�文学少女�と繋がれた愚者《フール》:六章 愚か者の迷宮

发表于:2015-05-05 19:06 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-05 19:04~2015-05-31 02:30
地点: 南京
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五章 あのとき、きみが泣いたので

 

 辿り着いたのは、夏に琴吹さんが入院していた総合病院だった。

 薬の匂いのする白い廊下を、芥川くんがゆっくり歩いてゆく。

 ここまで、彼はほとんど口を開かなかった。ぼくも黙ってついてゆく。

「……」

「……」

 個室に入ると、ベッドに、三十代半ばくらいに見える小柄な女性が横たわっていた。

 口や体にチューブのついた器具がいくつもつけられ、目を閉じたまま動かない。

 その人を見おろし、芥川くんが吐息のような声でつぶやいた。

「……オレの母だ。オレが十一のときからずっと、この状態で入院している」

 胸に衝撃が突き刺さった。

 ずっとこのまま!? 芥川くんが十一歳のときから? 一度も目覚めず?

 綾女さんが、辛そうに語っていたことを思い出す。

 

『事件のすぐあとに母が入院してしまったの。母は前から具合が悪くて、入院と退院を繰り返していたのだけど、今度はいつ退院できるかわからなくて……』

 

 いつ退院できるかわからない。あの言葉が、こういう意味だったなんて----。

 ベッドの横のテーブルに、オレンジやグレープフルーツを盛った籠が置いてあり、甘酸っぱい香りを漂わせている。

 その横に、未開封の白い長方形の封筒が、ざっと見ただけで十通以上は重ねてあった。

 病院気付で、受取人は『芥川|淑子様』となっている。それを見たとき、ぼくは芥川くんが投函していた手紙が、誰に宛てたものだったのかを理解し、喉が震え、泣きそうになった。

 芥川くんが封筒を一通、手にとる。伏せた目が、受取人の名前を寂しそうに見つめる。

「いくら手紙を書いても、母が読めないことはわかっている……。けど、だからこそ、気持ちを抑えられなくなったとき、それを手紙に吐き出して、送らずにはいられなかった。そうすると、母にすべて受け止めてもらえたような気がして、楽になれた」

 つぶやくように淡々と語られる。言葉は、静かな分だけ、哀しみがにじんでいるように思えた。

「母はオレを産んだせいで体を壊してしまったのに、決してオレを責めなかったし、いつも優しく微笑んでくれた」

 綾女さんが言っていた。

 芥川くんは、子どもの頃から自分でなんでもやる子だったと。

 それは、お母さんに心配をかけないためだったのではないかと。

 芥川くんが手紙をテーブルに戻し、またお母さんへ視線を向ける。

 淡く切ない眼差しと、哀しみに満ちた横顔。

「たとえオレが、どんな醜い感情を心に抱いていたとしても、この世でただ一人母だけは、オレを許してくれるだろう。だからオレは、母にだけは嘘をつけない。いつも本当の気持ちを手紙に書いてきた」

 

『あたしたちも、母のことと自分たちのことで手一杯で、一詩を気遣ってあげる余裕がなかったのよ』

 

『大人びているけど、あのとき一詩はまだ、たった十一歳の小学五年生の男の子だったのにね……』

 

 六年前の事件のことを、芥川くんは手紙に書いたのだろうか。

 それに、今度の事件のことも----。

 

 芥川くんが、籠に盛られたオレンジを手にとり、ぼくに差し出す。

「庭へ出ようか」

「うん」

 ぼくはオレンジを受け取り、ぎこちなくうなずいた。

 

 病院の中庭のベンチに並んで座り、少し苦いオレンジを食べながら、小学校へ行ったことを、彼に打ち明けた。

「ゴメン……関わるなって言われたのに」

 芥川くんはあまり驚かなかった。オレンジの房を口に含み、静かな声で言った。

「……いいや。オレも腕を切ったときは、どうかしていたんだ。全部切り裂いて終わりにしたいという衝動を抑えられなかった」

「あのとき、『鹿又はまだ、オレを許してない』って言ったのは何故?」

 おずおずと尋ねると、太い指で二個目のオレンジの皮をむきながら、暗い顔で答えた。

「そうだな……事件のあともずっと、オレの中に小学生のままの鹿又が住んでいて、ときどき、話しかけてくるんだ。『どうして、約束を破ったの?』『あなたが裏切らなかったら、あんな騒ぎにならなかったのに。誰も苦しまなかったのに。わたしの傷は、永久に消えないわ』って----」

 一度も会ったことのない鹿又さんの声が、耳元で聞こえたような気がして、背筋がゾクッとした。

「約束ってなに? 一体……六年前に、なにがあったの? 何故、きみは鹿又さんがいじめられていると思ったの?」

「鹿又の教科書やノートが、滅茶苦茶に切られていたからだ。それも頻繁に」

 オレンジをむく手を止め、芥川くんが六年前のことを語りはじめる。

 二学期に席替えで、鹿又さんの隣になったこと。国語の授業中、ふと隣の席を見ると、ページが縦や斜めに切り裂かれた教科書を、鹿又さんが泣きそうな顔で見おろしていたこと。

 芥川くんに見られていることに気づくと、鹿又さんは慌てて教科書を閉じ、休み時間に「このことは誰にも言わないでね。先生にも内緒にしてね」と繰り返し頼んだ。

 けれどそのあとも、鹿又さんの持ち物は切られ続けた。

 ペンケースに走るカッターの痕、ゼッケンを裂かれた体操服、可愛らしいキャラクターの絵が描かれた下敷き、水色のハンドタオル----それを見つけるたびに、鹿又さんは泣き出しそうに顔をゆがめ、恥ずかしそうにこそこそとしまい込む。

 そうして芥川くんに、「誰にも言わないで。約束して」と懇願するのだった。

 鹿又さんとの約束を守るべきなのか、担任の先生に助けを求めるべきなのか、芥川くんは葛藤した。けれど鹿又さんが、あんまり必死に頼むので、約束を破ることはできなかった。代わりに芥川くんは、鹿又さんの荷物を彼のロッカーにしまうよう言い、お姉さんの古い教科書を持ってきて渡し、気遣った。

 鹿又さんも芥川くんを頼るようになり、やがて二人は友達になった。

「鹿又は、両親とうまくいってないようだった。父親は硬い職業の人らしく、成績が下がるとひどく叱られて息苦しいと、よく話していた。『笑』という名前も嫌いだと」

 

『あたしが生まれたとき、山が笑ってたんだって。お父さんの言うことは、いつもわけわかんないよ。�笑�なんて名前嫌い。だって、お父さんたちの前では笑えないんだもん』

 

『あたしはずっと、あの人たちと闘ってるんだ』

 

 時折、ドキリとするような発言をする鹿又さんは、大人しそうな外見に反して芯の強い少女だった。二人は放課後になると、図書室で宿題をしたり本を読んだりして過ごした。

 

 『あたし、教科書の中で、芥川龍之介の�蜜柑�が一番好き。だって、作者が芥川だから』

 

『ね、芥川くんは、あたしの味方だよね? あたしたち、ずっと友達だよね?』

 

「そういえば、鹿又ともこんな風に、オレンジを食べたことがあったな……。遠足のときだったかな……」

 芥川くんが、遠くを見る眼差しになる。

「鹿又は女子だったが、大事な友達だったんだ」

 先生に話すべきでは、いや、友達との約束を守らなければという葛藤は、芥川くんの中でずっと続いていた。

 ある日、芥川くんは、小西さんというクラスメイトが、鹿又さんを責めているのを見てしまった。鹿又さんは泣きそうな顔で耐えていた。小西さんは以前からよく芥川くんたちを睨んでいたので、小西さんが嫌がらせの犯人ではないかと、芥川くんは疑った。

 鹿又さんに、「小西と喧嘩しているのか?」と尋ねると、顔をこわばらせ怯えた様子で黙り込んでしまったので、小西さんへの疑惑は一層深まった。

 その頃、鹿又さんは芥川くんの机に教科書やノートをしまっていたのだが、ある日、芥川くんが渡した古い教科書の表紙が、滅茶苦茶に切られているのを見て、鹿又さんは我慢できなくなってしまったのだろう。

 教科書を抱きしめて、「ごめんね……せっかく、芥川くんがくれたのに、ごめんね。本当にごめんね」と、ぽろぽろ泣き出してしまった。

 それを見て、芥川くんは担任の桃木先生に、鹿又さんが陰湿ないじめにあっていると打ち明けたのだ。

 桃木先生は小西さんを呼び出し、事情を聞いたらしい。小西さんは悔しそうに黙り込み、「鹿又さんと仲良くできるわね」という先生の言葉に、震えながら「……はい」とうなずいたと、先生は語っていたという。「これできっとうまくいくわ」と。

 

「小西は、鹿又をいじめてなどいなかったんだ。小西だけではなく、クラスの誰も----」

 

 芥川くんが、辛そうにうつむく。

「教科書やノートを切っていたのは、鹿又自身だったんだ」

 ぼくは息をのんだ。

「どうして、鹿又さんは自分の教科書を切ったりしたの?」

「推測でしかないが、多分、両親に対する鹿又なりの抵抗だったんだろう。あるいは『助けてほしい』という両親への無言のSOSだったのかもしれない。でなければオレのように、なにかを切り裂きたいという衝動が抑えられなくなってしまったのか……。

 確かなことは、オレが鹿又との約束を破ったために、鹿又は本当にいじめられるようになり、ある日、彫刻刀で小西に切りかかったということだけだ。事件が公になり鹿又の父親は仕事を続けられなくなり、鹿又は転校していった。桃木先生も教師を辞めた。オレの軽率な行動が、みんなの生活を壊したんだ」

 

 ----あなたのせいよ[#「あなたのせいよ」に傍点]。

 

 教室で、先生に糾弾されたときの彼の気持ちを思い、胸が裂けそうになる。芥川くんはただ、泣いている鹿又さんを放っておけなかっただけなのに。そのことが、逆に鹿又さんを追いつめてしまったなんて----。

 鹿又さんは、今も小学生の姿のまま芥川くんの心の中に住み続け、彼を責め続けている。

 食べかけのオレンジを手に持ち、硬い表情で唇を噛みしめている芥川くんに、ぼくはそっと尋ねた。

「ヘンなことを訊くけど、きみの部屋に転がっていたピンクのうさぎ。あれは、なんなの?」

 芥川くんが、疲れ切っている声でつぶやく。

「あのうさぎは……誕生日のプレゼントだったんだ。……女の子の店ヘ一人で入るのは気が引けたので、鹿又と一緒に行って選んでもらったんだ。『これがいい』と、鹿又が言ったから……。けど鹿又が転校したあと、『蜜柑』と一緒に送り返されてきた」

「蜜柑……?」

 問いかけると、顔をあげ、寂しそうに微笑んだ。

「教科書に載っていた芥川龍之介の『蜜柑』だ。その部分だけを切り取ったものが、首を切られたうさぎと一緒に送られてきた。芥川という名前を見るのも嫌だったんだろう」

「そんなことって……」

 喉がつまって、声が途切れた。

 ひどすぎる。芥川くんが悪いわけじゃないのに。

 芥川くんはまた目を伏せた。

「あの事件のあと、母が今のような状態になったとき、罰を受けているような気がした。あれ以来、二度と他人を傷つけることがないように、賢く誠実な人間であろうと注意深く行動してきたつもりだったのに……。三角関係でもめて、先輩を傷つけるなんて……オレはやはり最低の人間だ」

 そうじゃない。きみは最低なんかじゃない。きみのせいじゃない。そう言ってあげたかった。

 けれど言えなかった。

 怖くて----。

 ただ怖くて。

 その場かぎりの慰めの台詞を口にしたら、また詰られそうな気がして。体が震えそうになるほど、それが怖くて----。

「遠子先輩は、五十嵐先輩に怪我をさせたのは別の人なんじゃないかと言ってたよ。芥川くんは、その人を庇っているんじゃないかって」

 ぼくは卑怯だ。自分の気持ちは伝えることはできないから、遠子先輩の言葉を伝える。それが精一杯だった。

 芥川くんの顔に驚愕が浮かぶ。やがてそれは、強い苦しみと哀しみの表情に変わった。震えそうになるのを耐えるように、手を握りしめ、彼は言った。

「五十嵐先輩を刺したのは、確かにオレだ。あの彫刻刀もオレのものだし、なにもかも全部、オレがやったんだ」

 彼が、誰を庇っているのか。ぼくももう、見当がついていた。選択肢はあまりにも少なく、答えははじめから見えていたのだ。

 だけど、心の中までは推し量れない。何故、芥川くんがこうまで自分を犠牲にしなければならないのか。過去の罪悪感から? それとも……。

「芥川くん。更科さんはもしかしたら、きみのクラスメイトの----」

 芥川くんがギリッと奥歯を噛みしめる。ぼくの問いを遮るように立ち上がると、厳しい眼差しで言った。

「オレは、過去に繋がれているんだ。それを断ち切ることは、できない。オレは、自分がしたことの責任を果たすつもりだ」

 そうして、ぼくに食べかけのオレンジを渡し、

「すまない、これも片づけてくれ。先に学校へ戻る」

 そう告げて、背筋を伸ばし歩き出した。

 ぼくはとっさに尋ねた。

「もうひとつだけ聞かせて、芥川くん。きみは更科さんが好きだから、彼女とつきあつたの? 今も、好きなの?」

 振り返った芥川くんは、澄んだ哀しそうな目をしていた。

「好きだったことも、ある。だが、オレは今、会いたい人がいる。それは更科じゃない」

 

 一人になったあと、ぼくはベンチに座ったまま、残されたオレンジを食べた。

 硬い皮を指でむき、房をとり、口に入れる。

 苦いような酸味に、鼻の奥がツンとした。

「くしゅん」

 後ろでくしゃみがしたので振り返ると、木の後ろに遠子先輩が膝を抱えてしゃがみこんでいた。

「なんで、いるんですか!」

 目をむいて尋ねると、スカートについた草を、赤い顔でぱたぱた払って立ち上がり、気弱そうに、恥ずかしそうに言った。

「学校へ行く途中、心葉くんと芥川くんを見かけたから……ついてきちゃったの」

「ずっと盗み聞きしてたんですか?」

「……ごめんなさい」

 ぼくの隣に腰をおろし、両手を膝に乗せてしゅんとする。

「怒ってる?」

「いまさらです。あきらめてます」

 静かにつぶやいて、オレンジの皮をむく。本当は、顔を見て、少しホッとした。

「それ……わたしも、もらっていい?」

「味が、わからないんでしょう」

「いいの。ちょうだい」

 ぼくは皮を全部むき、残ったオレンジを半分に割って、片方を遠子先輩に差し出した。

「ありがとう」

 遠子先輩が一房とって口に入れ、黙って飲み込む。

 ぼくも自分のオレンジを食べる。

「芥川龍之介の『蜜柑』って、どんな話でしたっけ」

「……語り手である�私�が汽車の中から見た、一瞬の、美しい、優しい、鮮やかな風景を描いた物語よ。小学校の教科書では『みかん』は漢字ではなく平仮名になっていたわね。

�私�は、同じボックス席に乗り込んできた、粗末な身なりの、愚鈍そうな田舎娘に、ひどい苛立ちを覚えるの。トンネルに入る前、娘が窓を開けたために、中は煤煙まみれになり、�私�の怒りは頂点に達するわ。けれど、そのトンネルを抜けた先に、小さな男の子たちが、奉公先に向かうであろう姉の見送りに来ていて、その子たちに向かって、娘は窓から、次々蜜柑を投げるのよ。

 夕暮れの暖かな日の中、蜜柑が鮮やかに舞うの。それを見て、�私�は急に朗らかな気持ちになるのよ。

 胸がしめつけられるほど甘くて、酸っぱくて、幸せな味がするの。このオレンジの味に似ているわ。酸っぱいけれど……胸に深く染みるの」

「オレンジ、甘くないですか?」

「ううん……酸っぱいわ」

 小さな声で「多分」と付け足し、顔を赤らめ、もう一房、口に入れる。

 ぼくも、つぶやいた。

「そうですね……酸っぱいですね」

 酸っぱいオレンジを食べながら、遠子先輩がつぶやく。

「あのね……更科さんのこと、調べてみるって言ったでしょう。更科さんね、小学校五年生のときに、ご両親が離婚して転校しているのよ。更科というのは、お母さんのほうの苗字なの」

 オレンジを食べる手を止め、聴き入るぼくに、遠子先輩は少し哀しそうに言った。

「更科さんの昔の苗字は……」

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 恋をしたのは、一人で泣いている姿を見たときだった。

 タ暮れ時、金木犀の生け垣の向こうに、母親と言い争う少女がいた。母親が少女の言葉に取り合わず、家に入ってしまうと、取り残された少女は庭で膝を抱え、体を小さく丸めて肩を震わせた。

 声を殺して泣く頼りなげな姿が、オレの知っているその少女と、あんまりにも違っていて、驚きとともに胸が痛くなり、金木犀の甘い香りに目眩がした。

 二度目の恋も、泣いているきみを見つけた瞬間に、はじまっていたのかもしれない。

 きみはそのことを屈辱に思い、オレを憎み、罵ったけれど、オレはきみに惹かれていった。

 こんなオレには、人を好きになる資格なんてなかったのに。

 きみに逢いたい。

 とても逢いたい。

 逢いたくて、逢いたくてたまらない。

 強く戒めながらも、足がきみのもとへ向かおうとしてしまう。きみにすべてをゆだねたくなる。きみの望みをすべて叶え、黒い闇に染まってしまいたくなる。どこまでも墜ちてゆきたくなる。

 せめて、きみの気配だけでも感じたい。

 声だけでも聞きたい。

 逢いたい。

 あいたい。

 けど、今のオレではきみに会えない。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 学校に戻ったのは、昼休みだった。

 にぎやかな教室に、後ろの出入口からそっと足を踏み入れると、背中で棘のある声がした。

「重役出勤? のんきだね」

 振り返ると、琴吹さんが胸の前で腕を組み唇を尖らせて、ぼくを睨んでいた。

「わ!」

「なにその反応」

「いや、突然声をかけられてびっくりしたから。おはよう。琴吹さん」

「もう、こんにちはだよ」

 つっけんどんに言ったあと、声を潜めた。

「芥川、来てるよ。三時間目からだけど」

「そう。よかった」

 なにも知らないふりをして、つぶやく。

「今、先生に呼ばれて職員室へ行ってるけど、すごく落ち着いてて、みんなにも挨拶していたし、元気そうだったよ」

 口調はぶっきらぼうだけど、きっと琴吹さんも芥川くんのことを心配していたのだろ、つ。

 と、そっぽを向いていた琴吹さんが、急にこちらを見て不安そうな顔になった。

「……更科も、今日から登校したみたい。さっきうちのクラスに来てた。芥川がいないんで、すぐ帰ったけど。忘れ物を届けに来たとか言って、机になにか……」

 そこへ、芥川くんが戻ってきた。

 ぼくらが立っているのとは反対の入口から教室に入り、席へ向かう。女子が声をかけると、静かに微笑んで一言、二言答える。それから自分の席に着き、次の授業の準備をするため、机から教科書やノートを出そうとしたとき----。

 芥川くんが、ふいに顔をこわばらせた。

 視線を手元に向けたまま目を見開き、凍りついている。なにがあったんだ? ぼくは彼のほうへ歩き出した。

 手前まで来たとき、彼を驚かせたものの正体を知り、冷水をあびせられたように、ぞっとした。

 それは、小学五年生の国語の教科書だった。

 表紙に無数の切り痕が走る教科書を、芥川くんが震える手で裏返す。すると下のほうにサインペンで芥川綾女と名前が書いてあり、その横にシールが貼ってあり、そこに、もうひとつ別の名前が書き込んであった。

 

 鹿又笑[#「鹿又笑」に傍点]と----。

 

 芥川くんは愕然とした目で、教科書を凝視している。

 それは、芥川くんが鹿又さんにあげた、お姉さんのお下がりに違いなかった。事件のあと、家に送られてきたという芥川龍之介の『蜜柑』を切り取った残りの----。

 琴吹さんが言ってた。更科さんが、芥川くんの忘れ物を届けに来たって。

 芥川くんが鹿又さんにあげた教科書を[#「芥川くんが鹿又さんにあげた教科書を」に傍点]、更科さんが[#「更科さんが」に傍点]、机の中に入れていったのだ[#「机の中に入れていったのだ」に傍点]!

 切り裂かれた教科書を見下ろしたまま、芥川くんは、ぴくりとも動かない。ここが教室であることを、忘れてしまっているようだった。

 ぼくは、早足で教室を出た。

 琴吹さんが「あっ」とつぶやくのを聞いたときは、廊下を走っていた。

 ぼくは、芥川くんの友達じゃない。

 彼の問題に関わらないほうがいいことも、わかっている。すでにいくつかの境界を、ぼくは踏み越えている。これ以上はダメだ!

 けれど芥川くんは、じゅうぶん傷ついているし、苦しんでいる。

 もう、いいじゃないか。

 もう彼を解放してやってくれ。

 三組の教室へ行ったけど、更科さんはいなかった。

 高まった熱が引かず、教室へは戻らずに階段を駆け下り、中庭を通り抜け、うさぎが飼われている飼育小屋へ行ってみる。けれどそこにも、更科さんはいない。

 次に向かったのは、図書室だった。昼休みが終わりに近づいているため、貸し出しカウンターの前に生徒が列を作っていて、図書委員の女の子が、一人であたふたしている。

 人の流れに逆らい、ぼくは奥のほうへと進んでいった。

 日本の文学作品が並ぶコーナーまで来ると、以前芥川くんが本を切っていた棚の前に、更科さんが立っていた。

 顔を下に向け、携帯電話でメールを打っているようだ。床に、切り裂かれたページが二枚と、ハードカバーの本--─芥川龍之介の作品集が落ちている。それを拾おうともせず、一心不乱にメールを打ち続けている。

 血走った目で画面を凝視し、ハァハァと荒い息を吐きながら指を動かし続けるその姿は、なにかに取り憑かれている人のようで、ぼくの背中を冷たい汗が流れ落ちてゆく。

 休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り、図書室から慌ただしく人が去っていく声や足音がした。それがだんだん遠ざかってゆく。

 なのに更科さんは、そんなものまったく耳に入っていない様子で、指を動かしている。

 いつの間にか、辺りはシンとしていた。

 ぼくは震えそうな声で、言った。

「芥川くんに、メールしてるの?」

 更科さんがハッとし、顔をあげる。

「芥川くんを呼びつけて、また、自分の罪を被ってもらうの?」

 戸惑いの表情のあと、更科さんは急に、この場に似つかわしくない可愛らしい笑みを浮かべた。

「だって、一詩くんは、わたしの味方だもの。わたしが困っていると飛んできてくれるの。わたしだけのナイトなのよ。わたしと一詩くんは、赤い糸で繋がっているのよ」

 やわらかな口調と、幸せそうな微笑みに、皮膚が粟立った。なにを言ってるんだ、彼女は。

「……生物部のうさぎがいなくなったのも、五十嵐先輩を彫刻刀で切ったのも、きみがやったの?」

 更科さんが不快そうに、顔をしかめる。

「そうよ。わたし、うさぎが大嫌いなの。それに五十嵐先輩は、邪魔だったんですもの。一詩くんを殴ったり蹴ったりして……許せない。だから切ったの、これで」

 スカートのポケットに携帯をするりと落とし、代わりに細く長いものを出す。それが先端がV字の形をした彫刻刀だとわかって、ぼくは息をのんだ。

「ざくって……」

 口元がニッと吊り上がる。更科さんが、彫刻刀で斜めに切る真似をする。

「五十嵐先輩、とっても驚いてた。倒れる前、信じられないって顔で、べそをかいてた。いい気味だわ」

 恐怖で喉が震える。どうしてこんなに澄んだ、嬉しそうな目で、そんなひどいことを平然と口に出来るんだ。あのとき、更科さんは泣き叫んでいたじゃないか。あれは演技だったのか? それとも、自分でなにを言っているのか、なにをしているのかわかってないのか?

 目の前に立っている彼女は、とても不安定で、危うい、なにをしでかすかわからない生き物に見えた。

 図書室は静まり返っている。みんな出ていってしまったのだろうか。

「きみは……五十嵐先輩と……つきあっていたんだろう」

 聞き苦しく途切れがちな声で言うと、更科さんの顔に、いきなり激しい怒りの表情が浮かんだ。

「そんなの、あっちが勝手にそう思ってただけよっ! あんなヤツ大嫌い! 図体ばかりでかくて、軽薄で、エバってて、ところかまわず大きな声でしゃべりまくって! バカ笑いして! はしゃいで! 見に行く映画も、食べに行く店も、メニューも、一人で勝手に決めて、すぐいやらしいことしようとするから! 図々しく肩や手にさわってくるたびに、キャベツみたいに切り刻んでやりたかったわ! あの男と同じ空気を吸うのも嫌っっっ!」

 憎い相手に、石を次々投げつけるような激しい口調だった。ギラギラ光る目と、強く握りしめられた彫刻刀に圧倒され、恐怖とともに立ちすくむ。

「嫌い! 嫌い! 大嫌い! あんなヤツ、二度と視界に入れたくない! 一詩くんのこといじめて! ひどいことして! なのに、またつきあおうなんて言われても、ゾッとする! �また�ってなに!? わたしは、あんたの彼女だったことなんかない! そんなこともわからないの? バカ! 死んじゃえ!」

 憎しみ、痛み、苦しみ、怒り----更科さんの表情が、めまぐるしく入れ替わり、体がぶるぶると震える。

 後ろで、突然、芥川くんの声がした。

「よせ! それ以上五十嵐先輩を貶めるな! 先輩を穢さないでくれ!」

「やっぱり来てくれたんだね、一詩くん」

 デートの待ち合わせでもしていたかのように嬉しそうに微笑む更科さんの前に、息を切らし苦しそうに顔をゆがめた芥川くんが立つ。そうして、絞り出すような声で訴えた。

「……っ、五十嵐先輩は立派な人だった。明るくて、面倒見がよくて、部のみんなにも慕われていたし、オレが一年生で一人だけレギュラーに選ばれて、他の先輩たちが良い顔をしなかったときも、五十嵐先輩だけは心から喜んでくれて、頑張れと肩を叩いてくれた」

 芥川くんの声が掠れる。

「……本当に、いい人だったんだ。だから、先輩に更科を紹介してほしいと言われたときも引き受けたんだ。先輩なら、いいと思って。更科も、先輩と一緒にいるとき、いつも楽しそうに笑ってたじゃないか」

 更科さんの顔から、笑みが引いてゆく。

 芥川くんが痛みを堪えているような顔で、言葉を続ける。

「オレは----二人はうまくいっているのだと思って、安心してたんだ。なのに先輩に暴力を振るわれて、ストーカーをされているなんて嘘をついて……オレを騙して----」

「先に騙したのは、一詩くんのほうじゃない!」

 更科さんが気弱な目になり、叫んだ。

「一詩くんから、試合を見に来てほしいって言われたとき、わたし嬉しかったんだよ。そのあと何度も、試合を見にいって、そのたび一詩くんがわたしのほうへ来て、話しかけてくれて----いつも一詩くんの隣には五十嵐先輩がいたけど、わたしは一詩くんにしか関心がなかったから、気にもとめなかった。

 一詩くんと仲良くなれたと思って嬉しかったし、一詩くんに遊園地へ行かないかって誘われたときも、とっても嬉しかったんだよ! 五十嵐先輩も一緒だったけど、わたしは一詩くんと休日にお出掛けできるだけで、最高に幸せだったの。

 だからいつも一詩くんに誘われると、うんとお洒落して、ドキドキしながら、十分も早く待ち合わせ場所へ行ったんだよ。なのに、そのうち一詩くんは、急用ができたとか、風邪を引いたとか言って、ドタキャンするようになって、いつの間にか、わたしが五十嵐先輩の彼女ってことになってた!」

 芥川くんは答えない。唇を固く結び、眉根を寄せたまま、更科さんの言葉を聞いている。

 胸が焼けつくようだった。芥川くんは騙すつもりなんて、なかったのだ。彼はただ、尊敬する先輩に頼まれるまま、クラスメイトの女の子との仲を、とりもっただけだったのだろう。

 大宮が親友の野島と杉子の仲を、応援したように----。

 けれど杉子が大宮を好きだったように、更科さんの心も五十嵐先輩ではなく、芥川くんのほうへ向けられていたのだ。

 「一詩くんが五十嵐先輩と仲がいいの、わかってたから、一詩くんに嫌われたくなくて、ずっと我慢してた。けど、先輩と二人きりで映画を見たり、ごはんを食べたりするのは、わたしにとって苦痛なだけだった。だんだん、先輩の笑い声を聞くだけで鳥肌が立って、どうしても耐えられなくなって、一詩くんに打ち明けたの。確かに先輩は、暴力を振るったりはしなかったけど、わたしにとっては同じことだった!」

 更科さんが彫刻刀を、ぐっと両手で握りしめ、それを自分の胸のほうへ引き寄せ、張り裂けそうに哀しそうな顔で、後ずさる。

「五十嵐先輩とお別れできて、一詩くんが彼氏になってくれて、やっとわたしたち、幸せになれたのに、どうして一詩くんは別れようなんて言うの? わたしが、先輩を刺したから? あれは[#「あれは」に傍点]、鹿又がわたしに[#「鹿又がわたしに」に傍点]、やらせたんだよ[#「やらせたんだよ」に傍点]。でないと、鹿又が、一詩くんをとってやるって脅したの。わたしは、一詩くんに嫌われるようなことしたくなかった。でも、でも、先輩のこと大嫌いだったし、鹿又が----あのとき、鹿又が----血がわたしのほうに降りかかってきた瞬間も、鹿又が、これは復讐なんだって笑って----おまえも傷つけばいいんだって笑って、だから、わたしは----わたしは、悪くないんだよ!」

 切っ先が、更科さんの喉にあたる。

 青ざめた顔で、芥川くんが唸る。

「彫刻刀を、こっちへ渡してくれ」

「いやっっっ!」更科さんが絶叫する。「答えて[#「答えて」に傍点]! どうして別れるの? もうすぐわたしの誕生日なんだよ! なのにどうして! どうしてっ!」

 芥川くんが、更科さんのほうへじりじりと近づきながら、苦しげに声を押し出す。

「はじめから、そういう約束だったはずだ。五十嵐先輩につきまとわれて困っているから、彼氏のフリをしてほしいと。きみがひどく怯えていたから、オレは、一年の約束で、偽の彼氏役を引き受けた。約束の一年は、先月で終わっている」

 更科さんが、狂気の顔から一転して、泣き笑いの顔になる。

「うん、はじまりはそうだったね。だけどわたしは、一年でサヨナラするつもりなんてなかったから、一年の間に、一詩くんを振り向かせようって頑張ったんだよ。

 クッキーも焼いたし、マフラーも編んだし、髪も伸ばしたし、本当に一生懸命、頑張ったんだよ」

 芥川くんの部屋に散らばっていた、黴の生えたケーキやクッキーを思い出し、ぼくは胸を切り裂かれるような気がした。更科さんの必死の頑張りは、芥川くんには重すぎたのだろうと想像できてしまって……。

「ねぇ? この一年、わたしたちは一度も喧嘩をしたことのない、仲の良いカップルだったよね? 一年の間に、一詩くんはわたしのこと、好きになってくれたはずだよね?」

 芥川くんは答えることができない。顔を一層ゆがめ、唇を噛みしめる。

 それを哀しそうに見つめていた更科さんの顔に、再び狂気が浮かんだ。うるんだ瞳が、憎しみに輝き出す。

「わかった。また、誰かがわたしの悪口を言ったのね? あの女みたいに!」

 次の瞬間、更科さんの視線がぼくを捕らえた。

「!」

 彫刻刀が高々と振り上げられる。

「井上くん? あなたが一詩くんに、わたしのことを悪く言ったの? わたしと別れろってあなたが言ったの!?」

「違う、ぼくは----」

「よせっ! 更科! 井上は関係ない!」

「ねぇ、答えてっ! 答えて、一詩くん! また鹿又が[#「また鹿又が」に傍点]、わたしの悪口を言ったの[#「わたしの悪口を言ったの」に傍点]!?」

 絶叫が轟き、ぼくの視線の先で、彫刻刀の切っ先がギラリと光り、それが今しも振り下ろされようとしたときだ。

 

「やめなさい[#「やめなさい」に傍点]、小西さん[#「小西さん」に傍点]!」

 

 凜とした声に打たれたように、更科さんの動きが止まった。

 静まり返った図書室に、コツコツと足音が響く。

 猫の尻尾みたいな長い三つ編みを揺らした遠子先輩が、ぼくの傍らを通り過ぎてゆく。そうして、更科さんの前に立ちはだかった。

「どうして、いるんですか?」

 唖然とするぼくに、視線を更科さんに向けたまま、さらりと答える。

「千愛ちゃんが知らせてくれたのよ。図書室に更科さんが来てるって」

 ぼくの横から、竹田さんが、ひょっこり顔を出した。

「あたし今日、図書当番だったんです。更科さんの様子がおかしかったんで、遠子先輩を呼びにいったんですよぉ」

 そういえば二人いるはずの図書当番が一人しかいなくて、カウンターの前に列ができてたっけ。

 遠子先輩が問いかける。

「更科さん、あなたは小学五年生のとき、芥川くんの同級生だった小西|繭里さんね?」

「どうして知ってるの?」

 険しい顔をする更科さんに、遠子先輩は右手を腰にあて、きっぱり断言した。

「それは、わたしが�文学少女�だからよ」

 更科さんは、ぽか----んとしてしまった。

 そりゃそうだ。いきなり修羅場に現れて、こんなトンチキな発言をされたら、バカにされたと思って逆上するか、訳がわからず茫然としてしまうかどちらかしかない。

 芥川くんも、困惑の表情で遠子先輩を見つめる。

 あぁ、どうして、毎度ひっかきまわすんだ、この人は。

 振り上げられていた更科さんの手が、胸のあたりまで下がる。

 遠子先輩は、恐れる様子もなく語りはじめた。

「最近、図書室で、本が頻繁に切り裂かれる事件が起きているの。それで、書物を心から愛するわたしは義憤にかられて、犯人を捜していたのよ。芥川くんは、自分が切ったと言っていたけれど、彼が切ったのは、一冊きり----有島武郎の作品集の中の一ページだけだった。もちろん、それもわたし的には大罪だけど……。彼にはそうしなければならない理由があったのよ。本当に本を切っている犯人を庇うためにね。他の本を切ったのは、あなたね? 更科さん」

 更科さんはまだ不思議そうな顔をしている。話が急に飛んだように思えて、ついていけないのだろう。逆に遠子先輩の舌の回り具合は、絶好調だった。

「答えなくても、あなたの足元に落ちている、芥川龍之介の作品集と、あなたが手に持っている彫刻刀を見れば一目瞭然だわ。

 切られた本は、すべて小学五年生の国語の授業で、使われたものよ。

 芥川くんが五年生のとき、クラスでいじめられていた女の子が、教室で彫刻刀を振り回す騒ぎがあったわ。本のページに残る切り痕は、カッターで切ったものとは少し違っていた。縦に二本の線が残っていたの。彫刻刀で切ったら、そういう痕が残るわね?

 わたし、実際に彫刻刀で紙を切って確かめてみたの。ちょっと力がいったけど、慣れたら綺麗に紙を切ることができたし、下の紙に、二本の線が残ったわ。つまり、本は、彫刻刀で切られたということよ。

 こんな偶然が重なるのはおかしいと思わない?

 だから、芥川くんが庇っているのは、彼のクラスで起きた事件に関わりのある人間で、今現在、芥川くんの近くにいる人だと、�想像�したのよ。

 芥川くんが庇うとしたら、五十嵐先輩か、更科さん、あなたしかいないでしょう?

 五十嵐先輩は喉を刃物で裂かれて、救急車で病院へ運ばれてしまった。残っているのは、あなただけだわ」

 ぼくは胸を押し潰されそうな気持ちで、遠子先輩の言葉を聞いていた。

 そう。芥川くんが五十嵐先輩に[#「芥川くんが五十嵐先輩に」に傍点]、彫刻刀で怪我を負わせた時点で[#「彫刻刀で怪我を負わせた時点で」に傍点]、彼が誰を庇っているかの目星はついていたのだ。

 あの日、携帯のメールで呼び出されて、衣装のまま裏庭へ駆けつけた芥川くんに、彫刻刀を用意したり、先輩と口論をしたあげくもみあったりする時間なんて、なかったはずなのだから。五十嵐先輩も、更科さんが切ったとわかっていたから、ショックで口をつぐんでいたのだ。

 犯人が更科さんであることは、ぼくも遠子先輩も、途中から暗黙の了解で知っていた[#「知っていた」に傍点]。

 けれど、何故芥川くんが、つきあっているわけでもない更科さんを、そうまでして庇うのか?

 そして、更科さんは何故そんな行動をとったのか? それは、ぼくにはわからなかったし、遠子先輩も判断をつけかねていたのだ。だから、遠子先輩は、すべての原因と思われる事件が起こった小学校へ、ぼくを連れて、出かけたのだ。

 更科さんは青ざめた顔で、遠子先輩を見つめている。

「あとは、あなたの名前を調べればよかった。あなたのフルネームは、更科繭里。いじめられていた女の子の名前は、鹿又笑。そして、鹿又さんをいじめていたクラスメイトのフルネームは、芥川くんのお姉さんに昔の名簿で確認してもらったわ。その子は、小西繭里[#「繭里」に傍点]というのよ。更科さん、あなたと同じ名前だわ」

 このことを、ぼくは病院でオレンジを食べながら、遠子先輩から聞いたのだ。

 遠足の集合写真を見たとき、ぼくは更科さんの正体は、鹿又さんだと予想していた。今の更科さんと、写真で見た鹿又さんは、髪型や雰囲気がどことなく似ていたので。

 けれど更科さんは、芥川くんの隣にいた鹿又さんではなく、反対側の隅に冷たい目をして立っていたショートカットの少女----小西さんのほうだったのだ。

「……っ、わたしが、鹿又をいじめたのは、鹿又がひどい嘘つきだったからよ!」

 ふいに、更科さんが顔をゆがめて叫んだ。

「鹿又は、自分の教科書やノートを、自分で切ってたのよ。そうやっていじめられてるフリをして、一詩くんの同情を引いてたのよ! わたしは、鹿又が自分でノートを切るのを見たから、鹿又を呼びつけて、あんたは嘘つきよって言ってやったの。あのとき鹿又は、石みたいに黙りこくってた。なのに、そのあとも、一詩くんを騙し続けて、お姫様みたいに一詩くんに庇われてたんだよ!

 わたしだって、一詩くんのことずっと好きだったのに。鹿又より前から、一詩くんのこと、見てたのに! なのに----わたしは一詩くんに話しかけることもできなかったのに、鹿又は、一詩くんと、どんどん仲良くなって、毎日図書室でいちゃついて----」

 更科さんの声が、しだいに高くなってゆく。彫刻刀を握る手が震え出す。

「わたしが、ずっと欲しかったうさぎまで、一詩くんにねだってプレゼントしてもらって! 『芥川くんがくれたのよ』って、あいつは遠足のとき、見せびらかしたのよ! わたしは、自分のお小遣いで買ったうさぎを、遊園地のゴミ箱に投げ込んじゃった。そのとき、目の裏が熱くなるほど鹿又のことが憎いと思った。けど、一番許せなかったのは、わたしが鹿又をいじめてるって、一詩くんに告げ口したことよ!」

「違う! それは誤解だ、更科」

 芥川くんが叫ぶ。

「きみを疑ったのはオレだ。先生に告げ口したのも、全部オレなんだ!」

 けれど、芥川くんのその言葉は、更科さんをさらに興奮させただけだった。

「鹿又を庇うのっ!? あいつが、一詩くんにわたしの悪口を吹き込んだに決まってる! だって、あいつはわたしが、一詩くんを好きだって、知ってたんだもん。なのに一詩くんが好きなのは自分だって自信満々で、『芥川くんは、わたしの味方なの』なんて言って----きっとわたしのこと、陰で笑ってたんだ! だから、わたしは鹿又を、いじめてやったの! みんなにも、鹿又に意地悪するように言ってやったんだよ! 鹿又は嘘つきの男好きだって。そしたら、鹿又のやつ、おかしくなっちゃって、図工の時間に『芥川くんに、本当のことをバラす』って小声で言ったら、彫刻刀を振り回してわたしに切りかかってきたの」

 更科さんは誇らしげに笑い出した。ぼくは、更科さんこそおかしくなってしまったのかと思い、ゾッとした。目を血走らせ甲高い声で笑いながら、更科さんが言葉を続ける。

「だからね! わたしも、自分の彫刻刀をつかんで、逆に鹿又に向かってったのよ! 鹿又の右腕を切って、そのまま滅茶苦茶に突っ込んでいったら、鹿又の胸に、彫刻刀が刺さっちゃったの。きっと今も、鹿又の胸に傷が残ってるよ!」

 六年前の事件で、負傷したのは小西さんのほうではなかったのか? 小西さんが----いや、この更科さんが、逆に鹿又さんを切り裂いたというのか? ああ、そういえば、芥川くんも、苦しそうに言っていた。『鹿又の傷はまだ癒えていない』って----。夢の中で鹿又さんが、『傷は永久に消えない』と語りかけてくるって----!

 小さな教室で展開された、血なまぐさい惨劇を脳裏に描き、ぼくは深い闇に飲み込まれてゆくような気がした。

 遠子先輩も顔をこわばらせ、言葉を出しあぐねているようだった。

 更科さんは、なおも語り続けた。

 事件のあと、仲の悪かった両親が、娘のしでかしたことの責任をなすりつけあったあげく離婚し、鹿又さんが転校したあと、自分も転校しなければならなかったこと。

 引っ越す前に、鹿又さんが会いに来て、『ごめんなさい』と謝り、『芥川くんに返してほしい』と言って、国語の教科書とうさぎのマスコットを置いていったこと。

「怪我をさせられた相手に、わざわざ謝りに来るなんて、さすが優等生ね。それとも鹿又が特別|鈍いのかしら」

 更科さんの目に、氷のように冷ややかな怒りが浮かぶ。

「わたしは、うさぎの首を、彫刻刀で切断して、『蜜柑』も教科書から切ってやった。図書室で鹿又が、『教科書の中で�蜜柑�が一番好き、だって�芥川�だから』って言ってるのを聞いたときから、わたしは、あの話が大嫌いだったんだもの。それで、切り取った『蜜柑』を、うさぎと一緒に、鹿又の名前で、一詩くんの家に送ったのよ。残った教科書は……捨てられなくて、持ってたの」

 最後の言葉だけ、少し哀しそうにつぶやいた。

 切り取られた『蜜柑』と、切断されたうさぎを、芥川くんに送りつけたのは、鹿又さんではなかった。けれど、芥川くんにとって辛い事実であることは変わらない。

 いや、鹿又さんからの拒絶の意味で送られたのであったほうが、まだマシだったかもしれない。

 芥川くんはぎゅっと眉根を寄せ、歯を噛みしめて、更科さんを見つめている。

 更科さんの顔つきが、また静かになった。芥川くんを見つめ、哀願するように言う。

「わたしは鹿又みたいな、か弱いフリをした優等生は大嫌い。……けど一詩くんが、鹿又みたいな子が好きなら、鹿又になってもいいって思ったんだよ。

 鹿又は、いつもいつも、わたしと一詩くんの邪魔をする。小学生の頃は、一詩くんにべったりまとわりついて、一詩くんとの仲をわたしに見せつけて----。今も、わたしに、『芥川くんは、あたしの味方なのよ』って、意地悪言う。『あたしを傷つけた仕返しよ』 って----。悪いのは、鹿又のほうなのに! どうしても、鹿又が、わたしの中から消えない。鹿又を切ったときの感触が、まだ手に残ってる。だから----わたしは、鹿又になったの。わたしが鹿又なら、鹿又を恐れる必要もないから。

 鹿又みたいに本を切ったら、一詩くんは飛んできてくれたね? 嬉しかった。わたしが本を切るたびに、一詩くんは来てくれた。うさぎを切ったときは、真っ青な顔で、『オレがどうにかする』って、わたしの手からうさぎを奪い取ってくれたね? わたしのこと、すごく心配してくれたね? 五十嵐先輩には『迷惑だから二度と近寄らないで』って言ってやったから、きっともう大丈夫。ねぇ、わたしと一詩くんを邪魔するものは、なにもないんだよ。それでもダメなの? わたしと別れるの? 来週のお誕生日を、わたしは一人で過ごさなきゃいけないの?」

 芥川くんは苦しそうに沈黙を続けている。自分のせいで傷つけてしまった女の子を、今のこの状態で突き放すことができず、迷っているのが伝わってきて、ぼくの息も苦しくなった。遠子先輩は、哀しそうな顔で芥川くんを見ている。

 更科さんの目に、絶望がにじんでゆく。

「もしかして、他に好きな人ができたの? このうさぎを持ってた子?」

 そうつぶやいて、片手をポケットに入れ、ピンク色のうさぎのマスコットを芥川くんのほうへ突きつける。

 遠子先輩が、ハッと息をのむ。ぼくも目を見張った。

 あれは、もしかしたら----。

「わたしと劇に出るのは嫌がったのに、文芸部の劇には出るの? どうして? 琴吹さんがいるから[#「琴吹さんがいるから」に傍点]? 琴吹さん美人だし[#「琴吹さん美人だし」に傍点]、男の子に[#「男の子に」に傍点]、人気があるものね[#「人気があるものね」に傍点]」

 問いかける声に熱がこもり、瞳が狂気を帯びてゆく。

 やっぱりあれは、琴吹さんのうさぎだ! 更科さんが盗ったのか!

「ねぇ! 琴吹さんが好きなの!? 琴吹さんとつきあってるの!? このうさぎは、芥川くんが琴吹さんにあげたの!?」

 片手でうさぎを本棚の横にあて、更科さんはその上から勢いよく彫刻刀を突き刺した。

 うさぎのおなかに穴が空き、そこからさらに彫刻刀を横に引き、切り裂く。

 

「それなら、琴吹ななせもズタズタにしてやるっっっ!」

 

 うさぎに彫刻刀を突き立てた状態で、吠えるように叫ぶ。

「一詩くんが好きになる女の子は、みんな! みんな! わたしが切り裂いてやるんだっっっ!」

 芥川くんの肩が、ぶるっと震えた。顔を伏せたあと、またすぐに振り上げ、叫んだ。

「いい加減にしろっ! もうやめてくれ!」

 更科さんの顔に、驚きが浮かぶ。

 眉根を寄せ、息苦しそうに見つめ返しながら、芥川くんが苦い言葉を続ける。

「きみに対して恋愛感情はない。これ以上、きみを庇い続けることはできないし、呼び出しにも応じられない」

 そして、息を小さく吸い込み、辛くてたまらなそうな顔で言った。

「二度とオレに近寄らないでくれ。迷惑だ」

 更科さんの表情は、途中からひどく哀しげなものに変わっていった。彫刻刀の先から、うさぎがぽとりと落ち、張りつめた沈黙が、図書室に満ちる。

「やっと……答えてくれた[#「答えてくれた」に傍点]」

 どこか安堵したような、か細い声。

 口元に、寂しそうな笑みがゆっくりと浮かぶのを見て、ぼくはハッとした。

 前も、こんな微笑みを見たことがある。

 夏の日、風の吹く屋上で、制服のスカートと、ポニーテールを揺らして振り返った美羽の顔に浮かんでいた、静かな笑み。

 

 ----コノハには、きっと、わからないだろうね。

 

 墜ちてゆく美羽。

 絶叫するぼく。

 頭の芯を熱く鋭いものが、つらぬく。

「ダメだ! 更科さん!」

 駆け寄るぼくの目の前で、更科さんは微笑んだまま、両手で握りしめた彫刻刀で喉を切り裂いた。

「----!」

 時間が、止まった。

 目を見開いたまま動けない芥川くん。両手を口に当てて立ちすくむ遠子先輩、冷めた表情でこの光景を見つめる竹田さん。

 白い首からこぼれ出る鮮血が、更科さんの体を赤く染めた。

 そのまま、更科さんは床に崩れ落ちていった。

「動かしちゃダメ!」

 かがみ込むぼくを、遠子先輩が制す。竹田さんがポケットから携帯を出し、救急車を呼ぶ。遠子先輩が「先生に知らせてくるわ」と言って、図書室から飛び出す。

「更科さん……っ、更科さんっ」

 呼びかけるとかすかに目を開け、血で濡れた喉を震わせ、途切れ途切れにつぶやいた。

「----もっと、早く----言ってくれれば、よかったのに----あたし、バカだから----わかんないよ----」

 ゴメンね……と更科さんはささやいたようだった。

 立ち尽くす芥川くんの顔に衝撃が走り、そのまま血溜まりに膝をつく。両手で頭を抱え、芥川くんは叫んだ。

「いつも----いつも、こうだ! いつも、間違えるんだ! 二度と間違わないと誓っていたのに。誰も、こんな風に傷つけたくなかったのに! 更科がオレのせいでおかしくなったのなら、オレが責任を負わなければならないと思っていた----けど、違った----オレが、更科をここまで追いつめた----また、間違えた----! オレは小学生のときと同じだ。愚かなままだ! 助けてくれ----更科を助けてくれ----助けて----助けてくれ----助けて」

 震えながら叫び続ける芥川くんは、美羽が屋上から飛び降りたときの、自分の姿を見るようだった。

「大丈夫----大丈夫だから」

 頭の中がぐるぐる回り、喉が熱くなり、口の中が乾き、呼吸が苦しくなる。今、発作を起こすわけにいかない。

「大丈夫、きっと、大丈夫だから、芥川くん」

 ぼくよりはるかに広くてしっかりした肩を抱きかかえるようにして、バカのひとつ覚えみたいに「大丈夫」と繰り返しながら、本当に�大丈夫�なのか確信なんてひとつもなく、彼と同じように震えながら、心の中で、どうか更科さんが無事であるように、この悪夢のような時間が早く過ぎ去るようにと、祈るだけだった。

 血まみれで横たわる更科さんの傍らで、震えあい呻きあうぼくらを、竹田さんが虚ろな目をして見おろしていた。

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 お母さん、助けて下さい。俺はどうしたらいいのでしょう。

 貴女の息子は、また人を傷つけ、他人の人生を滅茶苦茶にしてしまいました。何故、俺は、いつまでも愚かなままなのでしょう。

 更科はこぼれる血で全身を赤く染めて、図書室の床に倒れました。

 俺に向かって澄んだ微笑みを浮かべ、「やっと、答えてくれた」そう言って、自分の喉を切りつけたのです。俺がもっと早く、彼女に自分の気持ちを伝えていれば、こんな事態にはならなかったでしょう。いいえ、その前に、五十嵐先輩に、次の試合に彼女を連れてきてほしいと頼まれたとき、断っていれば。

 あのときも、俺は悩みました。自分に恋の仲介なんて真似ができるのか? しかも更科は、あの小西なのに!

 小学生の時、彼女に無実の罪をかぶせ、彼女を追い込んで、狂わせてしまいました。

 彼女の両親が別れたのは、あの事件がきっかけだったと聞いています。俺が、小西の家庭を壊したようなものです。

 高校に入学して彼女と再会したとき、息が止まるような気がしました。彼女は当時のことを語らなかったので、俺も黙っていました。けれど、彼女と同じ教室にいるだけで、罰を受けているようで辛かったのです。

 だから本当は、先輩の申し出も、断りたかったのです。なのに、あまり何度も頼まれて、先輩の気持ちが真剣なものであるとわかり、先輩の人柄も尊敬していたので、俺は彼女を試合に誘い、先輩に引き合わせたのでした。そのあと、彼女から先輩にストーカーのような行為をされていると相談を受け、懇願されるままに彼氏のフリを引き受けたのも、間違いでした。そのせいで、五十嵐先輩は部活をやめ、彼女も少しずつおかしくなっていったのです。

 結局、自分は、過去の罪に繋がれていて、どうあがいても逃げることはできないし、償い続けなければならないのだと感じました。小西も、鹿又も、過去に俺が犯した過ちを許していないのだと。

 俺は必死でした。今度こそ間違わないように賢くあろう、罪を償おうと努力しました。けれど、ダメでした。俺がとった行動も、選んだ道も、なにもかも、全部、すべて、間違いでした。

 鹿又に、小西に、桃木先生に、五十嵐先輩に、更科に、どう詫びたらいいのでしょう。

 先の見えない暗い迷路の中を、ぐるぐる廻るばかりです。耳鳴りがし、体が灼けるように熱く、頭が割れそうです。まともに立つこともできない。

 お母さん、助けることができないなら、どうか俺を裁いて下さい。俺の代わりに貴女が決めてください。たとえそれが�死�であっても、俺は従います。

 お願いです、お母さん、答えてください。お母さん! お母さん!

[#ここまで太字]

[#改ページ]


最后编辑于:2015-05-07 19:26

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