文学少女4:二章 歌姫の行方

发表于:2015-05-10 19:42 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-10 19:41~2015-05-31 02:30
地点: 南京
已过期 0人参加

活动详情

确认安装CCTalk

进入活动教室需要安装并登录CCTalk,请确认是否已经安装哦,更多精彩等你发现!

预约成功

参与此活动需要安装并登录CCTalk,请在活动开始前保持在线,以免错过精彩内容哦

若未安装,请点击下载CCTalk

知道了

二章 歌姫の行方

 

 翌朝、いつもより早めに家を出た。

 昨日は家に帰ってからも、琴吹さんの泣きそうな顔ばかり浮かんできて困ってしまった。みんなの前で大嫌いと言われたことよりも、琴吹さん自身が一番傷ついているみたいなのがショックだった。まるで、ぼくがあんなことを言わせてしまったような気がして……。遠子先輩の�おやつ�を書くため机に向かっても、悶々と考え込んでしまい、一向に手が進まない。唸りながら仕上げた�蝶々��恐山��サーファー�——ふんわり癒しのバニラスフレ風味は、とても�ふんわり癒しの�とは遠かった。

 授業がはじまるまで、まだ時間がある。部室で書き直そう。

 肌を刺す冷たい空気を感じながら、校門を通り抜けたとき、琴吹さんの姿が見えた。

 

 あれ?

 

 どんよりした厚い雲の下、琴吹さんは昇降口のほうへ、ひどく頼りない、ふらふらした足取りで進んでゆく。なにか、様子がおかしい。

 胸がざわめき、追いかける足が自然と速くなる。

 琴吹さんは下駄箱の前に、虚ろな目をして立っていた。

 横顔が青ざめていて、表情にも精気がない。

「琴吹さん」

 呼びかけると、びくっとして顔を上げた。

「……いのうえ」

 掠れた声でつぶやき、勝ち気な目に涙を浮かべる。

 ぼくはびっくりした。

「ど、どうしたの! 昨日のことを気にしてるなら……」

「……ちがうの。夕歌が……」

 ゆうか?

 次の瞬間、琴吹さんは両手で顔を覆い、わっと泣き出してしまった。

「夕歌がいなくなっちゃったのっ。どうしよう、あたし——あたし——」

 

 ねぇ? どうしたの? なにがあったの? 泣かないで、ねぇ? ぼくに話してみて?

 子供みたいに泣きじゃくる琴吹さんをなだめ、手を引いて文芸部の部室へ連れてゆき、パイプ椅子に座らせた。

 琴吹さんは小さく縮めた体を震わせ、コートの袖口や制服のスカートを涙で濡らし、何度もしゃくりあげ、ようやく、なにがあったのかを話してくれた。

 他校に通う、友人の水戸夕歌さんが、行方不明になってしまったこと。

 昨日、図書室を飛び出したあと、琴吹さんは水戸さんの家を訪ねたという。

 ところが、そこは窓ガラスが割れて、空っぽで、人が住んでいる気配はまったくなかった。|驚いて、通りかかった近所の人に尋ねたら、水戸さんの一家は借金が返せなくなり、二ヶ月ほど前に夜逃げをしたと教えられたのだった。

「……っく、あたし、夕歌と毎日メールしてたし、電話で話もしたし、先月、二人で買い物にも行ったのに。引っ越すなんて、一言も聞いてなかった。ひっく……夕歌の家が、あんなことになってるなんて……っ。昨日の夜、夕歌の携帯に何度も電話したけど、全部留守電になっちゃって。メール打っても、返事がないの。いつもなら、すぐ返事をくれるのに。夕歌は、どこへ行っちゃったんだろう」

 顔をぐちゃぐちゃにし、洟をすすりながら泣いている琴吹さんは、混乱しきっていて、誰かが助けてあげなければ崩れてしまいそうに、小さく弱々しく見えた。スカートからはみ出た膝小僧にまで、涙が落ちている。

 予鈴はとっくに鳴り、朝のホームルームどころか、一時間目の授業の真っ最中だった。

 授業をさぼって、女の子と二人きりでいるなんて、以前のぼくからは考えられない。

 けど、親友の失踪に衝撃を受けて、どうしていいのかわからず、声をつまらせて泣いている琴吹さんを、とても放っておけない気がした。

 昨日、図書室であんな顔をさせてしまったので、余計にそう感じたのかもしれない。

「琴吹さん、もう泣かないで。一緒に水戸さんのことを調べてみよう。水戸さんの学校に行って、水戸さんの知り合いに訊いてみたらどうかな? ね、ぼくも協力するから」

 琴吹さんは泣きながら、小さくうなずいた。

 

 帰宅後。部屋でパソコンを開き、検索をかけてみた。

 水戸さんが通う白藤音楽大学の附属高校は、プロの音楽家を大勢|輩出している名門だった。授業も音楽を中心に組まれ、海外へ留学する生徒も多い。ホームページに掲載された校舎は、西洋式の豪著な外装で、ドラマで使われていたのを見たことがある。

 水戸さんは、プロのオペラ歌手を目指していたという。もうじき学内のホールで、学生たちによるオペラのコンサートがあり、彼女は主役を演じることになっていた。最近は稽古とバイトで忙しく、電話もなかなか繋がらず、メールでやりとりをすることが多かったという。

 入学金と授業料の項目を何気なくクリックし、目をむいた。公立校のおよそ三倍で、私立の普通科と比べても二倍近い金額だ! 水戸家は四人家族で、お父さんは普通のサラリーマンだったという。水戸さんがバイトをはじめたのは、学費を稼ぐためらしい。

「音楽の勉強って、お金がかかるんだ……」

 そういえば、聖条学園にも広大な音楽ホールがある。あれだけの建物が、オーケストラ部のOBの寄付で建築されたというのだからすごい話だ。もっともオケ部は学園の経営者である姫倉一族と深い関わりがあり、ぼくらの常識では計れないのだろうけれど。

 検索を続けていたら、携帯の着メロが鳴った。

 待ち人から電話が来たらしい。耳にあてると、明るい声が流れてきた。

「久しぶりです、心葉さん。珍しいっすね、そっちから連絡とりたがるなんて」

 櫻井流人くんは、遠子先輩の下宿先の息子さんだ。今年の夏、彼が、女の子たちとモメているところに遠子先輩が鞄を振り上げて乱入し、ぼくらは知り合ったのだ。

 流人くんは、電話の向こうで、にやにや笑っているみたいな口調で言った。

「遠子|姉が、�おやつがなかったの〜〜〜〜�って、怒ってましたよ。�楽しみにしてたのに、心葉くんったらひどいわひどいわ、先輩への尊敬がたりないわ�って」

 流人くんが、遠子先輩の口真似をしてみせる。

 しまった! おやつのことをすっかり忘れていた。手直ししてポストに投函するはずだった原稿は、鞄に入ったままだ。

「ちょっと取り込んでて、余裕がなかったんだよ」

「あ〜、それ聞いたら、遠子姉、ほっぺがふくらみすぎて破裂しちまいますよ。�心葉くんのおやつだけを支えに、受験勉強に励んでるのに、もう人生になんの喜びもないわ。受験は失敗よ。心葉くんのせいよ〜〜〜〜�って」

「って、それ、きみの創作だろ」

「いーや、遠子姉の心の叫びっすよ。なんせ心葉さんは、遠子姉の作家だから」

 流人くんが、ぬけぬけと言う。

 �遠子姉の作家�。

 以前も言われたその言葉に、頬が赤らむ。ぼくが書いているものはただの落書きで、この先も、決して作家にだけはなるつもりはないのに。

 苦い思いを無理矢理飲み込み、ぼくはこれまでのことを流人くんに話した。

「そういうわけで、白藤音大の附属高に知り合いがいたら、紹介してほしいんだ」

「意外っすね。心葉さんが、そこまでするなんて」

「そう……かな」

「心葉さんって、あんま他人と関わりもちたくないヒトだと思ってたから」

 また頬が熱くなる。確かにこれまでぼくは、事なかれ主義だった。芥川くんと友達になった文化祭から、少しだけど、確実になにかが変わってきている。

 流人くんが、探るような声を出す。

「ひょっとして、そのクラスメイトの琴吹さんってコに、気があったりします?」

 ぼくは慌てて言った。

「そんなんじゃないよ。ただ成り行きで放っておけないだけで、琴吹さんがどうとかそういうことは……」

「ま、いっす。心葉さんの頼みだし、引き受けますよ。白藤ならアテがあるんで、これから連絡とってみます」

 さすが。平然と三股四股かけて、年中|修羅場っているだけのことはある。

 流人くんの女の子に対する顔の広さと、行動力には、以前にも驚かされた。知り合いがいなければ、速攻で口説いて友達になる。そういうことをあっけらかんとやってしまえる人間なのだ。本当にぼくより年下なのか?

「ありがとう。やっぱり流人くんは頼りになるね」

 ぼくのリップサービスを、流人くんはさらりと受け流した。

「ただし、ひとつ条件があるんすけど」

 まるで、麻貴先輩みたいなことを言い出す。

「なに? 宿題くらいなら手伝えるけど」

「いや、それはやってくれる女の子が一杯いますから。そういうんじゃなくて、心葉さん、イブの予定あります?」

 思いがけない問いに、ぼくは面食らった。

「クリスマスイブ? ないけど」

「やった! じゃ、それ、キープさせてください」

「イブに男の子とディ×ニーランドへ行って、手をつないで電飾パレードを見るのは勘弁してほしい」

「はは、いっすね、それ。まぁ、とにかくイブは空けといてください。遠子姉より胸の立派な女の子に誘われても、きっちり断ってくださいよ」

「それって、十歳以上の全ての女の子ってこと?」

「おっと、キツイな心葉さん。てゆーか遠子姉すっげー気にしてて、毎朝�胸がふくらむ体操�とかしてるんで、いじめないでやってください」

「胸がふくらむ体操って……どんな体操?」

「こう、両手を胸の前であわせて、右に左に、ゆら〜ゆら〜と。部屋をのぞくと、真剣な顔してやってますよ」

 想像して、軽く目眩がした。ヨガだろうか?

「ま、白藤の件は、向こうと連絡とれしだいメール入れます。なんで、遠子姉のおやつも覚えててやってくださいね。マジ楽しみにしてますから。弟からのお願いです」

 冗談ぽい口調で言い、携帯を切った流人くんから着信が入ったのは、五十分後——ちょうど遠子先輩のおやつの三題噺を書き終えた時だった。

 

『明日四時、白藤付属の正門のトコで、待っててください。とびきりの美人が迎えに行きますんで』

 

 そんなわけで、翌日の放課後。ぼくと琴吹さんは、石造りの立派な門の前で、流人くんの知り合いが現れるのを、緊張気味に待っていた。

 十二月に入ってから日が落ちるのがますます早くなり、校舎は赤黒い夕日に染まっている。鋭い北風が吹きつけ、琴吹さんが肩を震わせる。

「寒い?」

「へ、平気……だよっ」

 昨日、ぼくの前でぼろぼろ泣いてしまったのが恥ずかしいのか、視線をあちこち移動させ、ぎこちなく答える。水戸さんからのメールは今日もなく、三日も途絶えたままだという。それも心配でたまらないのだろう。

 すでに十分ほど、待ち合わせの時間を過ぎていた。お嬢様ぽいワンピースの制服の上にコートを羽織った女の子たちが、何人も目の前を通り過ぎてゆくけれど、それらしい人は現れない。流人くんのメールには、�とびきりの美人�と書いてあったけど、名前くらい聞いておけばよかったと後悔したとき——。

「あなたが、井上くん?」

 いきなり、背筋をくすぐるような色っぽい声でささやかれ、慌てて振り返る。

「正解みたいね。遅れてごめんなさい。流くんのトモダチの鏡粧子よ」

 真っ赤な唇を吊り上げて微笑んだのは、細身のブラウスにパンツ、ロングコートという出で立ちの、大人の美女だった。

 

「煙草、いいかしら?」

 近くの喫茶店に入り、ソファーに腰を落ち着けるなり訊かれた。

「えっと……」

 琴吹さんのほうを見ると、こくりとうなずく。

「はい、どうぞ」

 そんなやりとりを見て、粧子さんは優しく目を細めた。

「ありがと。喉に悪いってわかってるんだけど、やめられなくて」

 ライト系の細い煙草をくわえ、銀色のライターで火をつける。その仕草が、モデルのように決まっている。確かにすごい美人だ。流人くんはどこで知り合ったのだろう。

 粧子さんは声楽の先生で、水戸さんのことも知っていた。ずっと学校を休んでいるのだと、眉をひそめて語った。

「そろそろ十日になるかしら。寮にも帰ってないようだし。わたしも心配してたのよ」

「夕歌は、寮に入ってたんですか?」

 琴吹さんが、頬をこわばらせて尋ねる。

「ええ。秋にご両親が引っ越してしまったのでね」

 水戸さんのお父さんが、友達の連帯保証人になり、借金を肩代わりすることになってしまったことや、借金取りが職場にまで押しかけ、仕事を続けられなくなってしまったことなどを、粧子さんは辛そうに語った。

 その間、琴吹さんは、真っ青な顔で目を見開いていた。

「今月の発表会で、水戸さんは主役のトゥーランドットを演じることが決まっているわ。どうやらいい先生がついたみたいで、今年の夏頃から、水戸さんの声は劇的に変わったの。それまでは喉を潰すような無茶な歌い方をして、伸び悩んでいたのにね。一体どこのスタジオの講師なのか、それともプロの歌手なのか、わたしも興味があって尋ねたのだけど、水戸さんははぐらかして答えてくれなかったわ。冗談なのか、『わたしの先生は、音楽の天使です』なんて言ってたわ」

 琴吹さんが肩をびくっと震わせた。恐ろしい言葉を聞いたように、目に怯えを浮かべる。

「どうしたの? 琴吹さん」

「な……なんでもないよ」

 スカートの端をぎゅっと握りしめ、苦しそうに声を押し出す。なんでもないようには見えないのだけど……。

「主役にも選ばれて、本当に、これからだったのにね。プロとしてもやっていける力を持った子だったのに」

 粧子さんはやり切れなさそうに、煙草を灰皿に押しつけた。

「ごめんなさい。そろそろ学校に戻らなきゃ。井上くん、携帯を貸して」

「あ、はい」

 差し出すと、慣れた調子でボタンを操作し、返してよこした。

「わたしの番号とアドレスを入れておいたわ。水戸さんのこと、なにかわかったら連絡をちょうだい。わたしもそうする」

「ありがとうございます。あのっ、できたら水戸さんのクラスメイトにも、話を聞きたいんですけど」

「わかったわ。明日またこの喫茶店に来てくれる?」

 伝票を持って立ち上がり、粧子さんはふと思い出したように言った。

「ねぇ、井上くんたちは聖条だったわね。マリちゃんは、元気にしてる?」

「毬谷先生と、お知り合いなんですか?」

 粧子さんの口元が、ほころぶ。

「大学の後輩よ。マリちゃんはわたしたちの希望の星だったのよ。そりゃあ軽やかで澄みきったテノールで。日本を代表するオペラ歌手になるだろうって、言われてたのよ」

「毬谷先生は元気だし、とても楽しそうですよ。この前も『一杯のチャイがあれば人生は素晴らしい』っておっしゃってました」

「相変わらずね。彼、パリに留学中に、いきなりどっか行っちゃって、一年後にけろっとした顔で帰ってきたのよ。髪はぼさぼさで、日焼けして真っ黒な顔でね。あちこち旅行して来ました、ただいま、とか笑いながら言っちゃって、本当に人騒がせよね」

 おだやかな優しい顔で言い、

「水戸さんも、そんな風に、笑顔で戻ってきたらいいのにね」

 とつぶやき、粧子さんは店を出て行った。

 

 外は、北風が吹いていた。

 通りのウインドウには、赤や金色のリボンや、白い綿で飾られた商品がディスプレイされている。もうじきクリスマスなのだ。

「琴吹さん、�音楽の天使�って、なんのことかわかる?」

 正面から吹きつけてくる風にマフラーが飛ばされないよう、手でしっかり押さえながら尋ねると、同じように前のめりで歩いていた琴吹さんが、ためらうような素振りを見せたあと、歯切れの悪い口調で答えた。

「……『オペラ座の怪人』のことだと思う」

「『オペラ座の怪人』って、ミュージカルの?」

 テレビのCMで見た、顔を仮面で隠した黒い服の男を思い浮かべる。

 琴吹さんは、苦しそうに「うん」と、うなずいた。

「夕歌はあのミュージカルのファンで、原作も何度も読み返してた。あたしに貸してくれたこともある。その中に、ヒロインの歌姫にレッスンをする�音楽の天使�が出てくるの。夕歌は前から、自分も�音楽の天使�に会えたらいいのにって言ってたんだ」

 琴吹さんはマフラーに、顔を半ば埋めるようにして震えている。

「それにね——」

 声をひそめて語る様子は、まるで�音楽の天使�を恐れているようだった。

「今年の夏休みに、夕歌から、ヘンなメールをもらったの。『ななせ、わたしは�音楽の天使�に会ったのよ』って」

 耳元を鋭い風が通り過ぎていった。獣の遠吠えのような冷たい風の音が、琴吹さんの言葉を千切ってゆく。

「そのあとも、天使のことを話すときは、いつもテンションが高くて、『天使があたしを、楽器のように歌わせてくれるのよ』とか、『天使が、空の向こうへ導いてくれるの』とか……酔っぱらってるみたいで、普通じゃなかった」

「水戸さんから、その人の名前を聞いている?」

 琴吹さんは首を横に振った。

「ううん」

 そうして唇を噛み、急に目に強い怒りを灯し、険しい声で言ったのだった。

「……けど、夕歌は、天使と一緒にいるんじゃないかと思う」

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 天使は、私を最上級の名器のように歌わせてくれる。

 初めて会ったあの夜から、ずっとそう。

 あの日まで、私は、自分が壊れた楽器みたいだと思っていた。力一杯息を吹き込んでも、掠れた音しか出せないポンコツだって。

 けれど、今は違う。

 透明な玉を、ころころ転がすようなコロラトゥーラ、どこまでも高く遠く伸びてゆく輝かしいベルカント。弾む声。高まる声。煌めく声。風のような、光のような——声。

 あらゆる歌を、私は軽々と、自然に歌いあげ、空とひとつに溶け合ってゆく。

 天使が、私の中に押し込められ、縮こまっていた歌を、解き放ってくれた。

 歌えば歌うほど、心も魂も透明になって、頭が痺れ、体が軽くなってゆく。なにもかも、忘れられる。

 私は、舞台の真ん中で、真っ白な光に照らされ、アリアを歌っているように、恍惚として、幸福で、それでいてとても恐ろしい。

 もし、これが全部夢で、目覚めたら霧のように消えてしまったら、とても生きていけない。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 水戸さんは何故、家族から離れて、一人でこちらに残ることを選んだのだろう。

 そうまでして、歌を続けたかったのだろうか。

 なのに、発表会の主役に選ばれながら、何故失踪したのか——。

 そんなことを考えながら、帰宅後、途中の本屋で購入した『オペラ座の怪人』の文庫を、ベッドに寝そべり読みはじめた。

 本は厚く、細かな文字で埋まっている。これは一晩で読むのは厳しそうだ……。

 物語は、オカルトめいた雰囲気ではじまる。

 時は十九世紀の末。パリのオペラ座に、幽霊が住み着いているという噂が流れる。

 幽霊は、�オペラ座のファントム�と名乗り、支配人たちに様々な要求を突きつける。

 例えば、ファントムに対して、年額二十四万フランを支払うこと。

 五番の二階ボックス席は、全公演に際し、ファントムの自由にゆだねること。

 クリスチーヌ=ダーエを、歌姫カルロッタの代役として舞台に立たせること——。

 一介のコーラスガールだったクリスチーヌは、この舞台で素晴らしい成功をおさめる。観客は、奇跡のような歌声に酔いしれ、拍手|喝采する。

 実はクリスチーヌは、�音楽の天使�を名乗る正体不明の�声�に、秘密のレッスンを受けていたのだ。

 クリスチーヌの幼なじみで、彼女に恋する純情な青年、ラウル=ド=シャニイ子爵は、彼女が�音楽の天使�と話しているのを盗み聞きしてしまう。

 そうして、�音楽の天使�を師と慕う彼女の様子に、激しい嫉妬を覚える。

 クリスチーヌは、�音楽の天使�を愛しているのではないか? �音楽の天使�は、クリスチーヌを誘惑し、連れ去ろうとしているのではないか?

 心が焼かれ、たぎるような衝動をもてあまし、居ても立ってもいられないラウルの心情が細かに描写され、気がつけば手のひらに汗をかくほど、物語にのめり込み、ラウルと一緒に胸が押し潰されそうな不安を味わっていた。

 もう一人のクリスチーヌは——水戸夕歌は、無事でいるのだろうか?

 水戸さんも、�音楽の天使�にレッスンを受けていた。天使が自分を高みへ連れて行ってくれるのだと、酔うように話していたという。そして、水戸さんの声も、クリスチーヌのように素晴らしい進化を遂げた。けれど、天使の名前や素性を、水戸さんは親友の琴吹さんにすら明かさなかった。

 それは何故? 天使に止められていたから?

 それとも、水戸さん自身も[#「水戸さん自身も」に傍点]、天使の正体を知らなかったから[#「天使の正体を知らなかったから」に傍点]?

 一体、水戸さんの天使は誰なんだ? そして、水戸さんのラウルは[#「水戸さんのラウルは」に傍点]?

 帰り道に、琴吹さんが話してくれたことを思い出す。

 

『夕歌は天使と一緒にいるんじゃないかと思う。天使と会ってから、夕歌はあたしが遊びに誘っても断ることが多くなって、毎日一秒でも長く、天使と歌っていたいみたいだったから。あたしが、おかしな宗教にでもはまってるみたいって言ったら、すごく怒って、三日もメールをくれなかった。夕歌は……天使の言うことなら全部信じちゃいそうだし、天使に命令されたら、なんでもしそうだった……』

 宗教——という言葉に、ドキッとした。天使は水戸さんにとって絶対的な教祖のような存在で、その傾倒ぶりを、琴吹さんはずっと心配していたようだった。親友を、わけのわからないものに奪られてしまったという嫉妬もあったのかもしれない。

『水戸さんには、彼氏がいるって言ってたよね? 天使と彼は、同じ人?』

 毬谷先生にコンサートに誘われたとき、そんなことを叫んでいたような気がする。

『ううん。夕歌が彼とつきあい出したのは、去年の秋だから別人だよ。彼氏は、うちの学校のやつで、文化祭で知り合ったって、夕歌は言ってた。けど……』

 声が途切れる。

『夕歌は、名前を教えてくれなかったの。ななせに彼氏ができたら話すよって、笑って誤魔化して……。しつこく訊いたら、ヒントをくれたけど、それもよくわからなかった』

『どんなヒント?』

『三つあって……彼は九人家族で、考え事があると、机の周りをせかせか歩き回る癖があって、コーヒーが大好きだって』

 確かにわかりにくい。コーヒーが好き——そんな人は山ほどいるし、机の周りを歩き回る癖も、よほど身近な人間でなければ気づかない。九人家族は今時珍しいけど、これも学校中の人間を調べるとなると大変だ。

 琴吹さんも、弱り切っているようだった。けど、一瞬|惚けた顔をしたあと、大事なことを思い出したように言った。

『そういえば……最後に夕歌と電話で話したとき、隣に彼氏がいるって言ってた』

『最後に電話で話したのって、いつ?』

『十日ぐらい前、かな……』

『水戸さんが、学校を無断欠席するようになった頃だね』

『……うん。あの日は、どうしても夕歌に相談したいことがあって、留守電に吹き込んだんだ。そしたら、バイトに行かなきゃいけないから、夜電話するってメールがあって。なのに十二時を過ぎてもかかってこないから、諦めて眠っちゃったんだ。そういうとき夕歌は必ず、電話できないってメールをくれるはずなのに、おかしいと思ったんだけど……。そしたら、夜中の二時過ぎに、いきなり夕歌から着信があったの。驚いて電話に出たらすごくうかれていて、�今、彼と一緒なの�って——』

 風が、琴吹さんの前髪を跳ね上げ、寒そうに首を縮める。

『——眠ってるとこ起こされたから、よく覚えてないんだけど……�クリスマスツリーがとても綺麗なの�とか�彼が抱きしめてくれて、あったかい�とか、そんなことをぺらぺら話してた。あのときの夕歌も、異様にはしゃいでいて、おかしかった』

 

 ラウルは、ぼくらの学園にいる。

 水戸さんの彼は、自分の彼女が失踪中であることを、知っているのだろうか?

 琴吹さんの話では、水戸さんが行方を絶つ直前まで、二人は一緒にいたことになる。

 だとしたら、水戸さんの居場所を知っているのは、天使ではなく彼のほうなのではないか?

 もうひとつ引っかかるのは、何故水戸さんが失踪したあとも、琴吹さんにメールを送り続けたのかということだった。

 水戸さんから最後に電話があったのは十日前。その日から水戸さんは学校を休んでいる。なのに、それ以降も、二人は普通にメールのやりとりをしている。水戸さんは、琴吹さんに失踪を知られたくない理由があったのだろうか?

 そして、水戸さんからメールが途絶えたのは三日前——。今、水戸さんはどうしているのか?

 脳みそがきりきり引き搾られ、耳鳴りがしてきて、ぼくはベッドに仰向けになり、文庫を開いたまま胸に乗せ、浅い息を吐いた。

 わからないことが多すぎる。

 もし、遠子先輩がいてくれたら——。

 あのお節介で能天気でズボラで、そのくせヘンなところに敏感で、優しい目をしたあの�文学少女�なら、この物語をどう読み解くのだろう。

「電話……してみようかな」

 顔を横に向け、机の上の携帯電話を見つめると、胸の奥の方が擦れるように疼いた。

「……携帯の番号とメアド、まだ教えてないし」

 遠子先輩は携帯を持っていない。救いようのない機械|音痴だから、メールのアドレスなんか渡しても、絶対に使わないだろうけど……。

 そんなのは口実で、あの、あたたかでお気楽な声が、今、聞きたくてたまらない。

 いや、ダメだっ。遠子先輩は受験生なんだから、巻き込んじゃいけない。あの人のことだから、話せば果てしなく首を突っ込んでくるに決まっている。

 胸が切なくなり、携帯から目をそらし、シーツをぎゅっと握りしめる。

 

 そうだ、春になったら遠子先輩は卒業して、いなくなってしまうのだから……。

 

 いきなり携帯が鳴り出したので、ぼくは心臓が止まりそうになった。

 まさか、遠子先輩!?

 慌てて机に駆け寄り、着信を確かめる。相手は芥川くんだった。

「もしもし、井上?」

「芥川くん……どうしたの、急に?」

「いや、琴吹のことで、大変そうだったんで、気になってな。困ってることはないか?」

 それは芥川くんらしい気遣いだった。

 こわばっていた気持ちがほどけ、声が自然とやわらかくなる。彼と友達になれてよかったと思った。

「ありがとう。こっちは大丈夫だよ。琴吹さんも森さんたちと、仲直りしたみたいだし」

「そうか。オレが力になれることがあったら、なんでも言ってくれ。どんな小さなことでもかまわない。遠慮はするな」

「うん、ありがとう」

 

 翌日。教室で芥川くんと顔をあわせて、ぎょっとした。

「どうしたの!? その傷!」

 右の頬と首筋に、爪で縦に引っかかれたような痕がある。首筋の三本の線は、かなり深そうで、紫色に腫れ上がっていて痛々しい。

「ちょっと……猫にな」

 芥川くんが苦笑し、ほんの少し目をそらす。

「すごく痛そうだよ、大丈夫」

「ああ……大したことはない」

 また少しだけ、目を横にそらす。

「ずいぶん凶暴な猫だね。あれ? でも、きみんち、猫なんて飼ってたっけ?」

 何度か訪問したけど、庭に鯉が泳いでいたくらいで、猫の姿は見なかったような……。

「いや……よその猫だ。扱いがまずくて、機嫌を損ねてしまったらしい」

 視線を落ち着かなげに移動させながら、奥歯にものが挟まった口調で言う。

 それからいきなり真剣な顔になり、ぼくをじっと見つめ、尋ねた。

「それより、井上は変わりはないか?」

「昨日、会ったばかりじゃないか。電話でも話したし。あ、電話ありがとう」

「いや、それはいいんだ……。そのあと、おかしな電話やメールが来たりとか、そういったことはなかったか? その……最近そういう着信が多いらしい」

「今のとこ、迷惑メールもワン切りもないよ」

 芥川くんが、さらに顔を近づけてくる。

「携帯のアドレスや番号を変える予定は?」

「ないけど……どうしたのさ? 芥川くん?」

 ぼくの言葉に、我に返ったように身を引き、無理をしているような笑みを浮かべる。

「いや、不都合がないならいいんだ。気にしないでくれ」

 変だな? どうしたんだろう? 怪訝に思ったけれど、琴吹さんのことで手いっぱいで、それ以上追及できなかった。

 

 放課後、昨日の喫茶店で、水戸さんのクラスメイトに会った。

 彼女たちも、水戸さんの歌が急に上手くなったことに驚いていた。

「主役に選ばれたのも、大抜擢だったんだよ。トゥーランドットは高慢で冷酷なお姫様だから、全然水戸さんのイメージじゃなかったのに」

「相手役のカラフは、若手ナンバー1プロの荻原さんでね、二幕の問いかけのシーンで、荻原さんの声に負けて、ずたぼろなんじゃないかって、悪口言われてたんだよ」

 ところが、稽古がはじまってみると、水戸さんの声は、客演のプロの歌手を圧倒する勢いだったという。

「水戸さんは内緒にしてたけど、きっと、すごく有名な先生にレッスンを受けてたんだよ。じゃなきゃ、急にあんな声、出せないって。今も、水戸さんが休んでるのは、どっかで秘密特訓をしてるんじゃないかって言われてるし」

「うん、それなら水戸さんが役を降ろされないのも納得かな。バックにお偉いさんがついてるって噂も前からあるよね。水戸さんを主役に推したのも、その人なんじゃないかって」

「そのお偉いさんが、誰だかわかる?」

「さぁ……」と首を傾げたあとで、思い出したように言った。「あっ、でも! あたし、水戸さんが、黒いスーツを着た男の人と、外車に乗るのを見たことあるんだ。肩なんか抱かれて怪しい雰囲気で、水戸さんはその人に『ツバキ』って呼ばれてた……」

 

 店を出たあと、クリスマス用の、白と金色のイルミネーションに照らされた通りを、琴吹さんと並んで歩いた。

 二人で、ぽつぽつと話をする。

「ツバキって、水戸さんのあだ名かな? 琴吹さんは知ってる?」

「ううん。夕歌が�ツバキ�って呼ばれてたことはなかったと思う。それより……夕歌はやっぱり天使のとこにいるのかな。夕歌が学校を休んでいる間に届いたメールにも、天使とレッスンをしてるみたいなことが、ずっと書いてあったし……。夕歌を�ツバキ�って呼んでた男が、天使なのかも」

 琴吹さんの表情は険しい。どうも、琴吹さんは音楽の天使に敵意を抱いているようで、親友の失踪を、完全に天使と結びつけて考えているようだった。

『オペラ座の怪人』でも、クリスチーヌを地下の帝国に攫ったのは、醜い顔を仮面で隠して天使のふりをしたファントムだったので、気持ちはわかるのだけど……。

 けど、琴吹さんが言うように、本当に水戸さんはファントムのもとにいるのだろうか?

 失踪した前の夜は彼氏と一緒だったというし、断定はできない。

 一体、水戸さんはどこへ行ったのだろう? 何故、寮へ戻ってこないのだろう?

 琴吹さんへのメールは、まだ途絶えたままだという。

 冷たい空気が、肌をひりひりとなでる。空は曇っていて、月も星も見えない。人工の灯りだけが道を照らし、ぼくらの気持ちとは裏腹に、にぎやかなクリスマスソングが流れている。

 琴吹さんが、弱気な目になり言った。

「あたし、自分がラウルになったみたいな気がする。クリスチーヌとファントムのこと嫉妬して、おろおろして、ファントムに攫われたクリスチーヌを助けにいっても、全然役に立たなくて……」

「そういう主人公も、大勢いるよ」

「『オペラ座の怪人』の主人公は、ファントムじゃないの?」

「まだ途中までしか読んでないけど、ラウルの視点で進んでいくから、ラウルじゃないかな」

「でも、後半は、謎のペルシア人の独白になるんだよ」

「えっ、そうなの!?」

「ラウルは、あっさりファントムの罠にはまって、いいとこナシだよ」

「うーん……」

 琴吹さんが唇を尖らせ、悔しそうに、哀しそうに、つぶやく。

「やっぱりラウルは役立たずだ」

「でも、ぼくはラウルを応援するよ。ラウルがクリスチーヌを救出して、ハッピーエンドになればいいって思いながら、続きを読むよ」

 笑顔で告げると、琴吹さんはぱっと顔を上げてぼくを見て、すぐに恥ずかしそうにマフラーに顔を埋め、つぶやいた。

「ふ、ふーん、そうなんだ」

 そっぽを向いて照れている様子が可愛くて、つい口元がほころぶ。

 琴吹さんは、そのままぼそぼそと言った。

「あ、あのね……昨日、昔の手紙を調べてたら、夕歌がお母さんの実家から、夏休みに送ってきた絵葉書が出てきたんだ。住所も書いてあった。そこに手紙を出してみようと思うの。もしかしたら、夕歌の家族と連絡がとれるかもしれないし」

 ぼくは微笑んだ。

「うん、それはいい考えだね。早く水戸さんの居場所が、わかるといいね」

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 天使は、いつも一人で歌っている。

 月の下で、ざわざわと揺れる草むらに立って、哀しい声を藍色の空に響かせる。

 天使は賛美歌が嫌いなのに、天使の声は胸が張り裂けてしまいそうな、悼みと祈りに満ちている。きっと、ここにはいない誰かを想って、天使は歌うのだ。私の知らない誰かの魂を、慰めるために。

 昔、天使は人を殺したという。苺を磨り潰したみたいな真っ赤な血が、青いシートを染めて、床にぽたぽた流れ落ちていったのだって。

 それから、天使のために、何人もの人が亡くなったんだって。

 天使の名前は黒く穢れ、羽根は血で染まり、昼間の世界にいられなくなってしまった。

 

 かわいそう。

 天使は、とてもかわいそう。

 

 私は天使の前で、いつも泣いてしまうのに。天使は決して泣いたりしない。私の肩を抱き寄せて、髪をなでて微笑んでくれる。

 天使も泣いてもいいんだよって言っても、哀しいことなんてないから、涙が出ないんだって言う。生まれてから一度も、泣いたことはないんだって。

 そうして、賛美歌は歌ってくれないけれど、子守歌を歌ってくれる。

 私が、怖い夢を見ずにすむように。痛かったことや、苦しかったことを全部忘れて、ぐっすり眠れるように。明日、太陽の下で、罪を隠して、あたりまえの少女のように清らかに笑えるように。

 私が、彼の恋人であり、ななせの親友であることができるのは、天使が歌ってくれるから。そうでなければ、私は自分の汚さや醜さを恥じて、体がすくんでしまい、とても二人の前に立つ勇気が持てない。

 私は天使に許され救われているのに、日の光にあたることを許されず、名を失い、闇の世界に姿を隠すしかない天使のことは、一体誰が救ってくれるのだろう。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 毬谷先生に、しばらく資料の整理をお休みすることを告げるため、音楽準備室へ行くと、先生はラブシーンの真っ最中だった。

 唇と唇をくっつけていた小柄な女生徒が、「きゃっ」と叫んで、飛びのく。

 そうして、「し、失礼しましたっ」と可愛らしい声で叫んで、顔を伏せて、ぱたぱたと部屋から飛び出していってしまった。

「……先生、今のは一体」

 決定的瞬間に出くわして茫然とするぼくに、毬谷先生はしらじらしく笑ってみせた。

「ははは……。部屋に入るときは、ノックをしたほうがいいと思いますよ、井上くん」

「しました。先生も、校内でああいうことするときは、周囲に気を配ったほうがいいと思います」

「いや、ごもっとも。次は気をつけます。積極的な子だったので、ついふらっと……」

 先生が、ハンカチで汗をぬぐう。

「あ、ななせくんは、今日は図書当番の日でしたっけ?」

「実は……当分先生のお手伝いは無理そうなんです」

 ぼくは、琴吹さんの親友が失踪してしまったことを手短に話した。

「……そうですか。大変でしたね」

 毬谷先生は、眉をひそめ同情に満ちた様子でつぶやいたあと、意外なことを言った。

「ななせくんの友人というのは、発表会でトゥーランドットを演じる、あの水戸夕歌くんだったんですね。白藤へ後輩指導に行ったとき、何度か会ったことがあります。荒削りだが光るものがあって、よい指導者がつけば伸びる子に見えました。一体どんなトゥーランドットを聴かせてくれるのか、楽しみにしていたんですよ。水戸くんがそんなことになっていたなんて、ちっとも知らなかった……残念です」

「水戸さんが個人レッスンを受けていた先生に、心当たりはありますか? 水戸さんは、音楽の天使と呼んでいたそうですけど」

 毬谷先生は急に硬い表情になり、両手を硬く組み合わせた。左手で重そうな時計が光っている。

「……音楽の天使」

「はい。ご存知ですか?」

 ゆっくり息を吐いて指をほどき、申し訳なさそうにぼくの目を見つめる。

「いいえ。私は水戸くんと、それほど親しかったわけではないので。けど、知人の音楽関係者に尋ねておきますよ」

「ありがとうございます」

 ぼくは頭を下げた。

「そうだ。白藤の鏡粧子先生が、毬谷先生は元気かって言ってました」

 先生は、たちまち顔をほころばせた。

「おお、彼女に会ったんですか。彼女美人でしょう。私の周りの男子学生は、みんな憧れてたんですよ。力のある強い声をしていて、カルメンとか、はまり役でした」

「そうですね。とっても綺麗な人ですね。粧子先生は、毬谷先生は希望の星だったって言ってましたよ」

「ははは、大袈裟です。私はそんな大したもんじゃありませんよ。ここで呑気に教師をしているほうが性に合ってます」

 光にあふれた軽やかな声で、あっさりと否定してみせる。

 潔いほどに清々しい笑顔に、胸がすく思いがした。

「落ち着いたら、またお手伝いさせてください」

「ええ、待ってますよ」

 約束をして、部屋を出た。

 

 このあと、図書室で琴吹さんと待ち合わせをしている。

 準備室のドアをしめ、廊下を歩いてゆくと、曲がり角からいきなり手が伸びてきて、肩をつかまれた。

「!」

 制服の布越しに、指が皮膚に食い込む感覚に総毛立った。

 振り向くと、ぼくとそう変わらない背丈の、眼鏡をかけた、色の抜けた髪の男子生徒が、噛みつくような目で睨んでいた。

 この前、図書室で、ぼくに最低だと言った少年だ!

 周りの景色が急に暗くなり、まるでナイフを持った通り魔にでも出くわしたように、体がこわばる。

「おい、毬谷となにを話してたんだ」

「きみ……誰?」

「いいから答えろ。あいつになにを言った?」

 居丈高な口調にムッとし、ぼくは彼の手を振り払った。

「知らない人に、そんなこと答える必要ないよ」

 背中を向けてさっさと歩き出そうとしたとき、後ろで、刺すような冷たい声がした。

「いい気なもんだな[#「いい気なもんだな」に傍点]」

 階段で聞いた、風の唸りのような低い声と、あのとき感じた底冷えのするような暗い視線がよみがえり、皮膚がざわっと粟立つ。振り返ると、真っ黒な目が憎々しげにぼくを睨んでいた。

「毬谷なんかに懐いて……。偽善者同士、気が合うんだな」

「どういう……こと」

「あんたと毬谷のこと、言ってるんだよ。どっちもおキレイな世界の住人で、笑顔でキレイごと抜かして。自分は傷つかずに、他人を傷つけている」

 名前も知らない他人から、一方的に非難されているという不自然な状況に、混乱し、息が苦しくなる。じっとりとした視線が、ぼくの顔の上を蛇のように這い回る。

「あんたは、いつもそうだ。琴吹先輩のことも、鈍感なふりして、本当は自分に都合が悪いことはスルーしてるだけじゃないか? あんたみたいなやつは、気づかないんじゃなくて、知りたくないだけなんだ。自分が汚れるのが嫌だから、その気もないのに優しくして期待させて、そういうの偽善者っていうんだよ」

 どうして、ぼくがここまで憎まれなきゃならないんだ——。彼は、琴吹さんのことが好きなのか? ぼくと琴吹さんのことを誤解して、ぼくのことが気にくわないのか?

 そんな考えが頭に浮かんだけれど、それより彼の放った言葉の刃が、胸を切り裂いてゆく痛みに、ぼくはすっかり翻弄されていた。

 ぼくが偽善者? 気づかないだけじゃなくて、知りたくないだけ?

 その気もないのに優しくして、琴吹さんのことを振り回している?

 言葉が、真っ黒なカマイタチのように荒れ狂い、血飛沫をあげて肉を抉ってゆく。

 頭の後ろが火をあてたように熱くなり、喉に幾度も塊が込み上げる。けれど、それは混沌として言葉にはならず、ぼくは彼の悪意にどう立ち向かえばいいのか——怒るべきなのか、逃げ出すべきなのか、笑い飛ばすべきなのか、判断がつかなかった。

 鋭い目に射すくめられ、動けずにいるぼくの耳に、陰鬱な声が響いた。

「二度と、毬谷に近づくな」

 彼の姿が、ぼくの視界から消えたとき、ようやく体が動くようになり、汗がどっと吹き出してきた。

 今のはなんだったんだ。彼は誰なんだ!

 それに、毬谷先生に近づくなって、どういうことなんだ!

 音楽準備室に戻って、先生に問いただしたかった。けど、彼がまだ近くにいて、あの暗い目でぼくを睨んでいるようで怖くなった。

 迷ったあげく、ぼくは図書室へ向かった。

 

 琴吹さんは、カウンターで忙しそうに働いていた。

「ゴメン。今日、他の当番の子が休んじゃって。もう少し待って」

「……じゃあ、閲覧コーナーにいるよ」

「井上、なんか、ぼぅっとしてる?」

「そんなことないよ」

 頭にまだ、彼の声と眼差しが残っている。琴吹さんには話せない。ぼくが、琴吹さんのことを振り回しているなんて。

 そのとき、すぐ近くでさっき聞いたばかりの声が、また聞こえた。

「琴吹先輩、あとは自分がやりますから、あがってください」

 琴吹さんの横に、眼鏡をかけた陰鬱な雰囲気の生徒が、音もなく現れたのを見て、ぼくはぞっとした。

「でも、臣は今日、当番じゃないでしょう」

「仕事、そんな残ってないから、代わりますよ。人を待たせてるんでしょう」

 琴吹さんがぼくのほうを、ちらりと見る。

 ぼくは血の気の引く思いで、その場に立ちつくしていた。

「えっと……じゃあ、鍵、渡しておくね。ありがとう、臣」

「はいっ、さよなら」

 無愛想な顔つきで、ぼくらを送り出した。

「今のやつ、一年生? 名前、なんていうの?」

 廊下を歩きながら、動揺を必死に押し隠して尋ねる。

「臣、志朗のこと? うん、一年だよ」

「今まで、図書室で見かけなかったけど。委員なんだよね?」

「体弱くて、一学期の間ずっと休んでたからじゃないかな」

「……琴吹さんと仲良いの?」

「なにそれ。そんなことないよ。臣、無口だし。当番しててもほとんど話さないよっ」

 赤い顔で一生懸命に否定する。その様子を見ていたら、臣くんに言われたことを思い出してしまい、胸が押し漬されるように苦しくなった。

 

『笑顔でキレイごと抜かして。自分は傷つかずに、他人を傷つけている』

『あんたみたいなやつは、気づかないんじゃなくて、知りたくないだけなんだ』

 

 病院にお見舞いに行ったとき、琴吹さんがぼくに見せた、泣きそうな顔。それから、劇の稽古のときに見せた涙——。

 

『井上は全然……覚えてないかもしれないけど……あたし、あたしね……中学のとき……』

『あたし……井上に嫌われてるから……井上は、あたしには、本気でしゃべってくれないから……』

『あたしにとっては特別なことだった。だからそのあとも、あたしは井上に会いにいったの。何度も何度も、冬の間ずっと、毎日』

 

 あの言葉が、あの涙が、あの弱気な眼差しが、なにを表していたのか——。

 あんなに必死に、琴吹さんはなにを伝えたかったのか——ぼくは確かに、考えることを拒んでいたのかもしれない。

 ぼくにとって、女の子はこの世でただ一人、美羽だけで、あんな風に気持ちのすべてが相手に向かうような恋は、二度とできなかったから。

 あんな強い想い、美羽にしか抱けない。

 なのに、琴吹さんとこうして一緒にいるのは、残酷ではないのか?

 親友の行方がわからずに哀しんでいる琴吹さんを助けたいと思う気持ちは、自分が嫌な人間になりたくないための、自己満足の偽善にすぎないんじゃないか? もし、最悪の結果になったとき、ぼくに琴吹さんの苦しみを受け止める覚悟はあるのか?

 そんなことをずっと考えていて、胸が抉られ、息が止まりそうだった。

 こわばった顔で奥歯を噛みしめているぼくを、琴吹さんが辛そうにちらちら見ているのを感じても、どうにもならない。せいぜいぎこちない言葉で、「今日も、寒いね」と天気の話をするのが精一杯で、気まずくなるばかりだった。

 水戸さんの家に辿り着く頃には、二人ともすっかり黙ってしまった。

 家は、表札が剥がれ落ち、灯りが消え、完全に廃屋と化していた。

 きっと琴吹さんは、ここへ来れば、なにかわかるかもしれないと、藁にもすがる思いだったろう。けれど、目の前に突きつけられた寒々とした光景は、そんな小さな希望すら、すっかり吹き消してしまった。ポストからあふれ出した郵便物が、雨風にさらされボロボロになり、庭に面した窓ガラスが割れている。平凡な住宅地の中で、この家だけが墓場のようだった。

 琴吹さんが、ふらふらした足取りで門を通り抜け、玄関のチャイムを鳴らす。

 応答はない。

 続いて、こぶしでドアを叩く。

 何度も、何度も。歯を食いしばって、目のふちに涙を一杯ためて。

 それでも、ドアの向こうから、望む人の声は聞こえない。

「やめよう。琴吹さんの手が痛くなっちゃうよ」

 こっちの胸まで張り裂けそうになり、後ろから手をつかんで止める。

 そうしながら、頭の中で『偽善者』という言葉が、ぐるぐる回っていて、倒れそうだった。

 琴吹さんはぼくに背中を向け、顔を伏せたまま小さく嗚咽していた。

 

 家に帰るまで、琴吹さんは無言だった。

 三階建ての建物の前で立ち止まり、「ここだから」と小さな声でつぶやく。一階に、クリーニング店の看板が出ている。

「琴吹さんのうち、クリーニング屋さんなんだね」

 こくりとうなずき、「おばあちゃんがやってるの」と、またつぶやく。泣きやんではいたけれど、目が真っ赤で、洟をすすっている。

「遅くなっちゃったけど、大丈夫?」

「平気。あの……きょ、今日は、ゴメンね」

 掠れた声で言い、二階へ続く階段を上っていった。

 そこから、ひどく儚げな表情でぼくを見おろす。

「………」

 なにか言いたそうだったけど口にはせず、眉をちょっと下げ、ドアの向こうへ消えてしまった。

 目があった瞬間、琴吹さんの顔に浮かんでいたのは、ぼくへの罪悪感のように思えた。

 その気持ちは、そのままぼくの中にも、どす黒く渦巻いていて、ぼくを息苦しくさせていた。

 

 ——偽善者。

 

 ——その気もないのに、優しくして期待させて。

 

 凍えるような夜道を、家に帰るため歩き出そうとしたときだ。

 道路の反対側に立つ人影を見た。影は、琴吹さんが消えたドアのあたりを見つめているようだった。

 空をおおっていた雲が切れ、月の光が一瞬だけ、横顔を照らした。

 臣くん……!?

 確認しようとしたとき、影は背中を向け歩き出していた。

 とっさに、あとを追いかける。やっぱりあれは、臣くんじゃないか? 何故、彼がこんなところにいるんだ。ひょっとして、ぼくらをつけていたのか?

 その考えに、背中の毛がざわっと逆立ち、足元から寒気がのぼってくる。

 影は、どんどん先のほうへ歩いてゆく。

 つられて、こちらも早足になる。呼吸が苦しくなり、ハァハァと吐き出される息の量が増えてゆく。冷え切った頬を、白く濁った生温かい息が、なでてゆく。

 気がつくと、外灯の光も届かない真っ暗な路地裏に、立ちつくしていた。

 影は闇と同化し、臣くんらしき人の姿はどこにも見あたらない。

 そんな、確かにこの角を曲がったはずなのに! どこへ消えてしまったんだ!

 混乱するぼくの耳に、ふいに、ひそやかな歌声が聞こえた。

 それは、すすり泣くような、低い声だった。

 恨みと、哀しみのこもった、亡霊のような声。

 なに!? どこから聞こえてくるんだ、この声は? 前? いや、後ろから? いや、あっちのほう? 違う、向こうからだ。いや、そうじゃない!

 声はあらゆる方向から、次々響いてくるように思われて、ぼくは背筋を這い上がってくる恐怖にとらわれ、立ちつくした。

『オペラ座の怪人』の中に、こんなシーンがなかったか?

 オペラ座の地下にある闇の帝国へ、クリスチーヌを救出に向かったラウルは、ファントムが創り出した幻想に翻弄され、狂気に陥ってゆく。

 この声は、人の声ではない。

 天使の声! 怪物の声! 天と地上にまたがって生きる、仮面の男——ファントムの葬送曲だ!

 魂にからみつき、じわじわ締めつけてくる魔性の歌声に、ぼくは完全に平静を失い、喉が熱くなり、息ができなくなり、指先が痺れてきた。

 マズい、発作だ。

 美羽が屋上から飛び降りたあと、頻繁にぼくを襲ったそれが、ファントムの声に呼び覚まされたかのように、全身から汗がどっと吹き出し、頭の中がぐるぐる回り、喉から掠れた笛のような息が漏れる。

 ぼくは、がくりと膝を折り、冷たい路地に這いつくばった。

 歌声は、くすくすという笑い声に変わった。その声が、男性の声に聞こえたり、女性の声に聞こえたり、少年の声に聞こえたり、少女の声に聞こえたりする。

 まぶたの裏に、中学校の制服を着て、髪をポニーテールに結んだ美羽の姿が浮かび、ぼくに向かって儚く微笑み、逆さまに落ちてゆく。

 その映像が、万華鏡のようにいくつもいくつも、繰り返し浮かぶ。

 

 ——気づかないんじゃない[#「気づかないんじゃない」に傍点]。

 

 ——知りたくないだけなんだ[#「知りたくないだけなんだ」に傍点]。

 

 毒にまみれた声が、ぼくを責める。

 あんたは、わからないフリをしているだけだ。あんたが彼女を傷つけ、死に追いやった。あんたは、人殺しの偽善者だ。

 違う、違う、違う。

 全身ががくがくと震え、息をする間隔がますます短くなってゆく。

 美羽が落ちてゆく。

 落ちてゆく——。

 

 少しの間、意識を失っていたらしい。

 携帯電話の着メロで目覚めたとき、ぼくは腐った残飯の匂いのする暗い路地裏に、手足を投げ出して、うつぶせに倒れていた。

 お気に入りの軽やかな洋楽が、コートのポケットから流れている。

 こわばる体を起こし、冷え切って感覚がなくなった手で携帯を出し、着信を見た。

 流人くん……。

「あ、心葉さん。今そこ、パソコン開きますか?」

 流人くんは急いでいる様子で、いきなりそんな風に言った。

「ゴメン、外なんだ。あと一時間くらいで戻るけど」

 路地の壁に手をついて、よろよろ立ち上がりながら答える。

 皮膚に、心に、ゆっくりと感覚が戻ってくる。あの歌声は、悪い夢だったのだろうか。幻想と現実の境目に立っているような気がして、まだ少し頭がぼぉっとしている。

「そうすか。じゃあ、データ送っときますから、帰ったらすぐ見てください」

「なにがあったの?」

「実は水戸夕歌のこと、オレのほうでもちょっと調べてみたんすよ。お節介とは思ったんですけど、イブまでにそっちの問題が解決してくれないと、困るから」

 そう言って流人くんが投下したのは、ぼくの頭の中にたれこめるもやもやした霧を一度に吹き払うような爆弾だった。

「夕歌は、今年の夏頃から、�椿�って名前で、ネットの会員制サイトに出入りしてたんです。そこで客をとって、援交してたらしいんすよ」

 

 自室のドアを開けるなり、着替えもせずにパソコンを立ち上げ、流人くんが送ってくれた添付ファイルを開いた。すると、怪しげなサイトの表紙と、会員規約、女の子のプロフィールがぞろぞろ出てきた。

 不正アクセスがバレて、途中でシャットアウトされて、全部は読み込めなかったんすけどねと、流人くんは言っていた。

『そのリストのNO16の椿ってのが、夕歌です』

 ちりちりするような不安が胸に込み上げてくるのを感じながら、息を押し殺し、画面を下ヘスクロールさせてゆく。

 

 NO16【名前】椿。

 

 その文字が目に飛び込んできた瞬間、喉が強く締めつけられ、目眩がした。

 水戸さんのクラスの子が語っていた言葉が、痺れるような痛みとともに浮かんでくる。

『黒いスーツを着た男の人と、外車に乗るのを見たことあるんだ。肩なんか抱かれて怪しい雰囲気で、水戸さんはその人に�ツバキ�って呼ばれてた』

 そんな……、偶然だ!

 いくら否定しても不安は消えず、胸の鼓動が痛いほど高まった。

 まばたきすらせずプロフィールを読んでいくと、職業|欄に�F音大付属の現役女子高生です�とあり、コメント欄に�オペラ歌手を目指しています。そっと抱きしめてくれる優しいオジサマ、募集中です�とあった。

 マウスを握る手が、吹き出す汗で濡れてゆく。やっぱり、これは水戸さんなのか?

 ここは、どう見ても非合法の出会い系だ。水戸さんはこの場所で、援助交際の相手を募集していたのか? 不特定多数の男性と会い、収入を得ていたのか?

 パソコンにかぶりつくようにして、さらに文字を追う。

 趣味�クラシック鑑賞、ショッピング�

 好きな食べ物�苺�

 デートで行きたい場所�遊園地�

 愛読書�井上ミウ�

 

 井上ミウ[#「井上ミウ」に傍点]!?

 

 頭を、いきなり殴られたような気がした。

 ぎりぎりまで張りつめていた心に、ふいに突きつけられたその名前は、普段の数倍の威力で、ぼくに衝撃を与えた。

 全身が燃えさかる火に包まれたように熱くなり、思考が完全に停止する。

 

 愛読書は、井上ミウ。

 名前は、椿。

 

 終わってはいなかった。ぼくはまだ路地裏に倒れたまま目覚めてはいなかった。一体これは、どういう悪夢なのだろう。

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 嘘! そんなことって!

 お父さん! お母さん! 聡史! どうして!? どうしてそんなことしたの!?

 ねぇ、嘘でしょう? お正月には、そっちへ行くから、みんなでゆっくり過ごそうねって、電話で話したじゃない。お父さんとお母さんが頑張って働くから、夕歌はあまり無理をしないように、発表会の前なのだから、バイトもほどほどにして、風邪を引かないように喉を大切にって。夕歌の好きな干し柿を送っておいたよって。早く、会いたいね、また家族で暮らせるようになるといいねって。大丈夫だよ、きっと、いつかそうなるよって。お父さんも、お母さんも、笑っていたのに! 聡史も、新しい学校で友達ができて楽しいって。お姉ちゃんも歌を頑張れって。

 なのに、どうして! 聡史はまだ、中学生だったんだよ!

 みんなで暮らすために、私、たくさん仕事をしたのに。

 初めてお客さんに会ったとき、ごはんを食べて、ちょっと話をするだけだよって言われて、なのにホテルであんなことされて、すごく恥ずかしくて、怖くて、痛くて、嫌だった。

 自分が真っ黒に汚れてしまったみたいで、もう誰の目もまっすぐに見れないし、このまま秘密を隠し続けて、怯えながら生きなきゃならないんだって思ったら、頭がぐらぐらして、死んじゃいたかった。

 トイレで何度も吐いて、タオルと石鹸で、皮膚がむけるほど体をごしごしこすって、けど、私がそれをしたっていう記憶は消えなかった。

 それでも、お金をもらえたから。そのお金があれば、お父さんが借金取りの人たちに、殴られたり土下座したりせずにすんで、聡史の授業料も払えるって思ったから。

 私には、それしかできなかったの。みんなが、前みたいに、普通に幸せに暮らせるなら、もう私は普通じゃなくなっちゃっても、いいって思ったの。

 そのあとも、嫌なお客さんがたくさんいたし、本当に惨めで気持ち悪くて、毎日端っこから少しずつ切り刻まれているみたいで、嫌な匂いのする黒い泥が体の上にどんどん積み重なって、その中に埋もれてしまいそうで、いつかバレるんじゃないかって、びくびくしてばっかりだった。

 テレビで、援交をした警察官が逮捕されたってニュースが流れたとき、ななせが、『相手の女も信じられない。まだ十六歳でしょう。あたしだったら、好きでもない人と、そんなこと絶対できないよ』って言うのを聞いて、息が止まりそうだった。

 彼に抱きしめられたとき、苦しくて申し訳なくて、思わず突き飛ばしてしまって、哀しい顔をさせてしまった。

 けれど、お父さんたちのためなんだって思うと、まだ大丈夫って思えたんだよ。

 それに、私には天使がいたから。天使に、会えたから。

 だから辛くても平気だったのに。耐えられたのに。

 

 もう、私も賛美歌を歌えない!

 神様なんて信じられない!

 心だけは清らかであろうと願っても、無駄だった。神様は、穢れた私に微笑んではくれない。私を闇の世界に追いやった。

 いずれ、彼も、ななせも、私は失うだろう。

 天使も、こんな絶望を味わったの?

 

 歌わなきゃ。私には、それしか残っていない。彼とななせが去ったとき、死を選ばずに立っていられるように。

 泣いちゃいけない! 歌うの! 歌い続けるの!

 神様を賛美する歌ではなく、戦いを挑む歌を。

[#ここまで太字]

[#改ページ]


最后编辑于:2015-05-27 19:42

  • 0

    点赞

  • 收藏

  • 扫一扫分享朋友圈

    二维码

  • 分享

课程推荐

需要先加入社团哦

编辑标签

最多可添加10个标签,不同标签用英文逗号分开

保存

编辑官方标签

最多可添加10个官方标签,不同标签用英文逗号分开

保存
知道了

复制到我的社团