文学少女4:一章 おやつは絶対、忘れずに

发表于:2015-05-10 19:41 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-10 19:39~2015-05-31 01:30
地点: 南京
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一章 おやつは絶対、忘れずに

 

「あ、お砂糖のタルトだわ」

 原稿用紙の端を小さく干切って口に入れると、遠子先輩は嬉しそうに、にっこりした。

「ざくざく崩れてゆくタルト生地の中に、コクのある赤砂糖と黒砂糖、大粒のクルミの、リズミカルな食感……」

 溜息とともにつぶやき、大切そうにちまちま破いては口へ運ぶ。

「噛みしめるごとに広がる素朴な甘味……しっかりと甘いのに、決してクドくはならない絶妙のバランス」

 ぴりっ。しゃくしゃく。こくっ。

 本の塚に埋もれそうな狭い部室に、奇怪な音がひそやかに響く。

 遠子先輩は、物語を食べる妖怪なのだ。

「わたしは妖怪ではなく、ただの�文学少女�です!」

 と本人は主張しているけれど、紙に書かれた文字を美味しそうにパリパリやっている姿は、とてもまっとうな女子高生には見えない。

「あのねっ、お砂糖のタルトは、タルト=シュクルというのよ。シュクルはフランス語で、お砂糖の意味なの。表面がちょっと焦げて、苦くなっちゃってるけど、そのアクセントがまた、たまらないわ。今日は合格! えらいぞ、心葉くん!」

�焚き火��トナカイ��早食い競争�の三つのお題で書いた�おやつ�は、遠子先輩のお気に召したらしい。

 早食い競争に敗れ、夜の森を孤独に彷徨うトナカイが、彼を一途に待ち続けていた恋人の少女と、焚き火の前で再会する——。

 そんなベタベタな話を書いてしまったぼくは、素直に喜べなかった。

 もっと、ひねったほうが良かったかな……。

 いつもおかしなオチをつけて「まず〜い」とべそをかかせているので、たまには遠子先輩の好きな、甘い話を書いてあげようと思ったのだけど……。

「タルト=シュクルなんて聞いたことありませんよ。その味になったのはたまたま偶然です。本当は女の子に、火のついた薪で殴られて、トナカイ汁にされる予定だったんです。再会したところで制限時間がきちゃったんですよ」

 原稿用紙を片付け、シャーペンをケースにしまいながらそっけなく言う。

 すると、窓際でパイプ椅子に体育座りしておやつを食べていた遠子先輩は、口に原稿用紙の欠片をくわえたまま、青ざめた。

「そんなぁ、せっかくのお砂糖のタルトに、ワサビ入りのトマトケチャップを浴びせるような真似をしなくても……」

 細い肩をすくめ、腰の下まである長い三つ編みを揺らして、いやいやと怯えてみせたあと、すぐにまた日だまりの中の猫みたいに目を細める。

「よかった。トナカイさんが幸せになったところで終わって。本当に、とっても甘くて美味しいわ」

 そんな顔をされると、胸の奥がむずむずして、居心地が悪くてたまらない。

 決めた、次は絶対に、どろどろのホラーにしてやろう。

「あぁ、美味しかったぁ! ごちそうさまでした!」

 ぼくの企みも知らず、遠子先輩は最後の一欠片まで、幸せ一杯の顔で飲み込んだ。

「それはよかったです(……けど、次は、ホラーでスプラッタですから)」

 爽やかな笑顔を作りつつ、心の中でそんな風に、つぶやいたとき——。

「これでわたしも、心おきなく休部できるわ」

 遠子先輩が、さらりと言った。

「へ?」

「ほら、わたし三年生でしょう? そろそろ受験に専念しなきゃ」

「まだ[#「まだ」に傍点]専念してなかったんですか!」

 ぼくは唖然とした。今、十二月だぞ! 受験まであと二ヶ月くらいしかないじゃないか。なのに、いつまでたっても部室で蘊蓄たれながら、本をぴりぴりむしゃむしゃやっているので、てっきり推薦で決まっていると思っていたのに——。

「するんですか!? 受験!」

「もちろん。わたしは燃える受験生よ」

 おっとりした顔で、堂々と断言する。ああ、ここまで呑気な人だと思わなかった。

 肩を落とすぼくを見て、遠子先輩が年上のお姉さんぶって言う。

「そんなにがっかりしないで、心葉くん。尊敬する先輩と会えなくなって寂しい気持ちは、よぉくわかるわ。わたしも、おやつを食べられなくなるのは——いえ、慣れ親しんだ部室を離れるのは辛くてたまらないもの。

 けどね、人は、甘い本ばかりめくっていてはダメなのよ。ときには石川啄木の『悲しき玩具』や『一握の砂』を、じっくり読むことも必要なの。

 そう……、千切りにした大根と人参のなますを、どんぶりに山盛りにして、延々食べ続けるように——お酢の染みこんだ大根の儚さと人参の固さに人生の辛酸を感じながら、そこに混ざるほんの少しの砂糖の甘さに勇気づけられるように、噛みしめ、噛みしめ、食べるのよ。なますって、とても体にいいのよ。心葉くんも試してみて」

「意味わかりません!」

「幸せな春を迎えるために、冬はなますを食べて頑張りましょうってことよ」

「ぼくがなます食っても、遠子先輩の学力がアップするわけじゃないでしょう。それに石川啄木って、貧乏で死んじゃったんじゃないですか。報われてないです、落ちますよ」

「いやああああああっ、デリケートな受験生に、不吉なこと言わないで〜」

 両手で耳をふさぎ、椅子の上で縮こまる。

「ああ、もういいです。さっさと家に帰って勉強してください」

 投げやりに言うと、急に年上っぽい眼差しになり、くすりと微笑んだ。

「ええ、ありがとう。そうするわ」

 脱ぎ捨てた上履きに、スクールソックスに包まれた小さな足を差し入れ、立ち上がる。

 そうして、三枚ほどのレポート用紙を、ぼくに差し出した。

「? なんですか?」

「差し入れリストよ。心葉くんも尊敬する先輩のために、なにかしたいでしょう?」

�クレヨン��消防署��リンボーダンス�——熱々のフォンダンショコラ風味。

�蝶々��恐山��サーファー�——ふんわり癒しのバニラスフレ風味。

�懐中電灯��ラフレシア��英検�——豪華フルーツパフェ風味。

 そんな言棄が、びっちり書いてある!

 なますを食べて精進するんじゃなかったのか!

「毎日、ひとつずつ書いてねっ。う〜〜〜〜んと甘いおやつをお願い。楽しみだわぁ。あっ、引退は卒業までしませんから、安心してね」

 にっこり笑い、ひらひらと手を振って部屋から出て行く三つ編みの妖怪を、ぼくは茫然と見送ったのだった。

 

「なんて、勝手な人なんだ!」

 翌朝。ぼくは教室で、芥川くんに怒りをぶちまけた。

「誰のことだ?」

「遠子先輩だよ! もともとぼくは、どこの部にも入るつもりはなかったんだ。なのに、文芸部なんて怪しい部に引っ張り込んで、毎日作文を書かせて、自分は本を読みながら呑気に蘊蓄をたれ流して、今度はいきなり休部するとか言って、その間も自分が読みたいから作文書けとかさ」

「不満か?」

「大不満だよ」

「でも、書くんだな?」

 芥川くんが、机の上に広げてある五十枚|綴りの原稿用紙に目を落とす。

 ぼくは書きかけの三題噺を、両手でこそこそ隠した。

「し、仕方ないじゃないか。書かなきゃ先輩への尊敬が足りないとか、心葉くんのせいで受験に集中できないとか、駄々をこねるに決まってるんだから、あの人は」

 芥川くんの端整な顔が、おかしそうにほころぶ。

「井上は、普段は冷静なのに、天野先輩がからむと子供っぽくなる」

「なにそれ。子供っぽいのは遠子先輩のほうだよ。ぼくが、あの人の面倒を見てるんだ」

「そうか」

「そうだよっ」

「まぁ、そういうことにしておこう。それより、オレのメールは、無事に届いたか?」

「えっ!」

 制服のポケットから、慌てて携帯電話を引っ張り出す。

 ナイトブルーのそれは、先日|購入したばかりの新品だ。今まで必要ないのでいらないと言っていたのだけど、芥川くんという友達もできたことだし、やっぱり持っていたほうが便利かなと思い、家族割で契約してもらったのだ。

「ゴメン、メールのチェックをする癖が、ついてなくて。昨日、ぼくのほうから『メアド決まったよ』って、きみの携帯に送ったんだよね」

 着信を確認すると、芥川くんと、何故か妹の舞花の着信もある。小学生の妹もスイミングスクールの送り迎えのために携帯を買ってもらったので、嬉しくてメールを打ってみたのだろう。今朝、蜜柑のジャムを塗ったトーストを囓りながら、ふくれっ面でぼくを見ていたのは、このせいか。うわっ、あとで返事をしてやらないと。あれですねると結構面倒くさい。

「芥川くんのメール、ちゃんと届いてるよ。って、芥川くん顔文字使うんだね。意外」

 芥川くんが、照れくさそうな顔になる。

「姉二人に、あんたのメールは硬いと言われてな、改善してみた。なかなか便利だぞ」

「そっか。なら、ぼくも妹に教えてもらって、うんと珍しいやつを探して送るよ」

「ああ、楽しみにしている」

 と、そこへクラスの女の子たちが、かたまってやってきた。

「ねぇ、井上くん、携帯買ったんだね! うわぁ最新の機種だ。カッコいい」

「井上くん、あたしとメアド交換しない?」

「あたしも! いいでしょう? 井上」

 いきなり囲まれて、ぼくは面食らってしまった。芥川くんならともかく、どうしてぼく? これまでぼくは、女の子にモテたことはないのに。

「ほら、ななせもっ」

 後ろのほうにいた琴吹さんを、森さんが引っ張り出す。琴吹さんが、わたわたする。

「あ、あたしは別にっ。井上のメアドなんか聞いても、用ないし」

「えーっ、みんな、交換するんだから、ななせもしなよ〜」

「そうだよ。連絡綱を回すとき困るじゃない。はい、ななせ、携帯貸して」

「い、いいってば」

「もぉ、焦れったいな。ええい、ここか!」

「や、ダメ! 森ちゃん、返して!」

 森さんが、琴吹さんのポケットに手を突っ込んで携帯を取り上げる。

 あの……そこまでしなくても。琴吹さん、ものすごく嫌がってるみたいだし。

 と、そのとき。

 

「ななせー、お客さーん!」

 

 廊下に、カジュアルなスーツを着た優しげな男性が立っているのを見て、琴吹さんは、「げっ!」という顔をした。それから焦っているようにぼくを睨みつけ、あっちを見て、またこっちを見て、またあっちを向き、こっちを向く。

「琴吹さん、呼ばれてるよ」

「い、井上に言われなくても、わかってるよっ」

 キッと言い放ち、唇を噛みしめ、廊下のほうヘダッシュしていった。

「あっ、マリちゃんだ」

「うわぁ! ななせに何の用かな?」

 去年の春から音楽を教えている毬谷敬一先生は、品の良い顔立ちで、女子に人気なのだ。ちょっと変人だという噂もあるけれど……。

「マリちゃん、絶対、ななせに気があるよね!」

「うんうん。�ななせくん�なんて名前で呼んじゃってさ、授業中もよく、ななせのこと見てるし。やたらななせのこと、かまいたがるし。どうする? 井上くん?」

「えつ、ど、どうって……?」

「ななせは、男の子に人気あるんだよ〜。なんたって美人だし、ガード固いトコが、そそるしね。うかうかしてると、ヤバいよ」

 ヤバいってなにが?

「あーっ、もぉ、マリちゃんとななせ、なに話してるんだろ。気になる〜」

 森さんたちは異様に盛り上がっている。ぼくは、ちんぷんかんぷんだった。隣で芥川くんが肩をすくめている。

 毬谷先生は手をあわせ、琴吹さんになにか頼んでいるようだった。けれど琴吹さんは、ろくに聞いていないようで、ぼくのほうを、ちらちら睨んでいる。頬をふくらませ、唇を尖らせたその顔が、今朝、不満そうな上目遣いでむくれていた小学生の妹に似ていると思ったとき、毬谷先生が、急にぼくのほうを見た。

 おや? という眼差しをしたあと、高そうな時計をはめた手を、ちょいちょいと振って、おいでおいでをする。

 ぼくですか? と目で問いかけると、人好きのするやわらかな笑顔で、うなずいた。

 戸惑いながら、廊下へゆき、

「なにかご用ですか?」

 と尋ねると、耳をくすぐるような、軽やかな甘い声で言ったのだった。

「井上くん、きみ、放課後、私の仕事を手伝ってくれませんか? 音楽室の資料の整理をしてほしいんですよ」

「ちょ……っ! なんで井上に頼むの!」

 琴吹さんが、ぎょっとした様子でわめく。

「だってななせくん、さっきから井上くんに、アイコンタクトしてたでしょう? 『一人じゃ大変だから、手伝って』って」

「してない! てゆーか、そもそも引き受けてない」

「おや? では何故、井上くんのことばかり見ていたんですか?」

「そ、それは……っ!」

「井上くんは、もちろん手伝ってくれますよね?」

「え、あ? はい」

 軽やかな声と親しみやすい笑顔につられて、反射的に返事をしてしまいハッとした。

 あれ? 今ぼく、はいって言った? マズい! 琴吹さんが唇を尖らせて睨んでいる。

「おお、ありがとう。では早速、今日の放課後からお願いしますよ。仕事はたっぷりありますから、二人とも頑張ってくださいね」

 毬谷先生が、満足そうにぼくらの肩を叩いた。

 

「井上のせいだからねっ」

 放課後。琴吹さんは、とっても怒っていた。

 二階の東南にある音楽準備室は、大量の段ボール箱で埋もれている。ぎっしり詰まった資料を分類し、ファイルにまとめるのが、ぼくらの仕事だった。

「ご、ごめん……でも、もともと琴吹さんが、先生に頼まれたことだし……」

「井上が引き受けなかったら、断ってた。って、井上と働きたかったわけじゃないからねっ」

 ぷりぷりしながら、段ボールを開き、資料をがしがし床に積み上げてゆく琴吹さんに、毬谷先生が、華やかな明るい声で言う。

「やぁ、嬉しいですね。ななせくんに手伝ってもらえて。ぶっちゃけ好みなんですよね、ななせくん。むくれ方がチャーミングです」

「あたしは、オヤジは趣味じゃありません! それに、ななせって呼ぶな!」

「すみませんね。苗字がななせだと思って、うっかりそちらで覚えてしまったので」

「名簿に、フルネームが書いてあったでしょ!」

「そうでしたっけ?」

「〜〜〜〜っ!」

 琴吹さんが苛立たしげに唸り、くるりと背中を向けてしまう。先生は、ぼくのほうへ体を寄せ、楽しそうにささやいた。

「ムキになるところが、可愛らしいですよね。あーゆー子になじられると、ぞくぞくして抱きしめたくなりますよ」

「先生……その発言は教師としてどうかと」

「教師も、教室を出れば一人の成人男子ですよ、井上くん」

「せめて校舎を出てからにしてください」

 顔をくっつけて、ひそひそ話していると、琴吹さんがそぉっと振り返った。

 とたんに先生が、嬉しそうに声を張り上げる。

「あれ? ななせくん。私と井上くんがなにを話しているのか、気になりますか? ななせくんは可愛いねぇって褒めてたんですよ。ねぇ? 井上くん」

「え、はぁ、その……」ぼくは困ってしまった。

「べ、別にっ! 気にしてないから」

 琴吹さんが、慌てて背中を向ける。

「あっ、ななせくんの太ももに、みみずが」

「ひゃっ!」

 琴吹さんが飛び上がり、スカートの下を、ばたばた払う。目が思いきり泣きそうだ。

「ふむふむ、やはりみみずが苦手ですか。そうだと思いました。私は、女の子の趣味|嗜好を当てるのが得意なんです。ちなみにみみずは、十二月は冬眠で活動を休止していると思われるので、安心してください」

「〜〜〜〜っ、こ、このっ、セクハラ教師!」

 資料をぐしゃぐしゃっと丸めて投げつけてくるのを、先生が、ひょいっとよける。それは、ぼくの顔に命中した。

「痛っ」

「や……っ! い、井上、どんくさい。ちゃんとよけてよ」

 琴吹さんが、真っ赤な顔でおろおろし、ぶつぶつつぶやきながら背中を向けてしまう。

 かと思ったら、心配そうにちらっと振り返り、また慌てて前を見る。

「ねっ、可愛いでしょう」

 先生がぼくの肩に手をかけ、ウインクした。

 琴吹さん……遊ばれてるよ。

 ぼくは同情した。けど——。怒ったり慌てたりしている琴吹さんは、先生が言うように可愛らしく見えた。琴吹さんって、こういう子だったんだな。よく、クラスの男子が、琴吹ななせはイイと騒いでいるのがわかったような……。

 

「そろそろ休憩にしましょう」

 一時間ほど作業をしたあと、毬谷先生が、紙コップにお茶を淹れてくれた。

 ミルクティーみたいだけど、色も風味も濃くて甘い味がする。シナモンの香りがふんわり漂う。あ、生姜も入ってるかな。

「チャイというんですよ。インドで飲まれている、甘く煮たミルクティーです。どうですか?」

「はい、美味しいです」

 遠子先輩が好きそうな味だ。甘くて、あたたかくて、疲れがとれて、ホッとして……。

 先生が目で微笑む。

「それはよかった。私は、客人にチャイを振舞うのが大好きなんですよ。ななせくんも、お気に召していただけましたか?」

「……美味しい」

「私と結婚したら、毎日飲めますよ」

「しないっ、てゆーか。絶対絶対有り得ない!」

 猫が毛を逆立てるようにわめく琴吹さんに、先生がめげずに言う。

「おぉ、そうだ。友人が、オペラのチケットを送ってきたんですよ。学生の発表会ですが、主役のテノールはプロの客演です。一緒にどうですか? ななせくん?」

 指にチケットを挟んで見せると、少しは興味があるのか、琴吹さんが横目でちらりと見上げた。

「……それ、あたしももってる」

 毬谷先生が、意外そうな顔をする。

「おや? 奇遇ですね? オペラお好きですか? 趣味があいますね。運命でしょうか」

 琴吹さんが慌てて否定する。

「ちが……っ、友達が出演するんで、自分で買ったんです!」

「なんと、お友達は白藤音大|附属の生徒さんでしたか。それなら私の後輩ですよ! ちなみに美人ですか?」

「だったらなにっ」

「いや、ぜひ三人でネパール料理でも囲みたいなーと。お友達はフリーですよね?」

「夕歌は彼氏いるから! いなくても、音楽鑑賞の時間に、耳栓して居眠りしてるようないい加減な音楽教師に、親友は紹介しないっ」

「私は仏教徒だから、賛美歌を聞くと、おへそから豆の蔓が伸びてくるんです」

「そんなの、聞いたことないよっ」

「嘘ですから」

「〜〜〜っ!」

「せ、先生! そのへんでやめたほうが。琴吹さんも、げんこつ振り上げたりしないで。ね?」

 不穏な空気を感じて、慌てて仲裁に入ると、琴吹さんは急に赤くなり、おろした手で、ぱっぱっとスカートを払うと、そそくさと作業に戻った。

 毬谷先生は、そんな琴吹さんを、甘い湯気の向こうからおだやかに目を細めて、見つめていた。

 

「マリちゃんは、声楽の勉強をしてたんだよ。大学のときパリに留学してて、向こうのコンクールで入賞したこともあるんだよぉ」

 翌日の昼休み。芥川くんとお弁当を食べていたら、森さんたちが、わざわざやってきて、毬谷先生の話をはじめた。

「ご両親も音楽家で、天才って呼ばれてたんだって。とろけるような、甘ぁいテノールで歌うらしいよ。マリちゃんなら、プロデビューしたらアイドル並みに人気出てたよねぇ。なんで教師になったんだろ。もったいな〜い」

「あ、でもでも、彼氏にするなら、過去のある年上の美青年よりも、同年代の普通〜の子のほうがいいよね? 頑張れ、井上」

「そうだよ。ななせはブランド志向じゃないから、安心してどーんと行っちゃえ」

「あっ、ななせ戻ってきた! じゃあね、ななせをよろしくね、井上くん」

 ばたばたと去ってゆく森さんたちを、ぼくは、ぽかんと見送ったのだった。

「……今のどういう意味? 芥川くん」

「だいたいわかるが、琴吹に恨まれるから言えない」

 芥川くんが、気の毒そうに箸を置く。

 けど……そうか。

 ぼくは、レタスとオムレツのサンドイッチを手にしたまま、ぼんやりと考えた。

 毬谷先生も[#「も」に傍点]天才と呼ばれていたんだ。

 

 放課後。遠子先輩が中庭に不法設置した恋愛相談ポストに、差し入れの三題噺を投函してから音楽準備室へ行くと、ドアの前に知らない男子生徒がいた。

 背丈はぼくと同じくらいだろうか。色の抜けた明るい髪をしていて、細身で眼鏡をかけている、これといって変わったところのない、ごく普通の生徒だ。

 彼は顔を伏せ、ぼくの傍らを空気のように、するりと通り抜けていってしまった。

 あれ? 今の人、準備室に用があったんじゃないのかな……?

 ドアを開けると、毬谷先生がパイプ椅子に腰かけ、チャイを飲んでいた。考え事をしているのか、指を口元に当て、無防備にぼぉっとしている様子が、どこかの三つ編みの文学少女を思い出させて、苦笑した。手首で、重そうな時計がきらきら光っている。

「あれ? 井上くん、一人ですか? ななせくんは?」

「用があって遅れるそうです」

「あー、よかった。昨日いじりすぎたから、逃げられたのかと、ひやっとしましたよ」

「……自覚があるなら、自重してください」

「やぁ、だって、反応が楽しくてつい」

 内緒ですよというように、目で笑いかけてくる。

 昨日から先生は、そんな風に、仲良しの親戚のお兄さんのような親しげな視線を投げてくる。そうされると、胸がちょっとくすぐったくなる。

「先生は、海外のコンクールで入賞して、天才って呼ばれてたそうですね」

「はは、そんなこともありましたね」

 毬谷先生が、軽やかに笑う。

 その笑顔があんまり自然だったので、ぼくはつい訊いてしまった。

「どうして、プロにならなかったんですか」

 口にしたとたん、胸の奥がズキッとした。答えを待つぼくは、息をつめ真剣だった。

「……」

 何故なら、ぼくも、かつて天才と呼ばれたことがあったから。

 平凡な中学生だったぼくを、大きな波が飲み込んだのは、中学三年生の春だった。

 たまたま応募した小説雑誌の新人賞を、史上最年少の十四歳で受賞し、ペンネームが井上ミウなんて女の子名だったせいで、謎の覆面天才美少女作家という大層な呼び名を頂戴し、全国区の有名人になってしまったのだ。

 二年以上の歳月が流れた今、ぼくはおだやかな日常を生きている。友達もできたし、笑えるようにもなった。

 毬谷先生は——どうだったのだろう?

 周囲に天才と賞賛され、将来を嘱望されながら、何故、教師になったのだろう?

 そのことを、今、どう思っているのだろう?

 先生は甘い湯気の向こうで、優しく口元をゆるめた。

「私は、好きな人と一緒にゆっくり過ごす時間を、なによりも大切にしたかったんですよ。華やかなステージとか、胃が引き絞られるような修練とか、過密なスケジュールとか、そういったものは、肌にあわなかったんです」

 濁りのない澄み切った声だった。

 目をやわらかく細め、金色の蜜がとろけるように笑うと、乾杯するように紙コップを持ち上げる。

「だから、自分の選択を後悔はしていませんし、断言します。一杯のチャイがあれば、人生は素晴らしいし、平凡な日常は何物にも勝ると」

 その言葉も、声も、光のようにぼくの心にまっすぐに差し込み、シナモンの香りが漂う甘いチャイのように、ぴりっとした刺激を残しながら、体の隅々にまで、ゆっくりとあたたかく染み渡った。

 先生の笑顔から、目が離せなかった。

 ああ、いいなぁ。

 ぼくもいつか、こんな風に自分の人生を肯定できるようになりたい。

 ささやかな日常を愛おしみながら、ゆったりと自然に、毎日を過ごしたい。

 変人だとばっかり思っていた毬谷先生が、とても広くて大きな人に見えた。

 やがて、琴吹さんが息を切らして現れた。

「いらっしゃい、ななせくん。そんなに大急ぎで走ってくるほど、私に会うのを楽しみにしてたんですね」

「ち、違う……っ」

「おや、みみずが」

「ひゃ!」

「琴吹さん、みみずは冬眠中だよ」

「ぅぅっ、うるさい、井上っ」

 昨日と同じように、毬谷先生が琴吹さんをからかう。

 琴吹さんが真っ赤な顔で怒ったり、ぼくが仲裁したり……。

 そんな、どうってことのないやりとりが、楽しくて、あたたかで、心地よかった。

 

『こんにちは、心葉くん。

 ポストのおやつ、いただきました。

�校門�と�くじら�と�バンジージャンプ�のフレッシュミントゼリー風味。

 ゼリーが甘くて、ミントというよりは、濃いミルクティーのようだったけれど、口の中で、さっと溶けていって、シナモンと生姜の香りがして美味しかった〜。そう、まるでチャイの味ね。ラストの一文は、熱でとろとろにとろけたゼリーが、おなかの中にあたたかく落ちてゆきました。とても幸せな気分。ごちそうさま。

 業者テストの結果がE判定で、ちょっと落ち込んでたのだけど、心葉くんのお話を食べて元気が出ちゃったわ。また、美味しいおやつを書いてね。

[#地付き]遠子 』

 

 うわっ。見抜かれてる。

 放課後。ポストに入っていた、遠子先輩からのお便りを読み、頬がじわじわと熱くなった。チャイの味……まさにその通り。意識したつもりはなかったんだけどなぁ。

 それにしてもE判定って——。遠子先輩、大丈夫なのか?

 受験の前に、腹をくだされたら困るので、当分幽霊の特盛りはやめておこう。

 授業中に仕上げた新しい�おやつ�を投函し、ぼくは音楽準備室へ向かった。

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 天使が、もみの木を運んできてくれた。

 ゆうべ私がバイトのことで、ひどく落ち込んでいたから、励ましのつもりだったのだろう。天使は、私のこと、なんでも知っている。私も、天使にだけは、なんでも話す。

 ななせにも打ち明けられないこと、醜いこと、汚いことも、全部。

 クリスマスにはまだ早いけれど、天使と二人で土を掘って、もみの木を植えた。私と天使の大事なクリスマスツリー。

 明日は、天使の羽根や、クリスタルの聖堂や、金色の鐘や星を飾ろうって約束した。それから、電気も灯さなきゃって。

 天使は、神様を信じてないから、クリスマスも賛美歌も嫌いだと言う。私が賛美歌を歌ったら、耳をふさいで、やめろって叫んだ。私も神様は信じられないけれど、クリスマスは好き。ツリーのイルミネーションを、一晩中だって見上げていられる。そうすると、神様は信じていなくても、とても神聖な清らかな気持ちになる。光の中に、心が、すーっと吸い込まれていく感じ。

 ツリーの中に、住めたら良かったのになぁ。そうしたらきっと、私の醜さも、白い光の中に溶けて消えてしまうのに。

 

 今年のイブは、彼と過ごす。

 クリスマスは、ななせと過ごす。

 

 ななせは、井上くんとうまくやってるのかな? 昨日の電話では、また井上のこと睨んじゃったよー、キツイこと言っちゃったよーって、落ち込んでたけれど。

 ななせは、すっごく可愛くてイイコだから、もうちょっとだけ積極的になったら、井上くんも絶対|惚れちゃうと思うんだけどなぁ。

 いつか、ななせと井上くんと私と彼でWデートできるといいねって、話したとき、自分がひどい嘘つきのような気がして、胸が痛くなって、泣きそうになって困った。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

「琴吹さんって、毬谷先生と仲良いよね」

「ば、バカ……っ! なに言ってんの。そんなわけないでしょ」

 一時間後——。日差しのあたたかな準備室で、ぼくは琴吹さんと仕事をしていた。

 毬谷先生が職員室に用があり、出ていったので、部屋の中はぼくと琴吹さんの二人きりだ。琴吹さんはぼくの隣で、紙をばさばさめくりながら、唸った。

「井上、目ぇおかしいんじゃないの」

「そうかな。琴吹さん、先生とだと、いつもよりおしゃべりみたいだし」

「……そ、それは」

 なにか言いかけて、「なんでもない」と、そっぽをむいて黙ってしまう。

 そのまま、すごい勢いで作業を続ける。

 そういえば、琴吹さんに訊きたいことがあったんだっけ。どうしよう。思いきって、今、訊いてしまおうか。

「ねぇ、琴吹さん」

「な、なにっ」

「琴吹さんとぼくって、中学のとき、どこで会ったんだっけ? よく考えたんだけど、思い出せないんだ」

 ああ、言っちゃった。

 でもこの際だからはっきりさせておこう。文化祭の劇の練習で、琴吹さんが泣きながら口走ったこと——。

 

『井上は、きっと覚えてないよ。けど、あたしにとっては特別なことだった』

 

『いつも井上と一緒にいたあの子が[#「いつも井上と一緒にいたあの子が」に傍点]、作家の井上ミウなんでしょう[#「作家の井上ミウなんでしょう」に傍点]!』

 

 何故、琴吹さんが井上ミウを、美羽と誤解したのか?

 何故、ぼくは琴吹さんと会ったことを覚えていないのか?

 琴吹さんの不自然なほどのかたくなさも、多分そこに原因があるのだろうから……。

 琴吹さんは、うなだれたまま石のように動かない。唇を噛みしめ、青ざめている。

 聞いてはいけなかったのかな……。

 後悔したとき、苦しそうに声を押し出した。

「……校章」

「え?」

「校章……で、わからない、かな?」

「えっと、制服につけるバッチの校章だよね?」

 琴吹さんの肩が、ぴくっと揺れる。

「待って、今、思い出すから。校章……えーと、えーと……」

 ぼくらの中学校の校章は、楓の形をしていた。学年ごとに色が違っていて、琴吹さんがぼくと会ったのは、二年生の冬? だとしたら校章は青で……。

「もぉ、いいっ」

 激昂した声が、思考を断ち切る。

 琴吹さんは手を固く握りしめ、震えていた。

「む……無理して思い出すことないよ」

 空気が冷たく凍りつき、ぼくは途方に暮れてしまった。

 そこへ、毬谷先生が戻ってきた。

「すみませんでしたね。職員室から塩大福をかすめてきたので、お茶にしましょう。あれ? ななせくん、どうしました?」

 先生の顔が、キスしそうなほど接近し、琴吹さんが慌てて飛びのく。

「な、なんでもないよっ!」

「ああ、私がいなくて寂しかったんですか」

 ほのぼの笑う先生に、

「バカ! 変態! 違う!」

 と、真っ赤な顔でわめく。

 少し元気になったみたいだったけれど、そのあと琴吹さんは、ぼくと目をあわせようとしなかった。

 

 校舎が茜色に染まる頃、三人で音楽準備室を出た。

「明日と明後日は、所用で出かけるので、次は木曜日ですね。よろしくお願いします」

「はい、さようなら、先生、琴吹さん」

「……さよなら」

 職員室へ戻るという先生と、図書室へ行くという琴吹さんと別れて、歩き出そうとしたとき。

 ふと、視線を感じた。

 突き刺すような暗い眼差しが、こちらを見ている。けど、人の姿がない。

 一体どこから?

 階段の前で、周囲を見渡したとき、頭上から風の唸りのような低いつぶやきが、舌打ちとともに聞こえた。

「……いい気なもんだ」

 背筋がざわつき、皮膚が粟立つ。

 視線を上に向け、四階へ続く階段を、一段一段、息を押し殺して、なめるように見つめる。けれど、そこには誰もいなかった。

 なに……今の声?

 誰に向かって言ったの? ぼく? 先生? それとも琴吹さん?

 耳をすましたけれど、もう足音すら聞こえなかった。

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 先生からお客さんのことで、電話があった。私のこと色々心配してくれてる。

 先生は優しい、いい人だ。

 久しぶりにデートした彼は、少し不機嫌そう。手に触れても、握りしめた指をほどいてくれない。バイト辞めろって、暗い声で言われた。

 

 気晴らしに、お城の広間に写真をたくさん飾った。

 ななせと私の写真。天使と私の写真。どの写真も、私は楽しそうに笑っていて、眺めていると、ああ、この写真の女の子は幸せなんだねぇって思えて、嬉しくなる。

 けど、彼の写真だけは、胸が裂けてしまいそうで飾れない。

 代わりに、青い薔薇の写真を飾る。

 白い薔薇に、青い色を染みこませて作った嘘の色だけど、綺麗。

 青い薔薇は、昔は『有り得ないこと』『不可能なこと』の意味で使われていたけれど、今は、遺伝子を組み替えて青い薔薇を作ることに成功して、花言葉も『奇跡』とか『神の祝福』に変わったんだって。

 けど、ネットの画像で見たその薔薇は、紫ぽくて、純粋な青には見えなかった……。

 だからやっぱり、青い薔薇の意味は『有り得ないこと』の、ままなのかもしれない。

 クリスチーヌが、ラウルに言った台詞をつぶやいてみる。

『あたしたちの愛はこの世では悲しすぎるのよ。空の上を歩かせましょうよ!……あそこでなら、この愛もとってもたやすく実現するんじゃないかと思うの!』

 

 せめて、ななせの恋がうまくいくといい。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 どうしたら、琴吹さんと仲直りできるだろう。

 翌日の放課後。ぼくは悩みながら、廊下を歩いていた。

 琴吹さんは、まだ昨日のことを気にしているみたいで、教室でもぼくを避けていた。

 森さんが、「井上くん、ななせと喧嘩したの?」と心配して尋ねにきたけれど、うまく答えられなかった。森さんも困っている様子で、「ななせは緊張すると固まっちゃうからなぁ。なにがあったのか知らないけど、悪くとらないであげてね」と頼んでいた。

 いきなり首筋をつつかれて、ぼくは飛び上がった。

「わっ!」

 振り返ると、タンポポ色のバインダーを抱えた、ふわふわした髪の小柄な女の子が、笑顔でぼくを見上げていた。一年生の竹田さんだ。

「こんにちは〜、心葉先輩。えへへー。聞きましたよ、ななせ先輩のこと」

「竹田さん……! な、なに、それ? なにを聞いたの?」

「ななせ先輩と、音楽準備室で、密室デートだそうじゃないですか。いよいよですね〜。それとももう、おろおろしちゃってますか?」

 ぼくの脇腹を、肘でぐりぐり押してくる。

「やめてよ、目立ってるよ、竹田さん。密室デートって、音楽の毬谷先生の手伝いをしてるだけで、先生も一緒だし、それにおろおろってなにさ?」

 そのとき胸のポケットで、携帯の着メロが鳴った。

 ゴメンと断って着信を見て、ドキッとする。

 え!? メール? 琴吹さんから!?

 慌てて内容を確認すると、

『ななせだよ。

 今日は井上のこと無視してるみたくなっちゃって、ゴメンナサイ (/_:)

 あたし、本当は井上のことが…… (>_<)

 今日、図書室に来てくれるかな (^_-)

 井上に、どうしても話したいことがあるの (*^_^*)』

 こ、これは一体——!?

 顔文字が頭の中に、ちかちかと飛び交い、パニクるぼくを、竹田さんが指さし言った。

「あ……おろおろしてます」

 

 琴吹さんに、なにが起こったんだ?

 話しかけてくる竹田さんを振り切り、動揺したまま図書室へ行くと、琴吹さんはカウンターで仕事をしていた。

「い、井上……っ」

 ひどく驚いている様子で、目を見開いてうろたえる。その顔を見て、ぼくのほうも、全身が心臓になったみたいにどぎまぎし、血液がもの凄い勢いで頭に駆け上っていった。

「な、なに? 返却?」

「その……話したいことがあるって、メールもらったから」

「え? 誰に?」

「誰って、琴吹さんに。……図書室に来てくれるかなって」

「えええええっ」

 思いきり叫んだあと、慌てて両手で口をふさぎ、小声で訴える。

「あたし、そんなメール、出してない」

「けど、さっき琴吹さんのアドレスで送られてきて……」

 ぼくも混乱してきた。どういうことなんだ?

「嘘っ、それ違う。だいたい井上にメール出す理由なんて——」

 琴吹さんがムキになって、睨みつけてきたときだ。

 いきなり森さんたちが、カウンターの前に湧いて出た。

「あれ! 井上くん、来てたんだ! ぐーぜーん」

「わー、よかったね、ななせ。井上に大事な話があったんでしょう?」

「ここはあたしたちに任せて、向こうで話しておいでよ。ね!」

 琴吹さんの目が、急に険しくなった。

「あたしの携帯から井上にメールを打ったのは、森ちゃん?」

 ひやりとするような声の響きに、森さんたちが口ごもる。

「えっとその……」

「さっき、森ちゃん、携帯忘れちゃったから、貸してって言ったよね」

「ご、ゴメンっ。ななせが、井上くんに話しかけられずにいたから……」

 琴吹さんの顔がカァァァッと赤くなり、激しい声が空気を裂いた。

「余計なことしないでっ! あたしは井上のことなんか、大っ嫌いなんだから!」

 言葉が耳に突き刺さり、頭が焼けるように熱くなった。

 カウンターの周りは静まり返り、琴吹さんが茫然としている目でぼくを見る。それから、急に眉を下げ、泣き出しそうな顔になり、唇をぎゅっと噛むと、カウンターから飛び出し、そのまま走って図書室から出ていってしまった。

「ななせ! 待って!」

 森さんたちが、慌てて追いかける。どうしよう、ぼくも行ったほうがいいんだろうか。でも——。

 そのとき、隣で低い声がした。

 

「最低……だな」

 

 驚いてそちらを見ると、眼鏡をかけた男子が、突き刺すような冷たい目で、ぼくを睨んでいた。

 ぼくは息をのんだ。

 音楽準備室の前で見かけた生徒じゃないか?

 それに、この声! 昨日階段のところで聞いた声に似ている!

 体をこわばらせるぼくを苛立たしそうに見すえたまま、彼はチッと舌打ちをし、カウンターの中へ入っていった。そうして、冷ややかに顔をそむけると、図書委員の仕事をはじめた。

 そんな彼を、ぼくは何故悪意を向けられるのかわからないまま、薄ら寒いような気持ちで見ていたのだった。

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 急な仕事が入った。

 新しいお客さんに会うときは、いつも少し怖い。また、髪をつかまれて、頬が腫れるほど殴られて、真っ暗な草むらに裸足で放り出されるかもしれないから。

「三倍料金を払えばいいんだろう」

 って、三つの顔がいやらしく笑ってるかもしれないから。

 生きたまま皮膚を剥がれ、手足を千切られ、喰われるというのは、こんな感じなのかと思った。叫んだら喉が潰れてしまう。だから、奥歯を強く噛みしめ、唇を結んで、ただ泣いていたら、興ざめだって、もっと殴られた。私は彼らにとって、人間ではなく名前のない豚だった。ううん、きっと他の人たちにとっても……。

 

 ななせからメールと留守電が入ってる。井上くんのことで、すごく混乱して、今にも泣いてしまいそうな声。クラスの友達に、なにか言われたらしい。私に会いたいって言ってる。

 すぐに飛んでいって、朝まででも話を聞いてあげたい。頭をなでて慰めてあげたい。

 ななせが泣くのは、我慢できない。私まで、苦しくて息が止まりそうになってしまう。

 けれど、今は無理。出かけないと、遅刻してしまう。

 ななせには、あとで電話するとメールした。

 彼にもメールをしなければ。

 私は彼に相応しくない。彼といると、あの気高さや純粋さを、私の体についた泥が汚してしまう。綺麗な指で優しく触れられるたび、私は愛される資格なんてないんだって、絶望が込み上げてきて、死にたくなる。

 彼の名を貶めたくない。彼を穢したくない。それは嫌っ! 絶対に嫌っ!

 彼のことが好きでたまらなくて、彼のためなら死ぬより辛いことでも耐え続けることができると思うから、私はいつか彼とお別れしなければいけない。

 私の愛は、この世では悲しすぎる。空の上を歩かせなければ、清らかにはならない。

 だけど、ごめんなさい。もう少し——あと少しだけ、そばにいさせて。その手に触れさせて。せめて、発表会が終わるまでは。

 

 本当にもう間に合わない。

 いってきます、ななせ。

[#ここまで太字]

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