待复活。

わたしたちにも、同じようことが起こります。だれうなことをつぶやきます。「この悲しみから立ち直ることなどできない。なんとの意識も見いだせないし、なにも慰めにはならない」。しかしわたしたちにとって最悪と思われるこのような逆境の真ん中に、キリストは横たわっておられ、復活のときを待っておられるのです。


Where our death seems to be, there our Saviour is. Where the end of hope is, there is the brightest beginning of fruition. Where the darkness is thickest, there the bright beaming light that never is set is about to emerge. When the whole experience is consummated, then we find that a garden is not disfigured by a sepulchre. Our joys are made better if there be sorrow in the midst of them. And our sorrows are made bright by the joys that God has planted around about them. The flowers may not be pleasing to us, they may not be such as we are fond of plucking, but they are heart-flowers, love, hope, faith, joy, peace--these are flowers which are planted around about every grave that is sunk in the Christian heart.

在我们认为似乎是死亡的地方就有我们的救主。在盼望尽头的地方就有实现盼望的最灿烂的开始。黑暗最深的地方却是即将涌现光明的地方。全部经历完成时,我们就会发现坟墓并未破坏花园的美观。如果其中有悲痛,我们就会更加喜乐。而且我们的悲痛会因神在其周围所撒播的喜乐而变得明亮。这些花可能并不使我们感到悦目,并不像我们爱采的那种花,却是信、望、爱、喜乐、和平的心灵之花——这些花都栽植在基督徒心灵深处每座坟墓的周围。

救い主なるお方は、死が待ち受けていると思われるその場所にこそおられます。望みの果てに、わたしたちは約束が輝かしく成就されるこtに気づくのです。闇が一番濃くなったときに、最も明るい光が姿を見せ始めるのです。このような経験をした後では、そこに墓があっても、わたしたちの庭の景観は少しも損なわれないことに気づくのです。喜びの真ん中に悲しみがあるときこそ、喜びはよりすばらしいものです。悲しみの周りに神が植えてばらしいものとなるのです。悲しみの周りに神が植えてくださった喜びによって、悲しみも輝きを放つのです。始め、わたしたちは植えられた花が気に入らないかもしれませんが、やがてそれが心の花であることに気づくでしょう。クリスチャンの心の奥深くにある墓場に植えられた花は、愛、希望、信仰、喜び、平安という名前なのです。

"'Twas by a path of sorrows drear
Christ entered into rest;
And shall I look for roses here,
Or think that earth is blessed?

经过哀痛阴郁的道路,

基督进入安息;

我能否在这里找到玫瑰,

作为世界蒙福的证据?

悲しみという名の荒れ果てた小道の脇で
キリストは休まれた
ここで薔薇の花など見つけられるのだろうか
地上は祝福に満ちているなどと考えられるだろうか

Heaven's whitest lilies blow
From earth's sharp crown of woe.
Who here his cross can meekly bear,

Shall wear the kingly purple there."

天上最白的百合花,

来自地上苦难的煎熬,

谁在这里能顺从地背起他的十字架,

将在那里穿上君王的紫袍。

地上の辛い苦しみの王冠から
御国の純白の百合が花咲き
地上で自分の十字架を背負っていた人は
御国で紫色の王衣をまとうことだろう


最后编辑于:2017-04-25 18:03
分类: 山涧驿站

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