2015.07.16【日译中】信長·秀吉·家康——看清时代(下)

生田妹 (生田) 译心传心
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发表于:2015-07-16 20:26 [只看楼主] [划词开启]

    秀吉(1536~98年)は、信長が破壊した後の安定と建設が自分の仕事だと考えた。信長が常識を破り、模倣を嫌い創造に生きた天才であったのに対し、秀吉は、信長という天才のやり方を学び、そのやり方を模倣すると同時に、その欠点を、政治性によって埋めようとした。例えば、信長は破壊力の強い火攻めを好んだが、秀吉は、人命をあまりそこなわない水攻めを好み、また、外交を重視した。農家に生まれた秀吉が、天下を統一出来たのは、人との関係を保つ「外交の才」と、利害関係に敏感な「商売の才」があったからであろう。秀吉は、貨幣を鋳造し、市場の制度を整えていく。それと共に、検地を行い、土地制度に基づく税制を確立する。豪壮闊達で陽性な秀吉は、晩年、誇大妄想に陥ったといわれる。

   秀吉(1536-98年)以信长破坏后的安定与建设为己任。信长是打破常识,鄙弃模仿的创造型天才,而秀吉则学习了信长的做法,在效仿其做法的同时,将其中缺点政治性地掩盖。比如,信长喜欢具有强破坏力地火攻,而秀吉喜欢死伤力不太大的水攻,而且他注重外交。出身农民的秀吉能一统天下估计是因为他那维系与他人关系的“外交之才”和对利害关系敏感的“商业之才”吧。秀吉铸造货币、整顿市场制度,并施行农田丈量,制定基于土地制度的税制。据说豪迈豁达、开朗的秀吉,晚年身患狂想症陷入夸大妄想

    その後政権を握った家康(1542~1616年)は、忍耐強い実務家であった。信長が破壊し、秀吉が築いた幕藩体制の基礎を、家康は、忍耐強く、確固たるものにしていった。家康の生涯は、家臣に売られることから始まった。少年家康は3歳で生母と生別した後、6歳からの12年間を囚われの身として過ごした。家康は、まず6歳で今川家に人質として送られた後、織田家に送られ、8歳の時にいったん生家に戻り、その後すぐ、ふたたび、今川家に送られたのである。家康の三河武士団は、後に、団結の強さで武士団の模範とされることになるが、その団結力の強さは、少年時代の悲惨な環境の中で、苦労を共にしたことによる当然の帰結でもあったのだろう。それと同時に、天下を取ってからの家康が、徹底的な封建体制をしき、日本人を階級に分けて、その階級から動くことを禁じ、信頼関係のあつい譜代大名を重要視し、信頼関係の薄い外様大名を容赦なくつぶす極端な徳川家中心主義をとったのは、「家なき子」としてつねに他家のめしを食ってきた悲惨な少年時代の裏返しでもあったのだろう。家康は、関ヶ原の勝利(1600年)により征夷大将軍となった後、秀吉の遺児秀頼を滅ぼすのに、15年の歳月を待っている。家康の生涯は、まさに、忍耐の生涯であった。后面还有一段德川家训我删掉了,没学过古语,也没有太大兴趣,更舍不得花时间⁄(⁄ ⁄•⁄ω⁄•⁄ ⁄)⁄换句话说,就是懒~

    之后掌政的家康(1542-1616年),是一个坚韧的实干家。由信长破坏,秀吉建立的幕藩体制根基,家康凭借他的坚韧将其巩固。家康的生涯,从被卖给家臣开始。少年家康在3岁与生母别离,6岁开始以被囚之身度过了12年。家康最初作为人质被送往今川家后,又被送往了织田家,8岁时返回过一次自家,之后立马又被送往了今川家。家康的三河武士团,因其团结后来被表彰为模范武士团,其强大的团结力大概是衍生于少年时代在悲境下的患难与共吧。与此同时,取得政权的家康建立了一套彻底的封建体制,把日本人按等级划开,禁止越级行为,重视自己非常信任的谱代大名,对自己不信任的外样大名毫不姑息,他采取如此极端的德川家中心主义,与他作为“无家可归的孩子”常在别人家蹭饭的少年时的悲惨经历,正好相反。家康因在关原町之战(1600年)取胜成为征夷大将军之后,为消灭秀吉的遗孤——秀赖,隐忍了15个春秋。家康的生涯,真可谓是忍耐的生涯。

最后编辑于:2015-07-16 21:15
分类: 日语
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