�文学少女�と繋がれた愚者《フール》:三章 切り裂きたいもの

发表于:2015-05-05 19:01 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-05 19:00~2015-05-31 22:00
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三章 切り裂きたいもの

 

[#ここから太字]

 きみの手紙を受け取った。

 読みはじめてすぐ、胸を裂かれるような気持ちになり、目眩がした。

 オレがきみと距離を置いた意味を、きみは全くわかってくれていなかった。便箋を埋めつくすのは、オレを臆病者の嘘吐きと罵る言葉と、自分の一方的な望みをオレに遂行するよう命じる言葉、過去への呪詛、それに、オレへの脅し文句だけだ。

 手首を切るだの、窓から飛び降りるだの、毒を飲むだの、そういうことを安易に書き散らすのは、己の価値を下げる愚かな行為だということに、どうか気づいて欲しい。

 きみはもっと誇り高い人間ではなかったのか。

 強そうに見えるきみの内面が、硝子のような脆さを持っていることを、オレは理解しているつもりだ。その脆さが、きみを傷つけ、追いつめていることも。きみが過去に囚われ、復讐を願っていることも。きみの痛みも苦しみも、絶望も、戦いも、涙も、オレはずっと見てきた。

 きみの幸せを、心から願っている。だからこそ、悪意に満ちた誠実ではない行為が、きみ自身の心を引き裂くことになると、知って欲しいのだ。きみが幸福になることは、オレの贖罪でもあるから、きみの望みが正しいものであるなら、オレは喜んできみの力になるつもりだ。

 だが、オレはきみの奴隷ではない。

 きみの脅しに青ざめ、駆けつけたりはしない。

 きみはオレという男を侮っている。オレには、怒りも痛みも嘆きもないと思っている。

 オレが、今、心の中でなにを一番望んでいるかを明かしたら、きみは震えが止まらなくなるだろう。さすがにオレも、それをここに書くのは憚られる。

 オレの忍耐力は、すでに限界に来ている。もう耐えられない。頭がヘンになりそうだ。自分が招いたこととはいえ、手に余る事態が山積し、眠れない夜が続いている。

 あの事件以来、オレは誠実な人間であらねばならないと思ってきた。けれど、今、誰に対して、何に対して誠実であらねばならないのかわからなくなりはじめている。

 父にか?

 母にか?

 友人にか?

 過去にか?

 未来にか?

 きみにか?

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 翌朝、教室で会った芥川くんは、疲れているみたいだった。声をかけるのをためらっていると、顔を上げ、「おはよう、井上」と微笑んだ。

 その顔がとても静かだったので、ぼくは胸をぎゅっとつかまれたように苦しくなり、

「おはよう、芥川くん」

 ぎこちなく挨拶を返した。

 昨日|竹田さんは、「そっとしておいたほうがいいです。あたしは見なかったことにします」と冷めた口調で言っていた。

 多分、それが正解なのだ。友達でもないのに他人の事情に首をつっこむべきではない。ぼくは普段通り彼に接すればいい。

 けれど、芥川くんの顔を見るたび、昨日のことが思い出されてしまい、話していても落ち着かなかった。

 一方で、琴吹さんはまだ怒っているらしく、ぼくの顔を見るなり、ふいっと横を向き、森さんたちのほうへ行ってしまった。それもまた、ぼくの胸を苦く締めつけた。

 この日の五時間目はホームルームで、文化祭でやる漫画喫茶の準備をした。みんなで、表に飾る看板や、中に展示するアニメ絵のパネルや、本を置く棚を製作する。

 ぼくは棚を作る係で、カッターで段ボールを切っていた。

 芥川くんは、パネルに色を塗っている。

 女子が数名、芥川くんのほうへ近づいていって、なにか頼んだようだった。芥川くんはうなずいてパネルから離れ、立て看板のほうへゆき、後ろの支えの部分についた曲がった釘を引き抜き、綺麗に打ち直した。

「ありがとう、芥川くん」

 女の子たちが嬉しそうにお礼を言う。芥川くんは穏やかな顔でなにか言い、またパネルのほうへ戻った。女の子たちは芥川くんのほうを見て、楽しそうにざわめいている。

「あぁ〜、相変わらずモテてんな、芥川」

 後ろで作業をしていた男子が、そんな風に言うのが聞こえた。

「けど、芥川って、彼女作んないよな」

「一年の時、クラスメイトとつきあってるって噂なかったか? ほら、更科って美人の」

 更科さんの名前が出たとたん意識がそれ、手元が狂った。ちょうどカッターを下に引いたときで、勢い余った刃が、段ボールを押さえていた左手の甲を切り裂いた。

「痛っ!」

「わ、井上! なにやってんだ!」

「手ぇ、血まみれだぞ、おい!」

 クラスメイトが驚いて集まってくる。手の甲からあふれる血が、段ボールの上に落ちて染みを作り、女子が悲鳴をあげる。

 大丈夫だからと言おうとしたときグレイのハンカチが手の甲に押し当てられた。そのまま腕をつかまれ、引き上げられる。

 ぼくの手をハンカチで押さえていたのは、芥川くんだった。

「保健室へ行ってくる」

 クラス委員に告げ、「大丈夫か?」と、ささやく。

「う、うん」

 うなずくと、

「しっかり押さえてろ」

 ぼくの右手をつかんで左手に重ねさせ、肩を抱き寄せるようにして、歩き出した。

 教室を出るとき、真っ青な顔で立ち尽くす琴吹さんの姿が見えた。

 

 先生は留守のようで、保健室には誰もいなかった。

 ぼくをベッドに座らせると、芥川くんは自分も椅子に腰かけ、消毒液をふくませた脱脂綿で、傷口を綺麗に拭いてくれた。

「ごめん……高校生にもなってカッターで手を切るなんて、恥ずかしいや」

「考え事でもしていたのか」

 消毒を終えた手にガーゼを乗せ、治療用のテープを貼って固定しながら芥川くんがつぶやく。

 きみのことを考えていたとは言えず、黙り込んでいると、芥川くんが下を向いたまま低い声で尋ねた。

「オレに、話があるんじゃないのか?」

 心臓を素手で鷲づかみされたような気がした。

 生温かい大きな硬い手が、ぼくの左手をぎゅっとつかんでいる。

「……朝から、なにか聞きたそうにしていただろう」

 そんなに露骨に顔に出ていただろうか。自分の三流役者ぶりに、耳たぶが熱くなる。

 喘ぐように息を飲むと、保健室の空気は苦い薬の味がした。うまく動かない口を開き、ぼくは小さな声で言った。

「昨日、校舎の裏で、きみが知らない生徒に殴られているのを、見ちゃったんだ。更科さんも一緒だった」

 テープを貼る芥川くんの指が、止まる。乾いた唇から苦しそうな溜め息がこぼれた。

「そうか……井上は、あそこにいたのか」

「ごめん。知らないふりをしようと思ったんだけど……。それに、更科さんのことも、本当は、前から知っていたんだ。芥川くんの……彼女なんだよね?」

 うつむいた芥川くんの表情が暗くなり、瞳に影が差し、眉根の皺が深くなるのを見て、ひやっとする。

「……更科は、彼女じゃない」

「前も、そう言ってたね。……なのにどうして、更科さんはきみと今もつきあっているみたいに、ぼくに言ったんだろう? 昨日、きみを殴っていた彼は誰なの? どうして、一方的に暴力を振るわれて、土下座までしなきゃならなかったの?」

 一度口を開いたら止まらなかった。喉に絡むような掠れ声で、芥川くんがつぶやく。

「全部……オレが悪いんだ。殴られて当然のことを、オレはしたんだ。更科にも……五十嵐先輩にも……オレは、卑劣な人間だ。二人に憎まれても仕方がない」

 自分を責めている芥川くんを、ぼくは苦しくて見ていられなかった。

 出しゃばらないほうがいい、関わらないほうがいいと迷いながら、歯切れの悪い言葉を、完全に断ち切ることができない。

「本当に卑劣な人間は、自分のことを卑劣だなんて言ったりしないよ。……芥川くんは頑張りすぎなんじゃないかな。きみは立派で、真面目で誠実で、思いやりのあるいい人だけど、いつもそんなんだと疲れるだろう。たまには力を抜いて楽になってもいいんじゃないかな」

 芥川くんが顔をあげた瞬間、ぼくはハッとした。

 彼は底光りする目で、ぼくを睨みつけていた。普段穏やかな顔が引きつり、激しい怒りがにじんでいる。

「オレは、井上が思っているような立派な人間じゃない!」

 吠えるような声が、響き渡る。治療したばかりの手を、骨が砕けそうなほど強く握られて、脳髄をつらぬくような鋭い痛みに、ぼくは悲鳴を上げそうになった。

 芥川くんが叫ぶ。

「真面目で、誠実で、思いやりのあるいい人だって!? 違う! オレはそんなんじゃない! 井上は全然わかっていない[#「井上は全然わかっていない」に傍点]!」

 ぼくの手を、容赦のない強さで、ぎりぎりと握りしめながら、顔を近づけてくる。その不快感をあらわにした眼差しや、吐き出される苦しげな息や、青ざめてぶるぶると震える唇は、殺意と狂気すら感じさせて、全身が冷たく粟立ち、背筋を恐怖が駆け抜けてゆく。

「ずっと前に、オレは他人の人生をめちゃくちゃにした。大宮みたいに表面を取り繕って誠実なフリをしていても、本当は卑劣で最低な人間で、自分を信頼している人たちを裏切るんだ!」

 怖いっ、手が痛いっ。彼の激情に囚われて、身動きができない。彼の発する言葉が、真っ黒な濁流のように、ぼくの胸になだれ込んでくる。

「オレは、楽になんかなっちゃいけないし、この先も自分を厳しく律し続けなければならないんだ。なのに衝動が抑えきれない。今オレがなにを考えているのか、おまえは知らないだろう? 井上? ----オレが、どんな気持ちでいるのか? 本当は、どうしたいと願っているのか! どんな最低なことを考えているのか! 知らないだろう? オレがどれだけ汚い人間か----、井上、おまえは----おまえは、これっぽっちもわかっちゃいないだろう!」

 奥歯をギリギリと噛みしめ、殺気をみなぎらせて、ぼくを睨みつけてくる彼。

 この人は誰なんだ。

 

 ぼくが知っている芥川くんじゃない----。

 

 ふいに、芥川くんが握りしめていた手をはなし、切なそうな、苦しそうな顔になった。

「……っ、オレは、きっと井上を傷つける。このことは忘れてくれ。オレに関わらないでくれ」

 掠れた声で言い、椅子から立ち上がると、

「すまなかった」

 苦しそうにつぶやき、そのまま保健室から出ていってしまった。

 一人、取り残されたぼくは、足元から立ちのぼってくる寒気にがたがたと震えながら、自分の体を両手で抱きしめた。

 彼に握られていた左手の傷口だけが、火のように熱い。ガーゼににじむ赤い染みが、じわじわと広がってゆく。

 井上にはわからない。おまえは全然わかっていない。

 彼が放った言葉が胸をつらぬき、喉を締めつけ皮膚を焼くような痛みとともに、頭の奥に閉じこめた記憶が、生々しくよみがえる。

 コノハ、コノハ、とぼくを呼ぶ快活な声。隣から、いたずらっぽくのぞき込むように見上げてくる甘い目。揺れるポニーテール。

 

 ----コノハには、きっと、わからないだろうね。

 

 屋上の鉄柵の前で振り返り、寂しそうに微笑んで、そうつぶやいたあと、逆さまに落ちていった美羽。

 その情景をまざまざと思い出し、芥川くんの顔に美羽の顔を重ねて、ぼくは茫然とした。

 突き刺すような寒気が止まらなくなり、どうしようもない恐怖に、頭の芯が痺れる。

 ダメだ----。

 もうよそう。

 芥川くんに、これ以上近づいたらダメだ!

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 日に何度も、獣のような苛立ちが胸の底から込み上げてくる。

 いつ自分が、感情のままに誰かを傷つけてしまうだろうと考えると、目の前が真っ暗になり、冷たい汗が吹き出てくる。

 このいまいましい衝動を、どうしたら鎮めることができるのだろう。

 どうか、オレを追いつめないでくれ。今のオレは何をしでかすかわからない。

 図書室の本を切ったときの感触を、繰り返し頭の中で思い浮かべる。

 カウンターは遠く、人の声はせず、自分の吐く息とページをめくる音しか聞こえないあの張りつめた静寂。世界の片隅にたった一人で存在しているかのような孤独と恐怖。自分がしようとしていることへの、震えるような背徳感。

 そんな中、カッターを鞄から出し、ページの付け根にあて、そのまま手をすーっと下へ動かしてゆく。それが完全に本から切り離されたとき、不思議なことに心が解放され、軽くなったような気がした。

 あの頭が痺れ、足が宙に浮くような感覚を、オレは今、欲している。

 切り裂きたい。

 本を----いや、もっと、やわらかく、あたたかな、清いものを----。

 そうすれば胸を焦がすようなこの苦しみから、解放されるのだろうか。

 夜ごとオレを責めるあの声も、聞こえなくなるのだろうか。

 こんなオレが、きみに会いに行くことはできない。どうかわかってくれ。オレは今、ぎりぎりの場所に立っている。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 六時間目が始まる前に、ぼくは教室に戻った。心配するクラスメイトたちに当たり障りのない返事をして、席に着く。

 芥川くんは自分の席で、ノートをめくっていた。ぼくはそちらを見て、びくっとし、急いで目をそらし、教科書を机の上に並べた。同じ部屋にいるだけで、息がつまりそうだった。

 掃除の時間、廊下でモップをかけていたら、琴吹さんがやってきて、ふくれっつらで手を伸ばした。

「貸して」

「え……」

「そんな手じゃ力も入らないし、意味ないよ」

 戸惑うぼくからモップを奪い取り、さっさと床を磨きはじめる。

「カッターで手を切るなんて、井上って本当に間抜けだよね。バッカみたい」

「……えっと……その、ありがとう」

「別に、早く掃除終わらせたいだけ」

 琴吹さんは唇を尖らせてそう言い、背中を向けてしまつた。

「井上……芥川と喧嘩でもした?」

「どうして?」

「芥川だけ先に帰ってきたし、そのあとも、全然話してないみたいだし」

「……気のせいだよ」

 頼りない声でつぶやくと、琴吹さんは振り返って、ムッとしているような顔でぼくを睨んだ。

「まぁ、あたしには、関係ないけど」

 そういえば、芥川くんは教室にいないようだった。どこへ行ったのだろう。いや、詮索しないほうがいい。もう、芥川くんに関わるべきじゃない。

「井上、今日、劇の練習、出れるんでしょう?」

「う、うん」

 口ごもりながら答える。保健室で、芥川くんは、忘れてほしいと言ったけど、ぼくは今までと同じように振る舞えるのだろうか。彼と顔をあわせるのが、震えるほど怖い。

 モップをかけ終えた琴吹さんと、教室に戻る。

 机の横にかけてある自分の鞄を見て、琴吹さんは目を見張った。

「あれ?」

 鞄のヒモの部分をまじまじと眺める。

「どうかした?」

「うさぎがいない」

「へ?」

「遠子先輩とショップへ行ったときに買ったやつ。どうしよう、どこでなくしたんだろ」

 泣きそうな顔で床に視線を落とし、うろうろする。

「捜すの手伝おうか?」

「いい。先に行ってて」

「けど」

「いいから」

 強く言われて、ぼくはしかたなく一人で教室をあとにした。

 胸に重い石を抱いている気持ちで、ホールへ向かって歩いてゆく。校舎の裏手に、吸い寄せられるように目を向けたとき、そこに芥川くんの後ろ姿を見つけて、雷に打たれたような気がした。

「!」

 芥川くんはまっすぐに伸びた背中を、ぼくのほうへ向けて立っていた。

 右手に、ふわふわした白いものを持っている。

 それは、うさぎだった。

 マスコットじゃなくて、多分、本物の。

 やわらかな白い毛に覆われた首筋から、赤い血がしたたり落ち、うさぎの耳をつかむ芥川くんの手も赤く染まっている。

 猛烈な吐き気が込み上げ、ぼくはその場から駆け出した。

 あのうさぎはなんなんだ? 芥川くんはなにをしたんだ? そんな疑問が頭の中でぐるぐる渦巻き、同時に全身が凍りつくような恐怖が胸に突き上げ、一刻も早く彼から離れたいと思わずにいられなかった。

 怖い!

 芥川くんが怖い!

 ぼくはホールへは行かず、校門を走り抜け、そのまま帰宅した。

 

 自分の部屋に入りドアを閉め、椅子に座って学習机に肘をつき、頭を抱え込む。

 動悸が収まらず、頭の中に、保健室で見た芥川くんの底光りする眼差しや、いつか美羽がぼくに見せた憎しみをたたえた目が交互に浮かんで、「やめてくれっ」と叫んだ。

 どうして!? ぼくらは、穏やかに言葉を交わしあい、宿題の答え合わせをするだけの、心地よい関係だったのに。

 どうして、ぼくにきみの激情を見せる? ぼくに憎しみを向ける?

 美羽も----美羽もそうだった。

 杉子に恋する野島みたいに、ぼくは美羽に夢中だった。美羽もぼくを好いてくれていると信じていた。ぼくらはとても仲良しで、毎日笑いながら過ごしていた。なのに中学三年生のあの日、美羽はぼくの目の前で、校舎の屋上から落ちていったのだ。

 ----コノハには、きっと、わからないだろうね。

 そんな謎の言葉を残して。

 ぼくの世界は、あの夏、崩壊した。

 どうして美羽が、そんなことをしたのか、ぼくは今でもわからない。美羽が飛び降りたのは、ぼくのせいなのか? ぼくが美羽になにかしたのか?

「----っ」

 華奢な白い指で、心臓を握りつぶされたような気がして、ぼくはシャツの胸元を、きつくつかんだ。喉が渇き、視界が陽炎のように揺れ、呼吸が荒くなる。よろめきながらベッドに倒れ込み、短く息を吸ったり吐いたりを繰り返し、悲鳴をあげる体を必死になだめる。

 気がつくと、目を閉じ、肩で大きく息をしていた。吹き出る汗が、髪とシャツをぐっしょり濡らして気持ちが悪い。

 美羽のことを、ぼくは今も忘れられずにいる。

 こんなのはもう嫌だ。誰かと深く心を結び合わせて、未来を信じて、それが突然に断ち切られるなんて、耐えられない。

 美羽のときだけで、たくさんだ。

 半分だけ開けた目の端に、床に投げ出された『友情』が映った。さっき、椅子から立ち上がったときに、手で払いのけて落としてしまったのだろう。

 汗が目に入り、かすんでゆく本を、苦い気持ちで見つめながら思った。

 絶望に満ちた暗い眼差しで、ぼくを責めた芥川くんも、大宮のように人に言えない秘密を抱いて、苦しんでいるのだろうか……。

 けれど、それがなんであるのか、ぼくは知らないほうがいいのだ。だって、ぼくらは友達じゃないから。どうして芥川くんが、保健室でぼくの言葉に、あれほど激昂したのかとか、あのうさぎはなんなのかとか、そんなこと気にしてはいけないのだ!

 

 この日の夕飯は胸につかえるようで、半分以上残してしまった。

「少し……体調が悪いみたいだ。大丈夫。明日にはきっと治っているよ」

 心配そうなお母さんに言い訳し、「お兄ちゃん、ゲームの続きをしよう」とねだる小さい妹に、「明日遊んであげるから、今日はごめんね、舞花」と謝り、頭をなで、自分の部屋に引きこもる。

 電気を消して暗くし、ベッドに仰向けになって、ヘッドホンでゆったりしたバラードを聴いていたら、ドアが開いてお母さんが入ってきた。

「お兄ちゃん……もう寝ちゃった? 天野さんからお電話だけど」

 ぼくはヘッドホンをはずし、起きあがった。

「……ありがとう。出るよ」

 お母さんがドアの向こうに消えたあと、ぼくは親子電話の受話器をとった。

「……もしもし」

 自分でも情けなくなるほど弱々しい声が、唇からこぼれる。

 きっと、ぼくが練習をサボって帰ってしまったので、遠子先輩は電話をしてきたのだろう。

 案の定、受話器の向こうから、明るい声が聞こえた。

『こら、心葉くん。先輩に黙って部活をサボっちゃダメでしょう。ななせちゃんが、心配していたわよ』

「スミマセン。教室を出たら、急に具合が悪くなったんです」

『本当に?』

 穏やかに問いかけるその声には、ぼくがさっきまで聴いていた音楽のように、やわらかな優しい響きがあった。

『嘘をついても、先輩にはお見通しよ。芥川くんに会いたくなかったんでしょう?』

 ぼくは、びっくりして言った。

「芥川くんが、遠子先輩に話したんですか!?」

 遠子先輩がくすりと笑う。

『やっぱりそうだったのね。今日、芥川くんも練習に遅れてきたの。心葉くんがまだ来てないって聞いて、芥川くん、辛そうな顔をしていたけれど、そうですかとしか言わなかったわ。どうして心葉くんが練習に来ないのか、知ってるみたいだった。だから、二人の間になにかあったのかなぁって�想像�したのよ』

「カマかけたんですね、ひどいです」

『文学少女を、あなどったらいけません』

 得意気に言われて、ぼくはすっかり脱力してしまった。ああ、どうしてこの人には、いつも負けてしまうのだろう。悔しい。理不尽だ。

『ふふ、覚悟を決めて、ぜ〜んぶ先輩に白状しなさい』

 からりとした声で促されるまま、芥川くんとのことを、ぼそぼそと話しはじめたのだった。

 遠子先輩は、吐息のようなやわらかな相槌を打ちながら、ぼくの話を聞いてくれた。最後まで語り終えると、神妙な口調で言った。

『あのね、今日、図書室で聞いたんだけど、また本が切られてたんですって。ジェイン=ヨーレンの作品集と、北原白秋の詩集、それに椋鳩十の童話集と小松左京の短編集が……。それと、少し前になるけれど、生物部で飼っているうさぎが一羽、行方不明で捜してるって、生物部の子が言ってたわ』

 受話器を持つ手が、冷たくなる。

 図書室の本がまた切られた? それに、うさぎが行方不明って----。

『けど、わたしは本を切ったのは、芥川くんじゃないと思う。今回も、この前も』

 突然、遠子先輩が明るい声でそんなことを言ったので、ぼくは唖然としてしまった。

『ねぇ? わたしと一緒に�本当のこと�を確かめてみない? 心葉くん』

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 お母さん、俺は一体、なんて馬鹿げたことを続けているのでしょう。

 ここ最近の手紙は、正気の沙汰とは思えない。けれど、手紙を書くことをやめたら、俺は自分の中に荒れ狂う衝動を抑えることができないでしょう。

 今日、井上を、怒鳴りつけてしまいました。彼に悪気がないことも、俺を心配してくれていることもわかっています。けれど、彼の脆くて傷つきやすそうな部分が、俺の苛立ちを激しくかきたてて、いっそ思いきり傷つけてやりたくなるのです。

 井上は、放課後、劇の練習に来ませんでした。どんな顔をして、彼に会ったらいいのかわからなかったので、正直|安堵しました。

 一方で、彼女の精神状態は、ますます危うくなってゆき、もう俺の手には負えなくなっています。喉を裂かれて死んだうさぎは、裏庭の桜の木の下に埋めました。洗っても洗っても、血の痕がなかなか消えず、俺は吐きそうでした。

 お母さん、最近の俺からの手紙を、お母さんはきっと心配しているだろうし、意味がわからないでしょう。けれど、こんなことはお母さんにしか打ち明けられません。

 俺を生んだとき、無理をしたせいで、お母さんは体を壊してしまいました。

 だから、俺はお母さんに負担をかけないような立派な人間になろうと頑張ってきました。貴女に、心配をかけないように、親戚の人たちが、俺を生んだ貴女を気の毒がったりしないように、そのことで貴女が哀しい思いをすることがないように。

 けれど、六年前のあの日、俺は不実な行為によって他人の人生を狂わせ、その罰に、貴女を失いました。

 なのに、お母さん、俺はまた不実な行いをしてしまいました。

 お母さん、お母さん、貴女の息子はどこまで愚かになってゆくのでしょう。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 翌日の昼休み。お母さんが作ってくれたお弁当を持って文芸部の部室へ行くと、遠子先輩は先に来ていて、パイプ椅子に足を乗せて座り、�ごはん�を食べていた。

 フランソワーズ=サガンの『ブラームスはお好き』の文庫を膝に乗せ、ページをめくっては、指で端からぴりっと破き、ひそかな音を立てて咀嚼し、こくりと飲み込んでは、極上の笑顔を浮かべる。

「サガンは洗練された都会の味ね。フランス料理のオードブルに出てくる鴨のテリーヌみたいに美しく、ひんやりして、優雅な味わいなの。

 自分を情熱的に愛してくれる年下の美青年と、浮気性の年上の恋人との間で揺れ動く女性の微妙な心理描写が、本当に素晴らしいのよ!

 テリーヌの繊細な舌触りと、鴨の野趣を楽しみながら、横に添えられた琥珀色のコンソメのジュレが、口の中で複雑に震える感触に、思わず胸が締めつけられてしまう感じなのっ。サガンは十八歳のときに『悲しみよこんにちは』で十七歳の等身大の少女の物語でデビューしたけれど、三十九歳の中年女性をヒロインにしてこの物語を書いたときは、たったの二十四歳だったのよ」

 そんな蘊蓄を聞きながら、お母さんが作ってくれたお弁当を、うつむいたまま食べる。

「昨日の夜の、アレ、どういう意味ですか?」

 ぼそっと尋ねると、朗らかな声が返ってきた。

「一緒に�本当のこと�を確かめましょうって言ったこと?」

「違います」

 顔をあげて反論する。

 遠子先輩が優しく微笑んでいたので、とたんに耳が熱くなり、またうつむいてぶっきらぼうにつぶやいた。

「図書室の本を切ったのは、芥川くんじゃないって言ったことです。芥川くんがカッターでページを切るのを、遠子先輩も見たじゃないですか」

 今日も教室で、彼とうまく話せていない。「手の具合はどうだ?」と聞かれて、平気だよと答えるのが精一杯だった。向こうも辛そうだった。もう関わりたくない、心の底からそう思うのに、どうして遠子先輩の誘いに乗って、ここへ来てしまったのだろう。

 遠子先輩が、食べかけの文庫を閉じる。

「確かに、有島武郎の作品集のページを切り取る芥川くんを、わたしたちは目撃したわ。けど、見て、心葉くん」

 作品集を手に取り、ぼくのほうへ向け、ぱらぱらめくってみせる。

 ページが切り取られた箇所で、本が大きく二つに割れる。そのままめくってゆくと、また、ページが割れた。そのあとも二度、三度----。

「ねぇ? 切られているのは一箇所だけじゃないわ。あのとき、芥川くんが切ったのは一ページだけだったでしょう? それに、ここを見てちょうだい」

 切られたページの次のページを、遠子先輩が指で縦に、すーっとなぞる。本の合わせ目から五ミリほど横に、一本の線がある。

「ページは、どれも合わせ目から切断されているわ。その切り痕も、ちゃんと下のページに残っている。なのに、この位置にも痕があるのは、おかしいと思わない?」

 同じ間隔で引かれた二本の線を指で示し、神妙な口調で言う。

「これはカッターではなくて、なにか別のもので切られたんじゃないかしら? この本もきっと芥川くんが切る前から、ページがところどころ抜けていたんだわ。けれど、部室で話をしたとき、芥川くんはそんなこと一言も言ってなかった。はじめて本を切ったみたいな口調だったわ。だから、本を切った人間は、別にいるんじゃないかと思ったの。他の本も、芥川くんじゃなくて、その人が切ってるんじゃないかしらって」

「全部、芥川くんが切ったのかもしれません。証拠はないんですから」

「そうね。でも、芥川くんは理由もなく、こんなことをする人じゃないでしょう?」

「それは、遠子先輩の勝手な�想像�です。本当の芥川くんは、ぼくらが知っているのとは違う人間かもしれないじゃないですか」

 保健室で彼が見せた、憎しみにゆがんだ表情を思い出し、体の芯が冷たく震えた。

「だいたい、芥川くんがぼくらの前で本を切ったのは、事実じゃないですか。芥川くんが犯人じゃないなら、なんで、わざわざそんなことしたんですか? ストレスから本を切ってたって説明されるほうが、まだ納得できます」

 遠子先輩が、暗い声でつぶやく。

「誰かを庇っているのかもしれないわ」

 そうして、少し哀しそうにぼくを見つめた。

「あのね、うちのクラスの弓道部の人に、芥川くんのことを聞いてみたの。芥川くん、一年生のとき、二年の先輩に、嫌がらせをされていたみたいなの。一人で掃除をさせられたり、体に負担がかかるような無茶な練習メニューを押しつけられて、裸足で校庭を何十週も走らされたりとか……。芥川くん、可哀想だったって……」

「その先輩って」

「心葉くんが裏庭で見た、三年の五十嵐という人よ」

 芥川くんより肩幅の広い、筋肉質の男子生徒の姿が頭に浮かぶ。裏庭で、芥川くんは彼に一方的に殴られ、土下座までしていた。

「はじめは五十嵐くんは、芥川くんにとって良い先輩だったらしいの。五十嵐くんは芥川くんのことを買っていて、よく話しかけたりして、可愛がっていたんですって。芥川くんも五十嵐くんを尊敬していたそうよ」

「どうして、五十嵐先輩は、芥川くんに嫌がらせをするようになったんですか?」

 頭の隅に、更科さんの顔がちらつく。裏庭で、芥川くんの背中にすがって泣いていた更科さん。きっと、彼女が関係しているのだろう。

 遠子先輩の答えは、ぼくの予想通りだった。

「五十嵐先輩がつきあっていた女の子を、芥川くんがとったらしいって、弓道部の人は言ってたわ。二年生の更科さん----去年芥川くんのクラスメイトだった子よ」

 思わず、息がこぼれた。

 やっぱり、更科さんが原因だったんだ。

 今にして思えば、芥川くんは親友を裏切って杉子を選んだ大宮を、嫌っているようだった。ぼくが大宮役にぴったりだと褒めたときも、苦い顔をしていたし、遠子先輩たちが大宮か野島かで盛り上がっていたときも、大宮に対して厳しい批評をしていた。

 あのとき芥川くんの頭の中には、五十嵐先輩と更科さんのことがあったのだろう。きっと、大宮に自分自身を重ねて、苦しんでいたのだ。

「もともと五十嵐くんに更科さんを紹介したのは、芥川くんだったらしいわ。はじめの頃は三人で出かけたりしていたみたい。それが去年の夏頃で、秋の終わりくらいから五十嵐くんの芥川くんへの態度が変わっていったんですって。あんまり嫌がらせがひどくなって、見かねた三年生が事情を尋ねたら、五十嵐くんが『芥川がオレの彼女をとった』って言ったそうなの。……芥川くんは否定しなかったそうよ。『五十嵐先輩の言うとおりです。オレが全部悪いんです』って答えたんですって。そのあと、五十嵐くんは弓道部を辞めてしまったの」

 遠子先輩の眉が下がってゆく。

 語られた内容は、ありふれた三角関係にすぎない。先輩の好きな人を好きになってしまうことも、友達に内緒でその彼女とデキてしまうことも、よくあることだ。小説やテレビドラマの中に、そんなシチュエーションはあふれかえっている。

 大正時代にも三角関係はあったのだし、それよりもっと前----神話の時代から、とったのとられたの、惚れたの別れたのといった馬鹿げた恋物語を人間は繰り返している。

 けれど当事者にとっては、簡単に割り切れるものではないのだろう。

 野島への罪の意識に悩んだ大宮のように、芥川くんも凄絶なほど自分を責めてしまったのだろう。保健室で芥川くんは、全部自分が悪いんだと言っていた。

 

 ----オレは、卑劣な人間だ。二人に憎まれても仕方がない。

 

 あれ? でもなんで、更科さんが芥川くんを憎むんだ? 彼女をとられた五十嵐先輩はわかる。けどどうして更科さんが? 芥川くんにすがりつく更科さんは、彼を憎んでいるようには見えなかったのに。

 やっぱりおかしい。芥川くんと更科さんの間には、もっと深い事情があるんじゃ……。

 疑問と同時に、痺れるような不安が込み上げてくる。ダメだ。関わらないって決めたじゃないか。

 息が苦しくなり、ぼくは小さな声で言った。

「……遠子先輩。さっき遠子先輩は、芥川くんは誰かを庇ってるんじゃないかって言いましたね? 今の話だと、芥川くんが庇うほど大事な相手----または負い目を持っている相手は、更科さんと五十嵐先輩の二人ということになりますよね」

「ええ」

 遠子先輩がうなずく。

「どちらを芥川くんは庇っていると、遠子先輩は考えているんですか?」

「わたしは----」

 桜色の唇をためらいがちに開いたとき、遠子先輩のポケットで、ピピッと音がした。ポケットから取り出したのは携帯電話ではなく、愛用の銀色のストップウォッチで、普通の時計もついているらしく、それを見て、

「きゃあ、あと五分で休み時間が終わっちゃうわ」

 と目を丸くする。

 ぼくらは慌ただしく立ち上がり、部室を出た。廊下を走りながら、遠子先輩が早口で言う。

「本を切った犯人が誰なのか、わたしもまだよくわからないの。どうして、その人が本を切ったのかも」

 別れ道の階段の前で、遠子先輩はふいに立ち止まった。

「あのね、心葉くんが怖がるかもしれないから、黙っていようと思ったんだけど、生物部のうさぎが、また一羽いなくなったんですって。今朝、生物部の子が心配してたわ」

 耳をつかまれ血をしたたらせているうさぎを思い出し、息をのむ。そんなぼくの腕を、遠子先輩が強く引き寄せ、勇気づけるように耳元で言った。

「ね、今日は絶対に、練習に来なくちゃダメよ。今日は、みんなで衣装あわせをするんだから。きっとよ? 約束よ?」

 耳に湿った息がかかり、やわらかな唇が一瞬触れて、離れる。

「じゃあ、放課後ね! サボったらお家まで迎えにいっちゃうからね!」

 笑顔でそう告げて、階段をぱたぱたと駆け上がっていった。

 遠子先輩……スカートの中、見えてる。ハーフパンツを穿いて----いや、ない。

 白だ。

 耳と頬がじわじわと熱くなってゆく。ぼくも慌てて自分の教室へ向かった。

 と、そのとき。

 廊下を歩いている芥川くんが、視界をよぎった。

 火照った顔に、いきなり水をかけられたような気がした。

 もうすぐ五時間目の授業がはじまるのに、どこへ行くのだろう。サボり? 芥川くんが?

 いや、ダメだ、見なかったことにするんだ。ついて行こうなんて考えたらいけない。関わっちゃダメだ!

 喉がからからになるほど激しく葛藤しながら、ぼくの足は心を裏切って、彼が消えたほうへ向かっていた。

 廊下の角を曲がると、階段を下りてゆく足音がした。息を潜め、耳をすましながら、後を追う。頭上で、五時間目の開始を告げるチャイムが鳴り響く。教室へ戻らなきゃと焦るのに、どうしても足を止めることができず、そのまま進んでゆく。首筋に冷たい汗がにじんだ。

 辿り着いたのは、下駄箱が並ぶフロアだった。アルミの下駄箱に身を隠しながら、芥川くんを捜す。

 すると、ぼくらのクラスの下駄箱の前に立っている彼を見つけた。

 手にした封筒を険しい表情で見おろしている。今、下駄箱から取り出したのだろうか?

 前にぼくが見た白い長方形の封筒ではなく、天使の羽が白く浮き上がっている空色の封筒----。竹田さんが持っていたバインダーと同じシリーズで、美羽も好きだったやつだ。差し出し人は、女の子だろうか。

 芥川くんの眼差しに、激しい怒りがこもっているのを感じ、体がすくんだ。

 以前、ポストの前に立つ芥川くんを見たときは、切なそうな苦しそうな顔をしていた。

 けれど今、芥川くんの目に浮かんでいるのは、火のような憎しみと憤りだった。

 芥川くんが、手紙を破く。

 びりっという音に、心臓が跳ね上がった。

 破いた手紙を重ね、さらに二つに裂き、芥川くんは下駄箱の脇にあるゴミ箱のほうへ歩いてゆき、手紙を捨てようとした。

 が、そこで、ふいに、手を止めた。

「……っ」

 小さく唸り、迷うように瞳を細める。奥歯をぎりっと噛みしめると、手紙を握りしめ、ぐちゃぐちゃになったそれを、ズボンのポケットに無造作に押し込んだ。

 ぼくが見たのはそこまでだった。胸を押し潰す緊張感に耐えかねて、ぼくは教室に逃げ帰った。

 先生はまだ来ていない。

 十分くらいして、授業の最中に後ろの戸を開けて入ってきた芥川くんは、

「すみません、図書室で調べ物をしていて遅れました」

 と先生に頭を下げ、席についた。ぼくはとっさに彼のズボンのポケットへ視線を走らせたが、外から見た分には、特に変わりないようだった。

 あの手紙は、誰から来たものなのだろう……。

 そんな疑問と、もう関わっちゃダメだという思いが、胸の中で暗く渦巻いていた。

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 あなたは、わたしを好きなのでしょう。

 きみはためらいもなく手紙にそう書いて寄越した。

 あの事件以来、オレは異性と親しくなることを避けていたし、恋をすることなど決してないだろうと思っていた。

 けれどあの冬、きみを見かけたとき----きみが、この世でもっとも汚らわしい、憎むべきものを見るような眼差しでオレを睨み、オレをひどく罵ったとき、オレは胸を貫くような熱い痛みを覚えたのだ。

 オレを容赦なく罵倒するきみを、美しいと思った。頬の鮮烈な赤さや、きらめくような瞳の鋭さに見惚れ、目が離せなかった。

 きみに、オレを受け入れる気持ちが一欠片もないことは、わかりすぎるくらいわかっている。きみはただ、きみ自身の、暗く残酷な渇望を満たしたいだけなのだと。

 オレもまた、きみの心を得られるような立派な人間ではない。

 なのにオレは、きみのもとへ向かわずにいられなかった。きみに会い、その冷たい眼差しで見つめられたかった。オレに毒を吐くその声を聞きたかった。

 オレはきみに、責められることを望んでいたのかもしれない。

 皆がオレのことを、誠実で立派な人間だと褒めそやす。なので、本当はそうではないのだと----おまえなど罵倒されて当然の、下劣な人間なのだと、思い知らせてほしかったのかもしれない。

 きみは、オレに学校の話を聞きたがった。

 どんな風に毎日を過ごしているのか? 友達はいるのか? 彼女はいるのか?

 言葉の端々に棘を隠しながら問いかけ、青く張りつめた顔でオレの言葉に耳を傾け、そうして、いつも最後は不機嫌になり、

「もう帰って」

 と言った。

 それからだんだんと過去の出来事に対して、醜い言葉を口にするようになり、ある日、とうとうオレに決断を迫ったのだ。

 そうなったきっかけがなんであるかは、わかっている。きみが、救いのない真っ暗な迷路の中で、過去の記憶に縛られ、切りつけられ、苦しみもがきながら、戦い続けているということも。

 きみの願いを叶えたい。

 それが、オレの贖罪でもあるから。

 けれど、たとえきみを救えても、それを行えばオレは卑劣な裏切り者になってしまう。

 きみの願いは、汚い! 正しくない! 人を傷つけるものだ!

 なのにきみはそれをしろと、オレに求めるのか? オレに、誠実でない行為を命じるのか?

 どうか、もう手紙を寄越さないでくれ。オレの心を試すようなことを書かないでくれ。

 きみの無神経さや傲慢さに、震えるほどの怒りを感じる。

 オレは確かにきみに惹かれている。それは認める。けれど、これ以上愚かな人間にはなれない。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

「うわぁ、ななせちゃんも千愛ちゃんも、可愛い〜」

 振り袖と袴に着替えた琴吹さんと竹田さんを見て、遠子先輩は歓声をあげた。

 髪の両側に付け毛をし、それぞれに赤いリボンを結んだ琴吹さんが、恥ずかしそうにもじもじする。

 放課後。家に帰ろうか迷っていたところへ、胸の前で腕を組んだ琴吹さんが立ちはだかり、「今日は衣装あわせをするんだからサボんないでよ」と唇を尖らせ睨んできた。

「ほら、芥川もぐずぐずしないで! 練習行くよっ」

 何故か仕切り、ぼくと芥川くんをホールへ追い立てたのだった。

 杉子の衣装を身につけた琴吹さんは、そのときと別人のように頬をうっすらと染め、うつむいている。着付けは、茶道部の三年生に頼んだようだ。女の子って服装で変わるんだなと感心していたら、ちらっと視線を上げて唇を突き出した。

「な、なに……っ。なに、見てんの、文句あるの?」

「いや、着物と袴、似合うなと思って」

 正直に伝えたら、真っ赤になってしまった。

「や、バカ、井上のくせになに言ってんの。どーせまたお世辞でしょ。バカ、バカバカ」

「えっと、本当なんだけどな」

「えっ!」

 琴吹さんが絶句する。ぼくは微笑んだ。

「琴吹さんも竹田さんも、とっても似合っているよ」

「わぁ! ありがとうございます、心葉せんぱ〜い!」

 裾の長い紺色のリボンを頭につけた竹田さんが振り袖の裾を揺らして、えへへと笑う。

 逆に琴吹さんは、不満そうに唸り、「やっぱり井上最低っ!」と、そっぽを向いてしまった。

 え? な、なんで怒ってるんだろう。

 悩むぼくの横で、遠子先輩は嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねている。

「あぁん、振り袖のご令嬢風にしようか、袴着のハイカラさんにしようか迷ったけれど、大正解! やっぱり大正|浪漫はリボンに袴のハイカラさんよねぇ」

 そんな遠子先輩は、立て襟の白い洋シャツの上に、かすりの着物を羽織っていて、ぼくと芥川くんも同じような格好をしていた。

「えへっ、遠子先輩も、倒錯的で素敵ですよぉ」

「きゃあ、本当? 千愛ちゃん」

「はい。よろめいちゃいそうですぅ」

「や〜ん、女の子からラブレターが、たくさん来ちゃうかも〜」

 中庭に設置してある恋愛相談ポストが、直筆で書かれた甘いラブレターであふれかえる様子を想像したのか、遠子先輩が夢見る眼差しになる。シャツと着物に包まれた胸は真っ平らで、予想通りなんの違和感もないけれど、さっきから猫の尻尾みたいに跳ねている長い三つ編みは、どう見ても日本男子には見えない。と思ったら、焦げ茶色の鳥打ち帽をかぶり、その中に三つ編みをくるくるとまとめて入れてしまった。

「ほら、これで、ますます美少年になったでしょう?」

「はい、遠子サマ〜って呼びたいです」

「呼んで、呼んで〜」

「速子サマ〜」

「千愛っ!」

 二人ともすっかりノリノリで抱きあって、きゃーっと叫んだりしている。

「竹田うかれすぎっ」

 琴吹さんが苦い顔をすると、竹田さんは琴吹さんにかばっと抱きついた。

「やぁん、ななせ先輩のことも、愛してますよぉ。お姉サマぁ」

「ばっ、やだ、こら、離れなさいよ」

 抱きつかれた琴吹さんが、目を白黒させる。

 そんなにぎやかな雰囲気の中、ぼくは息を潜めるようにして、芥川くんのほうをうかがった。

 芥川くんは憂鬱そうな表情で、考え事をしているようだ。ピンと伸びた長身に暗い色の着物がよく似合っていて、硬派な魅力とともに禁欲的な色気を感じさせる。きっと女の子のお客さんは、ぼうっとしてしまうだろう。けれど、伏せた目には暗い影がにじんでいる。

 胸の奥が疼いた。あまり見つめていると、彼が抱えている苦しみに引き寄せられてしまいそうで、慌てて目をそらした。

「じゃあお稽古をはじめましょうか」

 遠子先輩のかけ声で、衣装をつけての立ち稽古がはじまった。

 杉子と大宮のピンポン対決からで、兄の友人たちを、杉子が得意のピンポンで次々打ち負かし褒めそやされる。

『次は野島くん、どうですか?』

 恋敵の早川の勧めに、野島は閉口する。彼はピンポンが得意ではない。なのに周りが囃し立て、杉子と勝負をせざるをえない状況に追い込まれたとき、大宮が進み出る。

 

『野島の代理を僕がしましょう』

 

 そのとき、着物姿の芥川くんの胸元が、ブルブルと振動した。

 芥川くんの表情がこわばる。ぼくも息を止めた。

「すみません」

 苦い声でつぶやくと、芥川くんはその場で携帯電話を出して画面を確認した。

 次の瞬間、張り裂けそうなほど目を見開き、息をのんだ。

「すぐに戻ります。本当にすみません」

 早口で言い放つなり、唇を噛みしめステージから降りる。

「あっ、芥川くん!」

 遠子先輩が声をかけても振り返らず、シートの間を走り抜け、ホールから出て行ってしまった。

 取り残されたぼくらは、不安げに見つめ合った。

「芥川、前も、携帯を見て、出てっちゃったことがあったよね」

「なにかあったんでしょうか」

 竹田さんが、ぼくにそっと視線を投げかけてくる。裏庭で、土下座していた芥川くんを思い出す。あのとき芥川くんは、五十嵐先輩に無抵抗のまま殴られていた。

 もし、着信相手が五十嵐先輩だったら----。

 いいや、ぼくには関係ないし、どうしようもない。これ以上考えるな。

 と、目の前を、ひらひらしたものが横切った。

 それが遠子先輩の着物の袖だとわかったとき、遠子先輩はステージから勢いよく駆け降りていた。鳥打ち帽がばさりと落ち、三つ編みがしなやかに舞う。

「心葉くん! 行くわよ!」

「ってどこへ!」

 仰天するぼくに、着物の裾を手で持ち上げて、太もものあたりで結びながら答える。

「芥川くんを追いかけるのよ!」

 そのまま足をむき出しにした格好で、シートの間の通路を、走り出した。

 ぼくも慌ててステージから降り、遠子先輩の後を追う。それを見て、琴吹さんと竹田さんまで、振り袖に袴着のハイカラさんルックでついてくる。

 小ホールの外の廊下をばたばた駆け抜け、フロアを通り過ぎ、建物の外へ飛び出して、そこからまた走ってゆく遠子先輩は、もはや男装の麗人からも、しとやかな文学少女からもほど遠く、時代劇に出てくる天秤をかついだお魚屋さんか、火事の現場にかけつける女火消し人のようだった。

 もう芥川くんには関わらないつもりだったのに、どうしてわざわざ火の中に飛び込むような真似をしなきゃならないのかとか、引き返したほうがいいんじゃないかとか、走りながら考える。

 けど、すぐ目の前を、三つ編みをなびかせた遠子先輩が駆けてゆく以上、ぼくだけ引き返すわけに行かない。目を離したら、遠子先輩が、なにをしでかすかわからない!

 すれ違う生徒達が、驚きの眼差しをぼくらに向ける。

「待って! 待ってください! 遠子先輩!」

 遠子先輩は、ぼくの声など耳に入っていない様子で爆走している。どうでもいいけど、芥川くんがどこへ行ったのか、遠子先輩は知っているのか? 適当に走ってるんじゃ。

 けれど、遠子先輩なりに見当をつけていたようで、校舎にぶつかると、そこから裏手に向かって突き進む。裏庭をのぞいてみるつもりなのだろう。

 そのとき、空気を切り裂くような悲鳴が聞こえた。

「いやあああああああああ!」

 女の子の声! まさか、更科さん!?

 建物の角を曲がったとたん、遠子先輩の動きが止まり、根が生えたようにその場に立ち尽くした。

 ぼくもまた、目の前に広がる悪夢のような光景に、心臓をつらぬかれた。

 後ろで、琴吹さんが「ひっ」と悲鳴を飲み込む声がする。

 芥川くんは、手に彫刻刀を握りしめて立っていた。V字の形をした刃から血が滴り落ち、その先に、体格のよい男子生徒がうずくまるようにして倒れていた。地面に血の池が広がり、それを芥川くんは虚ろな目で見おろしている。

 芥川くんの横では、制服の前を血まみれにした更科さんが草の上に膝をつき、頭を抱えて泣き叫んでいた。

「いやああああ! どうして! どうしてこんなこと! あの女のせいよ! あの女がやったのよ! あの女が、先輩を刺したのよぉぉぉぉぉ!」

 突然、腕をぎゅっとつかまれた。

 琴吹さんだった。

 目を見開いたまま震えている。足がよろめいて倒れそうになる琴吹さんを、ぼくは支えた。

 竹田さんは静かな眼差しで状況を見つめている。遠子先輩は、ぼくに背を向けて立ち尽くしている。

 更科さんの声を聞いて、人がどんどん集まってきた。後ろで女の子たちの悲鳴がいくつも上がり、人混みをかきわけ、先生たちがやってくる。

 惨状に息をのみ言葉を失う彼らに、芥川くんは背筋を伸ばし、感情のこもらない乾ききった表情で言ったのだった。

「オレが五十嵐先輩を、刺しました」

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 もう限界だ。眠れない。布団に入って横になっても、体は泥のように重く疲れ切っているのに、頭がぴりぴりと冴え渡り、心の中で凶暴な生き物が荒れ狂っている。

 また今日も、きみから手紙が届いた。一体この手紙を書くのに、きみはどれほどの時間を費やしたのだろう。それも憎しみゆえか。そんなに憎いのか? 許せないのか? 頼む、責めないでくれ。オレは弱い人間だ。これ以上、責められるのは耐えられない。

 家で畳に、襖に、ノートに、教科書に、うさぎに、カッターナイフを入れてみた。英語のテキストをばらばらに切り裂き紙吹雪のように頭の上にまき散らし、襖に十宇の印を刻み、うさぎの手足を切断した。

 けれど、霧は晴れない。胸の奥の咆哮も鳴りやまない。胸に彫刻刀を刺した少女も、俺を責め続けている。

 引き裂きたい、切り裂きたい、滅茶苦茶に壊したい、全部、なにもかも、きみも世界も過去も未来も嘘も本当も、切り裂きたい、切り裂きたい、切り裂きたい、切り裂きたい----。

 

 お母さん、俺はすでに狂っています。

[#ここまで太字]

[#改ページ]


最后编辑于:2015-05-06 19:44

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