2015.07.16【日译中】信長·秀吉·家康——看清时代(上)

生田妹 (生田) 译心传心
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发表于:2015-07-16 10:32 [只看楼主] [划词开启]

信長·秀吉·家康——時代を見据える

信長·秀吉·家康——看清时代

    


   人の人生は、ただ一つのライフサイクルとただ一つの歴史的局面の偶然の出会いであり、人は歴史的局面と生死を共にする。従って、人がよりよく生きるうえで何よりも大切なのは、歴史的局面を見据え、歴史の流れと共生することであろう。古今東西、歴史上で名を成した英雄たちは、まさに時代を見据えた人たちであった。

   人的一生,是仅有一次的轮回与仅有一次的历史局面的偶然相遇,人与历史局面共存亡。因此,人要活的更好,最重要的就是看清历史局面、顺应历史潮流。古今东西,凡载入史册的英雄,都是看清了时代的人。

    多くの植物に群落の性質があるように、人間にも群落の性質がある。日本の中世末期の動乱をしずめ、その後250年に及ぶ幕藩体制を築いた織田信長·豊臣秀吉·徳川家康は、いずれも、今で言えば、愛知県人であった。もちろん、これは偶然ではない。愛知県内には、東海道が通っている。鎌倉時代以降幕末までの日本史で、東海道の沿道以外の場所から起こって天下をにぎった者はいないことに表れているように、東海道は、源頼朝(鎌倉時代)以来、日本史の権力街道であった。天皇の住む京都と将軍の住む東国(関東)を結んで、天下の権力はつねにこの街道を往復した。愛知県は、東海道の中ほどにあり、京都に近く、天下を取る上で好条件であった。

  物以类聚,人以群分。平息日本中世纪末期的战乱,之后建立长达250年的幕藩体制的织田信长、丰臣秀吉、德川家康,现在来说,他们都是爱知县人。当然,这并非偶然。爱知县内贯穿着一条驿道——东海道。正如日本史上记载,镰仓时代之后幕府末期为止,掌权的王者无不是在东海道沿线地带,东海道,是源赖朝(镰仓时代)以来,主宰日本史的权利驿道。连结天皇居住的京都与将军所在的东国(关东),天下的权利常常往返于这条街道。爱知县据于其中点,接近京都,具备掌权的有利条件。

    信長·秀吉·家康の三人のなかから、最初にぬきんでたのは、信長(1534~82年)である。信長が出なかったら、家康も秀吉も歴史に名を残さなかったであろう。信長は戦術感覚、政治感覚において天才的であった。信長は桶狭間の戦い(1560年)で奇跡的な勝利を得た後、急速に勢力をのばして行く。延暦寺を焼き討ちにし、一向一揆と戦い、石山(大阪)の本能寺を屈服させたことに示されているように、中世の常識をこともなく破り、中世のあらゆる価値体系をほろぼした信長は、まさに、破壊に生きた人であった。そして、その破壊は創造のためであった。信長は、旧勢力の人間をどんどんつぶすと同時に、新しい価値体系であるキリスト教を保護し、鉄砲を活用した。破壊と創造に生きた信長は、49歳でその家臣、明智光秀によって暗殺されることになる。

   信長、秀吉、家康,这三人中最先出人头地的是信长(1534-82年)。如果信长没有出人头地,那么家康、秀吉都不会载入史册吧。信长具有过人的战术感和政治感。他在桶狭间一战(1560年)中获得了奇迹般的胜利之后,极速扩张势力。火攻延历寺、大战一向宗、服石山(大阪)的本能寺。如此打破中世的常识,崩解中世所有价值体系的信长,真可谓是生存在破坏中的人。这破坏也正是为了创造。信长在瓦解旧势力的同时,保护新价值体系的基督教,并活用枪支。在破坏与创造中生存的信长,49岁时被其家臣明光秀所暗杀。

最后编辑于:2015-07-16 21:37
分类: 日语
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