【春宵苦短少年学习吧】第12课朗读 嘉嘉 2015-05-06

sjbluesky (嘉嘉☪一期一会)
【A+研究所】荣誉会员☆网校制霸
地狱巫师统领
56 17 3
发表于:2015-05-06 13:31 [只看楼主] [划词开启]




早晨在食堂听完写后一次性录的。原长27min.有删截。
啊啊好喜欢这两篇文章呢。其实这本书的文章都很喜欢。
明天就是最后一段的录音了。然后准备学二周目的同时。
开始第六册的朗读练习。第五册主翻译之类的课后练习。



五月に出会う

 

五月といえばもう初夏である。だが日本では、夏の初めがまっすぐに夏へは続いてゆかない。間に梅雨といううっとうしい季節がはさまる。梅雨は季語としては夏に分類されるようだが、私の感じでは夏ではなく、かといってもちろん春でもない。何か四季から少しはずえれた特殊な季節のような気もするのである。

 

統計的にみると、入梅の日付けは五月四日から六月二十二日までの間に分布しているそうだが、私の心の中では五月という月は、やはり五月晴れの五月である。それはまぶしくきらきらと輝いていて、しかも乾いている。後に梅雨をひかえているから、よけい対照的にそう感じられるのだ。

 

そういえば五月晴れということばは、昔は旧暦で梅雨の中休みの晴れ間を指していたという。今は新暦で五月初旬の、たとえば鯉のぼりの勢いよく泳いでいる晴天を指すようだが、そのいずれにも、私は秋晴れとは違ったもののを感ずる。五月晴れには秋晴れにない予感のようなもののがある。秋晴れはそれ自体で充足していて、後にはもう何も残っていない。からっと晴れあがったという、そのからっぽなかじにむしろすがすがしさがあるのだが、五月晴れにはそういう底が抜けたような安心がない。かすかないらだちといわれのない希望がある。

 

梅雨という薄暗い季節をぬけて、その先に夏がある、そのことへの期待や欲望がそんな感情を呼び覚ますのは確かであるが、同時にそのいらだちや希望は、もっと形のないものにも向かっていると私は思う。日時はややずれるけれどもそれをキリストの復活に結びつけ、派手な帽子で発散してしまう人びともいるわけだが、私にとってはその表現は何であろうとその中心は、自分一個のこの生きている肉体に帰ってきそうである。すなわちそれは私という一個の生物の生命欲のようなものに結びついている。それゆえにそれは、自分に発し自分に帰る一個自己中心的な息苦しさを伴うのである。

 

そんなときに私を襲う予感は、だから他人への思いやりなどいうものは一切含んでいない。世界はどうあろうと自分は生きるのだという盲目的な予感なのであって、それはもちろん論理的なものではあり得ないし、こうしてそれを他人に語ることすら無意味なのかもしれない。

 

けれどそうした生きることへの衝動が、私にとっては大切なものであることは疑いない。私に人を愛することができるのも、詩を書くことができるのも、もしかすると他人のために自分を犠牲にすることができるのも、すべてはその力が源になっているからである。

 

他人からではなく自然から、いやもっと深く宇宙そのものから直接に生きる力を得るというのは、何も私だけの特権ではなかろう。あらゆる人が知らず知らずmぴとも同じことをしていると思う。社会の中での他人との関係というものにも、その根元には一個の生命体としての人間の盲目的で自分中心の生命力が働いている。いわばそういう絶対的な孤独から、人間はつねに新しく関係を出発させると私は考えている。

 

だからこそ我々には他人に対して想像力を働かせる必要があるのである。特に遠い他人に対してはそれよりぼかに結ばれようはない。そしてそのためには、我々は自分のエゴイズムをできる限り深くつきつめるしかない。それは欲望と欲望のせめぎあう無間地獄なのである。

 

現代の都会に住む人間にとっては、季節感などないに等しいという意見がある。かつてそう思ったこともあったが、今は私は信じない。街に一本の街路樹がある限り、空に本物の太陽がかいま見える限り、季節は我々についてまわり、我々に新たに感じずることを強いる。季節は移り、時節はまた来るとしか感じないのは、すでに自分で感じていない証拠ではないか?

 

街角で出会うにおいのようにはかないもの、そのときふと動いた自分の心のひだに分け入る余裕があれば、そこに何と多くのものがかくされていることだろう。際限もなく自分を目つめることが他人につながり、世界につながろと、このごろようやく私にも分かってきた。(汝自身を知れ)とは、恐ろしい言葉だと思う。近い他人への思いやりはあっても、遠い他人への想像力の働かなかった自分に、やっと私は気づき始めている。

 

かつての五月に、私は自分のたましいにのめ気を奪われていて、他人などというものにはとんと思いが及ばなかった.青葉の輝きは私の目のたのしみのために存在し、それを目にずる束の間の幸福を私は当然のものとして私有していた。

 

今それに変わりはないし、その幸福を感ずる能力を失っては、私に人の不幸を感ずることもなくなるだろう。けれど今はその幸福の肉感がひとつの相対的なものとして感じられる。答えは何ひとつ出ていなくて、かすかないらだちといわWれのない希望は、¥やはり私を息苦しくさせるのだが、五月に出会うたび、私が五月によって年輪のある部分を加え得ているということもまた、私には信じられる。




【春宵苦短少年学习吧】第10课朗读 嘉嘉 2015-05-02
【春宵苦短少年学习吧】第11课朗读 嘉嘉 2015-05-03
【春宵苦短少年学习吧】第11课朗读 嘉嘉 2015-05-04
【春宵苦短少年学习吧】第12课朗读 嘉嘉 2015-05-05

@小姗宝贝_  @skybei
よろしくお願いします!



最后编辑于:2015-11-26 10:42

本帖来源社刊

分类: 朗读

标签: 日文时光

全部回复 (17) 回复 反向排序

  • 3

    点赞

  • 收藏

  • 扫一扫分享朋友圈

    二维码

  • 分享

课程推荐

需要先加入社团哦

编辑标签

最多可添加10个标签,不同标签用英文逗号分开

  • 早读时光
  • 夜猫之声
  • 你读我评
  • 朗读课堂
保存

编辑官方标签

最多可添加10个官方标签,不同标签用英文逗号分开

保存
知道了

复制到我的社团