2014.03.04【日译中】日本女儿节的由来

发表于:2014-03-04 19:02 [只看楼主] [划词开启]

   本来想赶在女儿节那天发的,但是小弟不才,太长了。。。。。所以拖到了今天。

翻译到后面人都凌乱了


ひなまつり由来

 

   毎年33日に雛人形を飾り、桃花や雛菓子を供えて、白酒で祝う習俗で、「桃の節供」ともいう。婦女子主体の祭りで、男子の五月節供と対置されてもいるが、雛人形主体の節供習俗の歴史は案外に新しい。江戸時代初頭(1630ころ)に宮廷や幕府で三月節供に雛人形にかかわる行事があった記録が現れ、やがて寛文(かんぶん)年間(166173)以降にようやく雛祭の形が定着したとみられる。以後の雛祭は、工芸品としての雛人形の生成発達と関連してしだいに華美な形になり、また都市から農村へと波及していったが、その一般化は明治以降である。江戸時代初期の雛飾りは平壇・立雛の形が主だったらしいが、やがて精巧な土焼きの衣装人形の出現で華麗になり、重ね壇に内裏(だいり)雛以下、官女、大臣、五人囃子(ばやし)、仕丁(しちょう)、雛道具を並べるという形式が固定していき、新生の女児に雛人形を贈る風習も広まった。そして明治以降は、商店の雛人形売り出しがこうした傾向をいっそう推し進めもしたのである。 
   在每年的33日有习俗是用女儿节人偶装饰、摆放上桃花还有女儿节小食,以白酒祝贺,也被称之为“桃节”。这以女性为主体的节日,和男子的五月节相对设置,而女儿节人偶为主体的节日习俗也是令人意想不到的历史新亮点。江户时代的初期(1630前后)在宫廷、幕府等有三月节日中相关于女儿节的记载,不久宽文年间(1661~73)之后,渐渐确定了女儿节的形态。之后的女儿节,随着作为工艺品的女儿节人偶生产行业的发展,人偶变得更加的美丽精致,还从城市普及到了农村,完全普及化是在明治时代以后。江户时代初期的女儿节饰品是以“平壇・立雛(一男一女的女儿节玩偶)”为主要特色,之后精美的陶器服饰人偶的出现,让其变得更加精致,以多层坛(摆放人偶的地方)上放有天皇,皇后,下面放有女官、大臣、五人伴奏者、仕丁、摆放整齐的家具这样子的形式固定下来,给刚出生的女儿赠送女儿节人偶的习俗也流传开来。然后在明治时代以后,随着发展进步商店中开始有女儿节人偶出售。


  一方、こうした都市的雛祭とは別趣の古俗をいまに伝える地方もいくつかある。鳥取市周辺の「流し雛」はとくに注目され、「紙雛」を祭ったすえ、33日夕方、それを桟俵にのせて供物とともに川に流し去る。つまり「祓(はらえ)」の人形送りである。また関東の村々には、三月節供に古雛を川へ流し送るといって、白酒を供えて婦人・子供が野外にそれを祭り、泣いて別れを惜しむ風習があったと、『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』にはある。さらに三月節供のころ、磯(いそ)遊び、山あがり、花見、春なぐさみなどといって、子供たちが野外に出て終日遊び共同飲食する風習も、かなり広く各地にみられる。とくに長野県南部の「三月場」、千葉県の「野あそび」のように、雛人形を野外に据えて遊ばせ、その別離を惜しむ風習の伝承は注目されよう。もちろん一般の野遊び、山あがり、磯遊びには、雛人形との関連はないが、しかしそこにも「神送り」の古義をとどめるところが多いことは確かであろう。 
   另一方面,在几个地方有这样城市化的女儿节传递着和古代不一样的趣味。其中鸟取市周边的“漂流人偶”最为瞩目,“纸人偶”在祭祀的最后,33日的傍晚,放在桟俵(用稻草编的米袋两端的圆盖子)上,和供物一起放在河漂流。即为送出祈福的“祓”人偶。还有关东的各个村中,三月节日中会把旧的女儿节人偶放到河中飘走,供上白酒的妇人和孩子们在野外祭祀,有挥泪惜别离的习俗,《嬉游笑览》中有记载。并且在三月节的时候,人们会去海边游玩、爬山、赏花等春天的消遣活动,也有习俗是孩子们出外玩耍一整天一起用餐,这样的风俗也是随处可见。特别是长野县南部的“三月场”、千叶县的“郊游”那样,把女儿节人偶放到野外,以此来怜惜别离之感的风俗传承值得关注。当然,一般的郊游、爬山、游海滨是和人偶没什么关系的,但那确实有许多地方流传下“送神”这样的古义。

 

    ところで『源氏物語』須磨(すま)の巻には、三月上巳(じょうし)の日に陰陽師(おんみょうじ)を召して祓を行い、その人形(ひとがた)を船に乗せて流したという記事がみえ、『建武(けんむ)年中行事』にも、三月節供の「御燈(みあかし)」行事には「人形」に饗応(きょうおう)したあと、それを祓え送るとある。三月上巳の祓行事は、三月節供の雛祭の源流を知る手掛りで、本来、雛祭の人形の原形は、「罪穢(つみけがれ)」をつけて送り流す「撫物(なでもの)」であったという山東京伝(さんとうきょうでん)の指摘は的を射ていよう。桃酒や曲水宴を伴う「上巳」の行事は中国陰陽道の習俗の移入であるが、水辺の祓行事が先行習俗として日本にはあって、その習合行事として「上巳の祓行事」が生じ、その「撫物」が雛祭の主役にやがてなったものといえよう。そして工芸技術の進歩で雛人形の製作に巧緻(こうち)を競うに至ると、それを保存愛玩(あいがん)し連年祭ることにもなり、「流し雛」の古意はやがて忘却されるに至ったとみてよい。 
   说道《源氏物语》,须磨卷中有记载,三月上巳(女儿节)那天会叫来阴阳师进行袚魔祈福,那那个人偶放在船上随河流走,《建武年中行事》也有记载,三月节的“御灯”活动中,设宴供奉“人偶”,然后拿去袚魔祈福。三月上巳的祈福消灾活动作为线索,可知道三月节中的女儿节的起源,原来女儿节的人偶的原型是携带着“罪秽”随水流去的“抚物”,这由山东京传先生指出重点。桃酒与曲水之宴伴随“上巳”活动是由中国阴阳道传入的习俗,在河边进行的袚灾祭祀作为先行习俗传入日本,经过宗教调和之后产生了“上巳之祓行事”,可以说“抚物”在女儿节起着重要的作用。然后随着工艺技术的进步,女儿节人偶在竞争中变得更加精致,把其作为保存玩赏可以每年拿出来,至于“漂流人偶”的古时做法也逐渐被人遗忘。


  しかし三月節供にはなお「上巳の祓」だけでは解きえない習俗もいくつかある。たとえば、北九州地方でこの日を「麦ぼめ節供」といい、畑の麦の生育ぶりをほめはやす意味の行事があった。前記の山遊び、野遊びにもむしろ、春の初めに野外に「農の神」を迎えて饗応する意味のものがかなりあった。つまりその季節に来往する疫神、精霊のたぐいを饗応して、彼らの退去を求める「神送り行事」が、三月上巳の節供の受容基盤であったともみられる。

       但是三月节不能只理解成是“上巳的袚魔祈福”,还有其他几个习俗。例如,在北九州地区把那天作为“麦子节”,赞颂田里的麦子健康成长的活动。上文中的爬山、郊游应该说是在春初在野外祭祀“农神”的活动。总之,款待在这季节中出现的瘟神、精灵类,祈求它们离开的“送神活动”,被视为三月上巳的各种活动的人们接受的基础。

分类: 日语
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