�文学少女�と繋がれた愚者《フール》:七章 �文学少女�の願い

发表于:2015-05-05 19:07 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-05 19:06~2015-05-31 02:30
地点: 南京
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知道了

七章 �文学少女�の願い

 

 目を覚ますと、頭が鉛みたいに重かった。

 枕元の時計を、横目で見る。

 そろそろ起きなきゃ……。

 けど、学校へ行きたくない。劇になんか出たくない。

 中学のときみたいに、ぐずぐず泣いて引きこもっていたかったけれど、お母さんたちは哀しむだろうと考えると、しかたなく布団から這いだした。

「おはよう、お兄ちゃん。ごはん、食べられる?」

「……うん」

 ベーコンエッグと、林檎のジャムを塗ったトースト、コーンのスープと野莱のジュースは、昨日の夕飯と同じように、味がよくわからなかった。

「いってきます」

 鞄を肩にかけて玄関を出る。

 このまま、どこか別の場所へ行っちゃおうかな。映画とか……ネットカフェとか……。

 そんなことを考えながら、道路へ踏み出したときだ。

 

「おはよう、心葉くん」

 

 雨があがり、空気は冷たく、晴れた空から澄んだ光が差していた。

 かすかに雨の匂いが残っている道路に、ロバート=ブラウニングの詩集を手に持った遠子先輩が立っていて、ぼくを見て、まぶしく笑った。

「迎えに来ちゃった。一緒に学校へ行きましょう」

 それは、高校生になって、文芸部に無理矢理入部させられたばかりの頃、部活をサボって帰ろうとするぼくを、毎日教室まで迎えに来たときの遠子先輩と、同じ顔だった。

 明るく晴れやかな、優しい顔。

 

 ----部活の時間よ、心葉くん。

 

 遠子先輩が詩集を閉じ、ぼくの前に、足をそろえてぴょこんと移動する。猫の尻尾のような長い三つ編みが、一緒に大きく跳ねる。

 いつもどおりなんにもなかったように、遠子先輩が首を傾けて、明るく見上げてくるので、ぼくは喉が熱くなって、胸がいっぱいになってしまった。

「……お節介です」

 込み上げてくるものを飲み込みながら、震える声で言う。

「いつもいつも、あなたは、お節介です。もう嫌です。劇には出たくありません。芥川くんだって、そのほうがいいんです」

 駄々をこねる子どもみたいなぼくに、遠子先輩が、お母さんみたいに優しい顔で尋ねる。

「心葉くんがお芝居に出たくないのは、苦しんでいる芥川くんを見るのが辛いから? それとも、心葉くん自身が辛いから?」

「両方です」

 遠子先輩の眉が、少し下がる。

「そう……でも、このままじゃ、心葉くんも、芥川くんも、ずっと苦しいままよ?」

「いいんです……それで。余計なことして、失敗して、もっと苦しくなるよりマシです」

 遠子先輩が、ますます眉を下げる。

 ぼくが苦手な、哀しそうな心配そうな顔。

「昨日、心葉くんが帰っちゃったあと、芥川くんはなにも言わなかったけれど、とても辛そうだったわ。芥川くんは今、助けを必要としているんじゃないかしら」

「ぼくには無理です。自分のことだって、面倒を見きれないのに」

 震えながらうなだれるぼくに、遠子先輩が綺麗な水のように、切なく澄んだ声で言った。

「わたしね……二年生になって、心葉くんが、芥川くんと教室で話しているのを見たとき、嬉しかったのよ。ああ、心葉くんにも、友達ができたんだなぁって。本当に、嬉しかったのよ。心葉くんは一年生のときから、誰とも仲良くなろうとしなかったし、いつも人と距離を置いて、つきあっているみたいだったから。

 心葉くんに友達ができたらいいなぁって、わたしはずっと思っていたのよ。

 だって、来年になったら、わたしは卒業して、いなくなってしまうから。そうしたら、文芸部は心葉くん一人になっちゃうでしょう」

 あんなに部員を確保したがっていたのは、文芸部を存続させるためじゃなく、一人になるぼくを心配していたからだっていうのか?

 芥川くんが劇に出るので、はしゃいでいたのも、いつまでも引退しないのも、ぼくを一人にしたくないから……。

 遠子先輩の声にこめられた優しさに泣いてしまいそうになり、ぼくは慌ててまばたきした。

「本当に、とんでもなく、お節介です。いつもいつも、ぼくのこと振り回して、勝手なことばっかり言って……。ぼくは友達なんて、もとから欲しくないし、誰とも仲良くする気なんてないんです。ずっと続く関係なんて、甘ったるい物語の中にしか存在しないし、そんなものを信じて裏切られたら、辛い思いをするだけだから。

 いつか壊れるかもしれない関係なんて、最初からないほうがいい。

 芥川くんとだって……前みたいに、居心地のいい関係でいたかったんです。なのに、遠子先輩がお節介焼いて、芥川くんを劇に出演させたり、芥川くんのことあれこれ調べたりして----知りたくなかったこと、たくさん知るはめになったじゃないですか……っ」

 ああ、これじゃ、芥川くんに責任|転嫁した桃木先生と一緒だ。これ以上口を開いたら遠子先輩を傷つける。もう、こんな抑えのきかない子どもじみた感情は嫌だ。全部、嫌だ。

「……っ、なにも、知りたくなかった……。誰とも近づきたくなかった……会わなければよかった……」

 美羽にも、芥川くんにも、会わなければよかった。

 遠子先輩は眉を下げ、哀しそうにぼくを見つめている。

 もう、しゃべっちゃダメだ。

 口を噤んでうつむいたとき、遠子先輩が尋ねた。

「それじゃあ心葉くんは、わたしとも、会わないほうがよかったと思う?」

 顔を上げると、黒く澄んだ眼差しが、そらされることなくまっすぐ、ぼくを見つめていた。

「……っく」

 胸を突き刺され、まぶたが熱くなり、喉が震えた。

「……ズルい」

 そうだ。それは、ズルい。

 とてもズルい、卑怯な質問だ。

 これまで、遠子先輩がぼくに見せてくれた、たくさんの笑顔が、優しさが、言葉が、次々浮かんできて、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。

 長い冬の終わり----春の校舎で、真っ白な木蓮の下で、ぼくは遠子先輩に出会った。

 

 ----わたしは二年八組|天野遠子。ご覧のとおりの�文学少女�よ。

 

 ----さぁ、心葉くん、今日のお題は�西瓜�と�新幹線�と�ガスボンベ�よ。制限時間は、きっかり五十分。とびきり甘いお話を書いてね! はい、すたーと!

 

 ----あぅぅぅ、このお話、辛すぎよぉ、心葉くん。

 

 ----妖怪じゃないもんっ。ただの�文学少女�だもんっ。

 

 傍若無人で、能天気で、紙をパリパリ食べる非常識な先輩で----さんざん人のこと振り回して----おやつ係にしてこき使って----小説なんてもう書くつもりはなかったのに、毎日毎日|三題噺を書かせて、苦いとか酸っぱいとか言いながら、残さず全部飲み込んで----。

 我が儘勝手なくせに、ときどき心配そうな顔をしてみせる。あたたかい、優しい言葉をかけてくれる。

 芥川くんが、お母さんにだけは嘘をつけないように、ぼくも遠子先輩にだけは嘘をつけない。

 だって、遠子先輩はずっと、弱くて情けないぼくを見てきたから。

 ぼくの臆病さも、愚かしさも、遠子先輩は全部知っているから。

 だからぼくは、遠子先輩にだけは、嘘をつけない。

 なのに、出会わなければよかったと思うかなんて、そんな質問をするのはズルい。

 答えなんて、とっくにわかってるくせに。

 ズルい! ズルい!

 遠子先輩は、ズルい!

「っく……、そんな質問は、ズルい。わかっていてそんなこと訊くのは、ズルい……っ」

 我慢していた涙があふれてきて、泣きじゃくりながら「ズルい、ズルい」と訴えるぼくのほうへ遠子先輩が歩み寄り、真っ白な手を伸ばして、頬を包み込む。ひんやりした優しい感触。

 気持ちがゆるんで、目を伏せたまま、ますます涙をこぼすぼくに、遠子先輩が澄んだ優しい声で、劇中の台詞をささやいた。

『わたしはあなたを信じています。あなたは勝利を得る方です。あなたの誠実と、本気さは、あなたをどこまでも生長させます。淋しい時はわたしがついています。しっかり自分の信ずる道をお歩きなさい。あなたの道は遠く、あなたは馬鹿な人からは軽蔑されます。だがあなたはあなたでなければ出来ない使命をもっていらっしゃいます』

 声をつまらせ、ぼくは言った。

「それは……杉子が本当に言ったことじゃなくて、野島の妄想じゃないですか」

「そうね。でも、わたしは、心葉くんの妄想じゃないわ」

 頬にあてられていた手が、ぼくの手をつかむ。そうして、そのまま、自分の心臓の上に、ぼくの手を押し当てた。

「わたしは、ここに、ちゃんと存在しているわ」

 知的な瞳が、まっすぐにぼくを見つめる。

 制服の上着とブラウスの下に、遠子先輩の心臓がどきどきと脈打っている。それが、ぼくの手のひらに伝わってくる。

 遠子先輩の胸は薄く硬く、けれどあたたかく、その肌の内側に、遠子先輩が生きて存在している証を、はっきりと感じとることができた。

 ドキン……ドキン……と。

 涙が止まらない。

 喉も、胸も、張り裂けそうで、熱い涙が、壊れた蛇口からこぼれる水みたいに流れ落ちてくる。

 遠子先輩の心臓の音を、手のひらで聞きながら、ぼくは気づいてしまった。

 美羽の事件があって、もう人とは関わらないと決めていたぼくは、ずっと、遠子先輩と深く関わってきたのだと。

 こうやって、遠子先輩の前でみっともなく泣いて、気持ちを吐き出して、そのたび遠子先輩の手のあたたかさを感じて、立ち上がってきたのだと。

 

 遠子先輩に会わなければよかったなんてこと、絶対に、ない。

 

「ほら、もう泣かないで。ハンカチを貸してあげるわ」

 重ねていた手をそっとはなし、遠子先輩が水色のハンカチを差し出す。ぼくはそれを受け取り、顔に押し当て言った。

「……これ、ぼくが遠子先輩に貸したハンカチです」

「えっ!」

「……もう、三ヶ月以上も前です」

「あ、あら? そうだったかしら?」

 もごもごつぶやいたあと、遠子先輩は気恥ずかしそうに言った。

「顔をふいたら、学校へ行こうか?」

「はい」

 

 校内の水道で、顔をばしゃばしゃ洗ったあと、ぼくは自分のクラスへ向かった。

 教室の中は、昨日のうちに漫画喫茶に変わっており、机をくっつけて作ったテーブルと椅子が置かれ、みんなが持ち寄った漫画が、棚にずらりと並び、アニメのキャラクターを描いたパネルが展示されている。

「芥川くんは、もう登校した?」

 クラスメイトに尋ねると、「弓道部で、朝練してる」とのことだった。

 道場へ行ってみると、袴に着替えた芥川くんが、一人で的に向かって立っていた。

 手に持った弓を引き絞り、背筋を伸ばし、張りつめた硬い表情で的を見つめ、矢を射る。

 矢は的の脇をかすめ、後ろに立ててある畳に突き刺さった。それを見て、苦しげに眉根を寄せる。

「芥川くん」

 声をかけると、驚いたように目を見張った。

「井上……」

「昨日は、ごめん。ぼくも今、迷っていることがあって、それで煮詰まっちゃって、逃げようとしてたんだ。けど、ぼくは逃げるのはやめた。だから、ぼくと一緒に劇に出てくれないか? そこで、きみやぼくが怖がっているものに、立ち向かおう」

 芥川くんがますます目を見開き、ぼくを見おろす。

 ぼくも顔を上に向け、芥川くんを見つめ返した。

 畏れないで、微笑んで、堂々と。

 芥川くんの目に浮かぶ驚きが、徐々に前向きな決意へと変わってゆく。

「わかった」

 うなずき、ほんの少しだけ微笑む。

 その瞬間、爽やかな共感が、朝の澄んだ空気と一緒に肺の中に流れ込んだような気がした。

 

 制服に着替えた芥川くんと教室に戻ると、妙にざわついていた。

 トラブルでもあったのだろうか?

 すると、琴吹さんと仲良しの森さんが、ぼくのほうへ走ってきた。

「あっ、井上くん大変! ななせが倒れて、保健室に運ばれたの! 風邪だって! すごい熱なの!」

「琴吹さんが!?」

 

 芥川くんと二人で保健室へ駆けつけると、琴吹さんは、真っ赤な顔で苦しそうに息をしながら、ベッドに横になっていた。

「ご……ごめん、井上。あたし……」

 泣きそうな目で、ぼくを見る。

「……あたし、劇に出るから」

 切れ切れにそうつぶやいた。健気で必死な様子に、なんだか胸の奥がキュンとした。

「無茶だよ。お家の人を呼んでもらって、帰ったほうがいい」

「けど、あたしのせいで、みんなに迷惑かける」

「琴吹さんは悪くないよ。琴吹さんが風邪を引いたのは、ぼくのせいなんだから」

 そう、琴吹さんが風邪を引いたのは、雨の中、長時間立っていたせいだ。琴吹さんに責任を感じさせたりしちゃいけない。

「大丈夫。劇のことは、ぼくらに任せておいて」

 嘘のない笑顔で告げると、琴吹さんはまた目をうるませた。

「う……うん」

 

「え----っ、ななせちゃんが、熱を出して倒れたぁ?」

 クラスのカレー屋さんで、メイドの格好でウェイトレスをしていた遠子先輩が、目をむいて叫ぶ。

「遠子先輩、琴吹さんの代わりに杉子をやってくれますか? 遠子先輩なら、台詞は全部頭に入っているでしょう?」

「野島は、どうするの?」

「ぼくがやります」

 きっぱり答えると、遠子先輩はちょっと目を見開き、すぐに笑顔でうなずいた。

「わかったわ」

 芥川くんが、尋ねる。

「井上が野島をやるなら、早川は誰がやるんだ?」

「早川は台詞も少ないし、アドリブでどうにか切り抜けられるよ」

「そうね。それでいきましょう。開演まで時間がないわ。千愛ちゃんを呼んで打ち合わせをしなきゃ」

 そこへ、スケッチブックを抱えた麻貴先輩が現れた。

「はろ〜、遠子ぉ、メイド服を拝みにきたわよ。さすが、真の美少女はなにを着ても似合うわね」

「ああっ、どうして来るのぉ! わたしの担当は、午後からだって言ったのに!」

「そんなあからさまな嘘に、このあたしが騙されるわけないでしょう。さ、観念してスケッチさせなさい」

 遠子先輩がエプロンをはずして、麻貴先輩に押しつける。

「あいにく緊急事態が発生したの。行かなきゃ」

「あっ、遠子ちゃん! まだ交代の時間じゃ----」

 クラスメイトのメイドさんが、慌てて引き止める。遠子先輩は、麻貴先輩を指さして言った。

「その人を代わりに、こき使ってやって!」

「って、えええええっ。遠子ちゃーん!」

 

 校庭の屋台で、ハッピを着てタコ焼きを売っていた竹田さんと合流し、演技の変更|箇所について話し合い、衣装に着替えて体育館に駆け込んだのは、開演の五分前だった。

 ステージの袖で、竹田さんと二人で、肩でゼイゼイしながら息を整える。

 きっと反対側では、遠子先輩と芥川くんも、同じようにスタンバイしているはずだ。

「ぎ、ギリギリ、間に合いましたね」

「う、うん」

「今日、心葉先輩が、舞台を放り出したりしないで、ちゃんと来てくれて、よかったです。心葉先輩は、あたしに、生きろって言ってくれた人だから」

 横を見ると、竹田さんは笑っていなかった。その表情も、ささやく声も、とても静かで、淡々としていた。

「ぼくも、竹田さんと同じなんだ。ずっと仮面をかぶっていたし、他人と深く関わることを避けていた。けど、この劇をやり遂げたら、そんな自分を乗り越えられるような気がするんだ。ぼくだけじゃなくて、芥川くんも……」

「なら、あたしはそれを見せてもらいます。そしたら、あたしも希望が持てます」

 ステージの上は永劫に続く夜のように暗く、向こう側はまったく見えない。

 今、芥川くんはなにを考えているのだろう。

 一緒に乗り越えたい。

 胸が震えるほど強く願う。

 どうかどうか。

 開幕を告げるブザーが鳴り響き、暗いステージに向かってぼくらは歩き出す。

 月の光のようなピンスポットの中を、上手からぼくが、下手から芥川くんが、ぴったり閉じられた緞帳の前を、ゆっくり進んでゆく。

『これは、僕と、親友の大宮と、僕が恋した女性の物語』

 襟元に仕込んだマイクを通して、ぼくの声が体育館の中に静かに流れてゆく。

 そして、芥川くんの低くてしっかりした声も----。

 『これは、僕と、親友の野島と、彼が恋した女性の物語』

 緞帳が静かに上がり、舞台中央に三つ目のスポットがともり、遠子先輩の、ほっそりした後ろ姿を照らし出す。

 腰まで伸びた、まっすぐな黒髪。頭の後ろで結ばれた大きなリボン。あでやかな桜色の振り袖。臙脂の袴。

『僕が初めて杉子に会ったのは帝劇の二階の正面の廊下だった』

 プロの役者ではないのだから、素晴らしい演技ができるわけはない。ぼくは、ただ頭の中に、野島という人物を思い浮かべ、彼の気持ちに自分の気持ちを重ねながら、大きな声ではっきりと台詞を言おうと努めた。

 芥川くんの声も、今のところ安定している。

 遠子先輩が髪をさらさら揺らして振り返ると、ぎっしり埋まった客席が、感嘆で満たされた。

 それほど髪をほどいた遠子先輩は綺麗で、掛け値なしの美少女で、古き良き時代の文学少女の香りを全身から漂わせていた。まるで、春を告げるすみれの花のようだ。

『どこにいらっしゃるのです』

『お花の稽古に』

 野島を演じていたとき、常に高めだったテンションは、杉子を演じるときはうまい具合に抑えられ、台詞を語る声も、野島に向かって頭をそっと下げてみせる仕草も、優しく可隣だった。

 しとやかに去ってゆく杉子を、野島の気持ちで見送る。

 ああ、ここに、自然のつくった最も美しい花がある。

 優しく、気高い、夢のような存在。

『貴き、貴き、彼女よ。自分はあなたの夫に値する人間になります。どうかそれまで、他の人と結婚しないで下さい』

 そんな風に祈る気持ちを、ぼくも知っている。

 好きな人を見ているだけで、幸福で、胸が躍って、自分に都合のよい想像を飽きもせずに繰り返し、愚かなほど一途に、その人を恋していたことが。

 美羽を想う気持ちに、杉子を想う野島の気持ちが重なってゆく。

 それは、他人から見たら馬鹿げた妄想で、自分勝手な思い込みにすぎなかったのかもしれない。

 ぼくは、美羽の心を、わかっていなかったのかもしれない。

 けれど、好きだという気持ちに、偽りはひとつもなかった。

 ピンポン台に杉子と向かいあい、ラケットを握りしめて、球を打ち合う。

 恋する人の唇には、楽しそうな微笑みが浮かんでいる。ラケットを振るたび、着物の袖が蝶の羽のように、ひらひらと舞う。

 この時間が永遠に続けばいいと、野島も思ったのではないか。

 

『どこにこんなに無垢な美しい清い、思いやりのある、愛らしい女がいるか。神は自分にこの女を与えようとしているのだ。さもなければあまりにも惨酷だ』

 

『このよろこびはどこからくる。これを空と言うか。空にしてはあまりに深すぎる』

 

『愛しないではいられない、失うわけにはゆかない。断じてゆかない。神よ、あわれみ給え。二人の上に幸福を与え給え』

 

 けれど、こんなに恋をしたのに、杉子が愛したのは、親友の大宮だったのだ。

 大宮は自分に向けられた杉子の気持ちをずっと感じていた。だから、わざと杉子に冷淡に接したのだ。皮肉なことに、それは逆に杉子の心を、ますます彼に惹きつける結果になってしまった。

 

『野島の代理を僕がしましょう』

 

 大宮が、ピンポン台に杉子と向き合う。容赦のない球を杉子に浴びせる大宮を演じる芥川くんの表情は、張りつめていて険しい。大宮が感じている葛藤が、痛いほど伝わってくる。

 それは、芥川くん自身の葛藤であり、苦しみでもあるのだろう。

 六年前の事件から、ずっと誠実であろう、賢くあろうと、誓いを立ててきた芥川くん。

 高校生になり、五十嵐先輩に更科さんを紹介してほしいと頼まれたときも、更科さんから五十嵐先輩と別れたいと相談されたときも、彼は葛藤し、苦悩したのだろう。

 更科さんの想いの強さを感じながら、それを受け入れることのできないことに苦しみ、五十嵐先輩への罪悪感に、胸を裂かれるような想いを味わったのだろう。

 そんな想いを、彼は一年もの間、穏やかな表情の下に隠し、誰にも弱音を吐かず、病院で眠り続けるお母さんにだけ、手紙で気持ちを打ち明けてきたのだ。

 彼のそんな不器用さを、かたくななまでの誠実さを、ぼくは否定してしまいたくない。

 たとえ、それがどんなに愚かでも、間違っていても。

 きみは、考え抜いて、その道を選んだのだ。

 物語が、クライマックスへと近づいてゆく。

 大宮は、杉子への未練を断ち切るために海外へ渡る。

『僕は君の幸福を祈っているよ』

 見送る野島に、静かに微笑みながらそう告げて。

 杉子はそんな大宮を、泣き出しそうな眼差しで見つめていた。

 

 心が重なってゆく----。

 野島に、大宮に、杉子に----。

 物語を読みながら、その中で生きる人たちに、自分自身の姿を見つけるように。

 ページをめくりながら、ともに喜び、ともに笑い、哀しみ、悩み、叫び、涙するように。

 

 野島は杉子にプロポーズをするが、杉子の返事はノーだった。

 大宮が海外から送ってくれた、ベートーベンの顔を模した石膏のマスクを顔に押し当て、ステージの中央にしゃがみ込み、ぼくは野島の気持ちで、むせび泣いた。

 失恋なんて、本当にするものじゃない。

 希望が一瞬にして打ち砕かれ、世界が闇に覆われ、心がずたずたに切り刻まれるこの耐え難い痛みを、どうやってやり過ごせばいいのか、わからない。

 神様、何故、ぼくから、たったひとつの大事なものを奪ったのですか。

 美羽、きみを今も忘れられない。きみを思い出すたび、息が止まり胸が裂けそうになる。何故きみは、ぼくを拒絶し、遠くへ去ってしまったんだ!

 舞台に闇が落ち、上手に大宮が、苦痛に満ちた顔で立つ。淡いライトが彼を照らす。

『尊敬すべき、大なる友よ。自分は君に謝罪しなければならない。すべては某同人雑誌に出した小説を見てくれればわかる。よんでくれとは言えない。自分の告白だ。それで僕たちを裁いてくれ』

 舞台の中央にうずくまるぼくの上に、スポットライトが落ちる。ぼくは手製の雑誌を、むさぼるように見下ろし、ベージをめくっていった。

 下手に、杉子が現れ、思いつめたような眼差しを、上手に立つ大宮へと向ける。

 そうして、淡いスポットに照らされて、大宮と杉子が、同人誌に掲載された手紙の内容を、交互に語り出す。

 

『大宮さま、怒らないで下さい。わたしが手紙をかくのには随分勇気がいりました』

 

 大宮への恋心が、遠子先輩の澄んだ声で切々と語られる。

 それに対して、大宮はかたくなに杉子を拒み、どうか親友の野島を受け入れてほしいと訴えるのだ。

 

『あなたはまだ野島のいい所を本当には御存知ないのです。野島の魂を見てほしく思います』

 

『大宮さま、わたしを一個の独立した人間、女として見て下さい。野島さまのことは忘れて下さい。わたしはわたしです』

 

『あなたは僕を理想化している。僕の処に来たと仮定しても、それはあなたにとって幸福ではない』

 

『あなたは嘘つきです。本当に嘘つきよ』

 

 緊張感に満ちたやりとりが続く。

 遠子先輩の声が情熱を帯び、ライトに照らされた頬が赤く燃え立ち、瞳が熱くうるんでゆく。

 逆に、芥川くんの表情は、どんどん暗く硬くなってゆく。

『僕は何と返事していいかわかりません。僕は迷っています。野島に相談したい。だが相談する勇気はない。野島はあまり気の毒です』

 一言発するたびに、芥川くんが苦しそうに眉根を寄せる。硬く握りしめた拳が、震えている。

 芥川くんの痛みが、苦しみが、ぼくの胸に突き刺さる。

 誠実であらねばならないという自分への戒め、決断することへの恐怖。

 過去の出来事が、芥川くんの心を、がんじがらめに縛りつけ、ぎしぎしと締めつける。

 どうか負けないでくれ。その戒めを、断ち切ってくれ。

 きみは、悪くない。

 きみは、誠実だった。

 だからどうか、前へ進んでほしい。

 

『僕はこの手紙を出そうか、出すまいか、考えた。出さない方が本当と思う。だが----』

 

 台詞が止まった。

 芥川くんは、顔をゆがめ、目を見開き、ひどく衝撃を受けている様子で、客席を凝視していた。

 前から三列目の、ちょうど真ん中あたりに、喉に包帯を巻いた更科|繭里が座っている。

 ぼくも、息をのんだ。

 更科さんは苦しそうな顔で、芥川くんを見上げている。

 芥川くんは、小さく開いた唇をわななかせ、硬直している。それから目をぎゅっと閉じ、両手で頭を抱え、短い呼吸を繰り返した。

 それはまるで、発作を起こしているときのぼくの姿を見るようだった。

 体育館全体が、シンと静まり返る。

 こんな状況で、よりによって更科さんの前で、今の芥川くんに、ずっと言えなかった大宮の台詞が言えるわけがない。

 駆け寄りたくても、ステージの上ではどうにもならず、胸が押し潰されそうになったとき、澄んだ声が流れた。

 

「ねぇ、大宮さま。わたしの話を聞いてくださいますか?」

 

 杉子が----。

 いや、遠子先輩が、ステージの中央に進み出たのだ。

 なにをする気なんだ! 遠子先輩!

 打ち合わせにない動きに、ライトが慌てたように、遠子先輩を追いかける。

「この物語は、あなたがこれからされる決断の助けになる重要な�真実�を含んでいるわ。どうか耳をふさぐことなく、しっかりお聞きになって」

 まばゆい光の真ん中で、黒く長い髪をさらさらと揺らし、星のようにきらめく目をして、遠子先輩は語りはじめた。

「主人公の少年は礼儀正しく誠実で、文武両道に秀でた優等生よ。

 残る人物は二人。どちらも少年の同級生よ。一人は少年に似たタイプの、髪の長い真面目な少女。もう一人は、どちらかといえば無愛想な、冷たい目をした短髪の少女。

 二人とも少年のことが大好きだったわ」

 芥川くんが顔を上げ、驚きの表情で遠子先輩を見つめる。

 更科さんも目を見張り、困惑の表情になる。

 観客は、演出のひとつだと思っているのだろうか? 怪訝そうな顔をしながらも、遠子先輩の声や動きに引き込まれている様子で、舞台に見入っている。

 一方、ぼくもステージの上から、遠子先輩を見つめていた。

 痛みと嘆きに満ちた芥川くんの物語を、�文学少女�は、どう読み解くつもりなんだ。

 遠子先輩は、芥川くんから台詞を引き出せるのか?

「二学期のはじめに、席が隣同士になったことがきっかけで、少年は長い髪の少女と友達になるの。長い髪の少女は、両親との仲がうまくいかず、悩んでいたわ。少年は彼女の悩みを聞いてあげて、姉のお下がりの本をあげたりして、励ましたのよ。

 そんな二人を、短い髪の少女は、いつも少し離れた場所から、悔しそうに睨んでいたわ。だから少年は、短い髪の少女は自分のことが嫌いだと誤解していたのよ。

 本当は、短い髪の少女も、少年のことが好きでたまらなかったのに、長い髪の少女と少年が、優等生同士のお似合いのカップルに見えて、素直になれなかったのね」

 本筋とはまったく関係がないように思われる物語に、観客はじっと耳を傾けている。

 体育館の中は、夜の森のように静まり返り、そこに遠子先輩の澄んだ声だけが流れてゆく。

「短い髪の少女には、欲しいものがあったわ。それは、うさぎのお人形よ。このうさぎは恋のお守りで、持っていると、好きな男の子と両想いになると言われていたの。短い髪の少女は、うさぎが飾ってあるお店の前をうろうろしたり、お母さんにおねだりしたんじゃないかしら? そうして、やっとうさぎを手に入れたの。

 これで少年が振り向いてくれるかもしれない。短い髪の少女は嬉しくてたまらなかったわ。けれど、長い髪の少女も、同じうさぎの人形を持っていたのよ。

 しかもそれは、少年からプレゼントされたものだったの。

 短い髪の少女は、悔しくて哀しくてたまらなくて、長い髪の少女を、池に突き落としてしまったわ」

 主人公の少年が芥川くんを、長い髪の少女が鹿又さんを、そして短い髪の少女が更科さんを指しているのは、明らかだった。

 途中から更科さんは手を膝の上でぎゅっと組み、辛そうにうつむいてしまった。

 遠子先輩が、言葉を続ける。

「けれど、少年が想いを寄せていたのは、親友の長い髪の少女ではなく、短い髪の少女のほうだったのよ」

「!」

 更科さんが、弾かれたように顔を上げる。

 ぼくも唖然とした。

 少年が、短い髪の少女を好きだって? それって芥川くんが小学生の頃、更科さんを好きだったってことじゃないか!

 芥川くんは目を見開いたまま遠子先輩を見つめている。それが肯定の表情なのか、否定の表情なのか、わからなかった。

 遠子先輩が微笑む。

「信じられない? 大宮さま? わたしの話を、�文学少女�の妄想だとお笑いになる? わたしは、なんの根拠もなく語っているわけではありませんわ。

 ここで注目すべきは、うさぎの人形よ。

 少年は別の友人に、それは誕生日のプレゼントだと告白したわ。女の子の集まるお店に一人で行くのは恥ずかしかったので、長い髪の少女と買いに行って、選んでもらったのだって。

 これだけ聞くと、少年が長い髪の少女の誕生日に、うさぎの人形を贈ったように思えるわね? けれど、それは有り得ないのよ」

 凜とした目を客席に向け、遠子先輩が断言する。体育館の中はますます静まり返り、みんな固唾をのんで、遠子先輩の次の言葉を待っている。

 更科さんは、石のように固まっている。

「ここでヒントをひとつ差し上げるわ。長い髪の少女の名前は、『笑』といって、この名前は彼女が生まれたとき、�山が笑って�いたことから、彼女の父親がつけたの。

 大宮さま、あなたに俳句の心得があれば、�山が笑う�ということが、どんな状態を指すのかおわかりになるでしょう? そう、�山が笑う�とは、草木が芽吹きはじめ、山が淡く色づいてゆく様子を表した春の季語よ。つまり長い髪の少女は、春生まれということになるわ。長い髪の少女が少年と親しくなったのは、夏休みのあと。少年がうさぎの人形を彼女に贈ったのは、秋の終わり頃よ。誕生日までだいぶ先だわ。

 では何故、少年は友人に『うさぎは誕生日のプレゼントだった』と言ったのかしら?

 少年が嘘をついた?

 いいえ、そのうさぎは、もともと他の人の誕生日プレゼントだったと考えられないかしら? 少年は一人でお店に行くのが恥ずかしくて、長い髪の少女に、別の誰かへのプレゼントを選ぶのを[#「別の誰かへのプレゼントを選ぶのを」に傍点]、つきあってもらったのだって[#「つきあってもらったのだって」に傍点]。

 そして、短い髪の少女の誕生日は秋で、しかも彼女は、そのうさぎをずっと欲しがっていたのよ」

 舞台を凝視する更科さんの顔に、強い驚きが浮かんだ。

 それは芥川くんも同じだった。

 振り袖に袴着の遠子先輩が、軽やかな語り口で物語を展開してゆく。

 重く苦しい物語が、しだいに淡く優しい色に染められてゆく。

「ねぇ、大宮さま? あなたはいつも、わたしに冷たく接してらっしゃったけど、だからこそ、わたしはあなたが気になってたまらなかったわ。あなたにそっけなくされるたびに哀しくなって、一層あなたに惹かれていったわ。

 この少年も、わたしと同じだったんじゃないかしら? 遠くから睨みつけてくるだけで、決して近づいてこない短い髪の少女が気になっていたんじゃないかしら?

 そうして、少女がふとした折りに、弱さや優しさを見せたとき、いつもと違うその顔に、恋をしてしまったんじゃないかしら? わたしは、そんな風に想像するわ」

 いつか、夕暮れの通学路で、芥川くんが語った言葉を、ぼくは思い出していた。

 

 ----相手の意外な一面を見せられると、気になってしまう。普段は強気で意地っ張りなやつが、一人で泣いている姿を見てしまったときとか。

 

 芥川くんは、昔、更科さんのそんな姿を見たのだろうか。そうして、惹かれていったのだろうか。

 驚きを露にして遠子先輩を見つめていた芥川くんが、そっとまぶたを伏せ、切なそうな顔をする。更科さんのことを、思い出しているのだろうか。

 遠子先輩の口調も、しんみりしたものになる。

「うさぎの人形は、短い髪の少女への誕生日プレゼントだった。けれど、短い髪の少女が同じものを持っていたので、少年はそれを彼女に渡すことができなかったんじゃないかしら? そうして、用済みになったうさぎは、長い髪の少女の手に渡り、彼女のものになったの。もしかしたら、長い髪の少女が『わたしがもらってあげる』と言ったのかもしれないわ。いいえ、長い髪の少女は、短い髪の少女がうさぎを持っていることを、はじめから知っていたのかも……。

 何故なら、長い髪の少女にとっては、短い髪の少女は恋敵だったから。

 なので、自分のものになったうさぎを、少年からもらったのだと言って、見せつける真似をしたのかもしれない。あくまでも�想像�にすぎないけれど----、女はどんなに小さくても、女だわ。そういうことをしてしまうことが、あるのよ」

 眉を下げ、哀しそうな顔をしながら、遠子先輩は続きを語った。

「長い髪の少女は転校することになり、その前に、短い髪の少女に会いに来て、少年からもらった本とうさぎを、少年に返してほしいと言って渡すの。そうして、ごめんなさいと謝るのよ。

 何故、長い髪の少女は、直接少年に、それを返さなかったのか? 短い髪の少女にわざわざ預けたのか? このことからも、長い髪の少女は、少年が誰を好きかを知っていて、うさぎを自分のものにしてしまったことを、申し訳なく思っていたんじゃないかと感じるのよ」

 いつの間にか----更科さんは切なそうな表情で、遠子先輩を見つめていた。

 六年前、小学生だった更科さんは、うさぎの首を切断し、『蜜柑』を切り取って、芥川くんに送りつけた。

 けれど、しかたがない。彼女もじゅうぶん苦しみ、傷ついていたのだから。

 遠子先輩が振り袖を、ばさりとひるがえし、芥川くんのほうへ向き直る。

「ねぇ、大宮さま? 一体、今の話が、自分にどんな関係があるのかと訝しく思ってらっしゃるかもしれませんわ。けれど、彼らの物語には、あなたが、今、ご自分の力で新たな未来を切り開くための、大切な真実が隠されているわ。

 大宮さま、あなたは、わたしを受け入れることを恐れていらっしゃるわ。

 それによって、変わってしまう未来を恐れてらっしゃる。

 あなたの決断が、すべてを崩壊させ、狂わせてしまうのではないかと、心底から怯えていらっしゃるわ!

 そう、誰よりも誠実でありながら、結果的に二人の少女を傷つけてしまったあの少年のように、自分も愚かさゆえに�間違った�選択をしてしまうのではないかと、恐れていらっしゃる!

 けれど、大宮さま! 傷つき、離ればなれになった彼らの未来が、暗く厳しいものだと誰に決めつけることができるの? それどころか、彼らの前には、輝かしい未来が開けているかもしれないのに!」

 芥川くんの顔に、衝撃が浮かぶ。

 その顔をまっすぐに見つめ返し、�文学少女�は、高らかに、力強く、語りあげた。

「本を閉じれば、物語は終わってしまうのかしら? いいえ! それはあまりにも味気ない読み方だわ。あらゆる物語は、わたしたちの想像の中で無限に続いてゆくし、登場人物たちも生き続けるのよ。

 わたしたちは、その物語を、明るい光に満ちたものにすることもできるし、哀しく切ないものにすることもできる。だから、�文学少女�であるわたしは、彼らの未来が素晴らしいものであると想像するわ!

 転校していった長い髪の少女は、新しい土地で、哀しみから立ち直り、ご両親とも和解し、きっと生まれ変わった気持ちでやり直すことができたに違いないわ。

 短い髪の少女は、また哀しいことが起こって、大事な人を失い、自分も傷つくことになったけれど、でも、それはきっと未来に復讐されているだけで、このあと彼女は信じられないような幸福な体験を、いくつもするのよ。彼女は毎日の生活を楽しみ、前向きに努力し、多くの人が彼女を愛し、彼女もその人たちを心から愛するでしょう」

 雲の切れ間から差し込む一条の光のように、強く優しい声が、凜と呼びかける。

「ねぇ! 大宮さま!

 わたしたちは、様々なものに繋がれているわ。家族に、友人に、恋人に、怒りに、喜びに、哀しみに、憎しみに!

 それらはすべて、その人にとって必要なもので、それを断ち切ったら、生きていけないと思うかもしれない。けれど、人は、母親と自分を繋ぐ緒を断ち切ることでこの世に生まれてくるのよ。一度、断ち切らなければ、踏み出せない未来もあるわ。

 滅茶苦茶に壊れてみて、傷ついてみて、はじめて知ることができるものがある。見えてくる風景がある。心がある。

 わたしが先ほど語った物語は、人間の愚かしさや哀しさを語る物語であると同時に、�再生の物語�であり、�はじまりの物語�だわ! これから、素晴らしい未来が手を広げて待っている。そんな物語よ! そして、わたしたちのこの物語も----!」

 遠子先輩の頬に赤みがさし、瞳が星のようにあざやかにきらめく。

 語る声が、澄んだ希望に満ちてゆく。

 そんな遠子先輩の語る未来に、芥川くんはただただ驚きの眼差しで耳を傾けている。客席の更科さんは、震えながら泣いている。

「かの有名な白樺派の文士の小説に登場する、ご立派な真理先生のことを、あなたはご存知? 美と真理を追究する彼は、こう言っているわ。人生は参りきった者ではないと、本当のことはわからないと! 辛抱出来ないことがあるときは、泣くだけ泣けばいいと! 辛抱出来ることは僕等を再生させる力はない。人生に辛抱出来ないことがあるので、人間は再生出来るのだと!

 真理先生を世に送り出したこの文士は、たくさんの物語を通して、人の持つ強さと善意を歌い上げ、人を信じ、人を愛し、飾りのないまっすぐな言葉で、再生の物語を書き続けてきたのよ!

 もちろん、時には他人どころか、自分自身さえ信じられなくなることがあるし、挫折することも、参りきってしまうこともあるわ。誰だって、その人なりの痛みや悩みや苦しみを抱えている。悩みのない人間なんていない。苦しんだことのない人間なんていない。一度も失敗したことのない人間なんて、この世にいない!

 だって、人間なんて、みんな愚か者なのだから!

 わたしも、あなたも、あらゆる創作上の人物も、この世に生きる生身の人々も、みんな、どこかしら愚かな部分を持っているわ。

 人が愚かでなきゃ、芸術も文学も生まれない! そう、わたしたちは、みんな、誰も彼も愚か者なのよ!

 学校も、社会も、愚か者の集まりよ。そのことを、あなたはまず、認識すべきだわ!」

 長い、長い夜が明け、悪夢からゆっくりと目覚めるように、芥川くんの瞳から暗い影が消えてゆく。

 硬く張りつめていた頬がやわらぎ、すべての痛みと苦しみを洗い流したあとのようなすっきりとした表情が、顔に浮かぶ。

 遠子先輩は、それはもう全力で語っていた。

 ライトの明かりが、暗い闇の中に、遠子先輩の姿を鮮烈に照らし出す。

 艶を帯びた黒髪や、汗で濡れた額や頬や、首筋が、夜空の星をちりばめたように、きらきらと輝いている。桜色の唇が一瞬も止まることなく、強く、あたたかな言葉を紡ぎ続ける。

「賢くなろうとするあまり、あれこれ思い煩って、立ちすくんでしまわないで! あなたを繋ぐ鎖に囚われないで!

 未来は明るく素晴らしいと、お目出たい想像をしてみて! 想像がゆきすぎて失敗してしまうことも、惨めな思いや恥ずかしい思いをすることもあるかもしれないし、誤った想像で他人を傷つけることは、もちろんいけないことだわ。けれど間違って転んだら、また立ち上がって、歩き出せばいい!

 苦しい思いをしても、それは、あなたが未来に、今、復讐されているだけなのだから、がっかりしないで。どうせ、わたしたちは愚かなのだから、どんなときも、心に理想をかかげる愚か者であって。失敗を恐れず行動する愚か者であって。

 愚かでもいい。あなたはあなたらしく、あなたの声で、あなたの言葉で、あなたの想いを、あなたの真実を、存分に語って! あなたの心で、あなたの行く道を決めて!」

 頭の中に、あたたかな夕暮れに染まった空が浮かぶ。

 晴れやかで、やわらかな、橙色の空----。

 そこに、鮮やかに色づいた蜜柑が、ひとつ、ふたつと、投げ上げられる。

 遠子先輩の白い手が、頭上に広がる夕空に、次々と蜜柑を投げる。

 みっつ、よっつ、いつつ。

 陽気な笑顔で、優しい瞳で、長い三つ編みを揺らして、澄んだ声で笑いながら----。

 心に溜まる鬱屈が、甘酸っぱい香りの中に溶けてゆく。

 芥川くんの口元が引き締まり、目に決意の光が浮かんだ。

『僕は、手紙を出す。野島よ、許してくれ』

 低く、けれどはっきりと、ささやかれた言葉。

 それは、芥川くんの過去への決別だった。

 ぼくも、そして更科さんも、それを聞いた。

 更科さんはもう震えていなかった。頬を涙で濡らしていたけれど、顔を上げ、祈るような瞳でステージを見つめていた。

 背筋をまっすぐに伸ばすと、芥川くんは遠子先輩のほうへ勢いよく右手を差し伸べ、情熱に燃える眼差しで叫んだ。

『わが愛する天使よ、パリへ武子と一緒に来い。お前の赤ん坊からの写真を全部おくれ。俺は全世界を失ってもお前を失いたくない。だがお前と一緒に全世界を得れば、万歳、万歳だ』

 遠子先輩の唇がほころび、香り立つような微笑みが顔中に広がってゆく。

 長い黒髪が羽のように広がり、芥川くんに向かって駆け出す。

 ライトが遠子先輩を追いかける。

 そうして、芥川くんを照らすライトと、遠子先輩を照らすライトがひとつに重なり、溶けあい、遠子先輩は幸せでたまらないという顔で両手を広げ、体当たりする勢いで芥川くんの胸に飛び込み、抱きついた。

『ありがとう! ありがとう! 大宮さま! ありがとう!』

 本当ならここは、微笑みを浮かべた杉子がゆっくりと大宮に歩み寄り、大宮も杉子のほうへ近づき、杉子が大宮の手に自分の手をそっと乗せ、二人で目と目を見交わし微笑みあうというシーンだった。

 けれど、遠子先輩はよほど嬉しかったのだろう。

 いきなり抱きつかれた芥川くんは目をむいたが、すぐに晴れ晴れとした顔になり、遠子先輩をそっと抱きしめ返した。

 流れ的には、文句なしの名シーン、名演技となったわけだけど、それを目の前で見せつけられたぼくは、正直、妬けてしまった。

 はしゃぎすぎだよ、遠子先輩。

 胸の奥がチクチクして、悔しいような切ないような気持ちになったのは、ぼくが野島の気持ちに同調していたせいだろうか。

 舞台が暗転し、幸せな恋人たちを闇の中に隠す。

 ステージの中央にしゃがみ込み、広げた同人誌を見おろしたまま愕然とするぼくを、頭上から落ちるライトが、孤独に浮かび上がらせる。

 大宮は友情と引き替えに最愛の女性を得たけれど、野島は親友と愛する女性を一度に失ってしまった。それは耐え難い痛みであり、絶望であり、苦しみだ。

 けれど、遠子先輩が言っていたように、断ち切らなければ踏み出せない未来がある。

 壊れてみて、傷ついてみて、はじめて知ることができるものがある。見えてくる風景がある。心がある。

 そのことを、今、ぼくも信じたい。

 暗闇の先には、新しい世界が開けていることを。

 すれ違っても、罵りあっても、叩き壊しても、離れても、傷ついても傷つけても、いつかまた手を取り合える----そんな関係もあることを。

 だからぼくも、決断することを、もう恐れない。

 ぼくは同人誌を引き裂いて立ち上がると、大宮から贈られたマスクを、ステージに叩きつけた。

 石膏で作ったマスクが音を立てて割れ、白い欠片が飛び散る。

 客席に向かって、ぼくは叫んだ。これまでぼくを繋いできた、重い鎖を断ち切るように。

『僕は一人で耐える。そしてその淋しさから何かを生む。いつか山の上で君たちと握手する時があるかも知れない。しかしそれまでは君よ、二人は別々の道を歩こう』

 膝から力が抜け、再びステージに崩れ落ちる。

 ライトがしだいに淡く暗くなり消えてゆく中、頭を抱えてうなだれ、ぼくは低い声で呻いた。

『自分は淋しさをやっとたえて来た。今後なお耐えなければならないのか、全く一人で。神よ助け給え』

 そう、この先だって、ぼくは一人でベッドに潜り込み、泣くことがあるだろう。

 後悔も絶望もするだろう。

 こんな苦しみは耐えられない----そんな風に思うこともあるだろう。

 それでも、人は泣くだけ泣いたあと、立ち上がり歩き出すのだ。

 そこから本当の物語がはじまるのだ。

 闇の中にうずくまるぼくの耳に、体育館を揺るがす、たくさんの拍手と歓声が聞こえた。

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最后编辑于:2015-05-07 19:28

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