文学少女4:三章 天使は闇から見つめている

发表于:2015-05-10 19:44 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-10 19:43~2015-05-31 02:30
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三章 天使は闇から見つめている

 

 翌朝。教室で顔をあわせた琴吹さんは、ぶっきらぼうに挨拶した。

「おはよう」

 まだ目が赤いし、態度もぎこちない。けれどぼくも、琴吹さんと同じくらいぎくしゃくしていたかもしれない。

「おはよう……琴吹さん」

 水戸夕歌は、援助交際をしている。

 そのことを、琴吹さんに伝えるべきなのか。

 喉に苦いものが込み上げ、次の言葉を見つけられずにいると、琴吹さんがためらいがちにコピーの束を差し出した。

「……これ、夕歌のメールのコピー。昨日、見たいって言ってたでしょ」

「あ、ありがとう」

「最近のものだけだし、個人的なこととか……削除してあるけど……」

 辛そうにうつむき、口ごもる。

「一応、渡しておくけど、見なくてもかまわないよ」

「いや、読むよ」

 コピーを受け取るとき指が少しだけ触れて、琴吹さんがびくっとした。

 そんな様子に、また胸が苦しくなる。

 このまま琴吹さんの近くにいていいのだろうか。その答えもまだ出ていないのに。

 新たに突きつけられた事実は、容赦なくぼくを追いつめ、喉をきつく締めつけた。

 乱れる息を必死に整え尋ねる。

「ねぇ、水戸さんのバイトって、なんだったか訊いてる?」

「ファミレスだよ。夜の勤務だから、たまに嫌な客が来るって愚痴ってた」

「……そう。どこの店かわかるかな?」

「ううん。夕歌は恥ずかしいから来るなって言ってたし。こんなことなら、ちゃんと聞いておけばよかった」

 琴吹さんが唇を噛む。

「じゃあ——」

 喉に、痰がからんでしゃべりにくい。ぼくは冷静に振舞えているだろうか。顔はこわばっていないだろうか。

「水戸さんは、普段どんな本を読んでいた?」

「え?」

 琴吹さんが怪訝そうに、顔を上げる。

「深い意味はないんだけど、『オペラ座の怪人』以外にも、好きな本があったのかなって……」

 妙な質問だと思っているのだろう。目に、戸惑いが浮かんでいる。

「外国の児童文学とか……よく読んでたけど……。『大草原の小さな家』とか『若草物語』とか……、あ、『のっぽのサラ』も好きだった」

 井上ミウは?

 喉の先まで出かかって、飲み込んだ。

 昨日の夜、パソコンで見た椿という名前と、愛読書井上ミウと書かれた文字が、呪いのように頭の奥に、べったり張りついている。

 ミウの本は、十代二十代の若者を中心に読まれ、記録的なベストセラーになり、映画もドラマもヒットした。水戸さんが、ミウを読んでいても不思議ではない。きっとただの偶然なのだ。

 それでも、ぼくからすべてを奪っていった禍々しい名前に、反応せずにはいられない。

 ぼくは必死に平静を装い、言った。

「『オペラ座の怪人』とは、だいぶ雰囲気が違うね。そういえば、時間がとれなくて、まだ最後まで読み切れてないんだ。今、ラウルがクリスチーヌを救出するために、オペラ座の地下に乗り込んでいったあたり」

「……そう」

 琴吹さんが気のない返事をする。それから、迷うように視線を下に向け、唇を噛んだあと、ぼそりと言った。

「あたし……もしかしたら、ラウルはいなかったんじゃないかって気がする。彼氏の話は、夕歌の想像だったんじゃないかって」

 ぼくは驚いて尋ねた。

「どうしてそう思うの?」

 膝の上で爪を落ち着かなげにいじったあと、琴吹さんは暗い声で答えた。

「不自然だったから……。名前を教えてくれないのもそうだけど、嬉しそうにのろけていたかと思うと、急に話すのが嫌そうっていうか、辛そうに感じたことが何度かあったんだ。最近は特にそうで……彼氏のこと、聞かれたくないみたいだった。それと、ここ二ヶ月くらい、夕歌と電話で話していると、しょっちゅうキャッチが入って……」

「それ、彼氏から?」

「うん」

 琴吹さんが顔をしかめる。

「そうすると、夕歌は『彼からだ、ゴメンね。あとでメールする』って言って切っちゃうんだ。前は、あんなにかかってくることなかったのに。夕歌が夜のファミレスでバイトしてるの、彼は危ないって嫌がってたみたい。それで、心配して電話してくるんだって、夕歌は言ってたけど。まるでストーカーみたいだった……」

 黒々としたものが、胸にゆっくりと溜まってゆく。

 もしかしたら、彼は、水戸さんの秘密に気づいていたのかもしれない。

 それで、何度も電話をして、水戸さんがなにをしているのか確認せずにいられなかったのかも……。

 あるいは、琴吹さんの言うように、彼が水戸さんの空想とするなら、そのキャッチは、�バイト先�からの呼び出しだったんじゃ………。

「……でも、最後に水戸さんと電話で話したとき、『彼と一緒に、クリスマスツリーを見てる』って言ったんだよね?」

 琴吹さんの瞳に、暗い影が落ち、口調が険しくなる。

「そうだけど……あのときも、妙にはしゃぎすぎで、舞台の上で演技してるみたいだなって、思ったから」

 静まり返った真夜中。携帯電話の向こうで、水戸さんは一人きりで、琴吹さんに語りかけていたのだろうか?

 今、彼と一緒なの——。

 その様子を想像すると、首筋を刷毛でなでられたように、ぞくっとした。

「彼は本当にいたのかもしれない。けど、うまくいかなくなって別れたんじゃないかなって……。それを言えなくて、まだつきあってることにしてたんじゃないかなって……。夕歌との今までのやりとりを思い出して、そんな風に思ったの……」

 あたしの勝手な想像にすぎないんだけど……と、琴吹さんは苦しそうにつぶやいた。

 そう、全部想定にすぎない。

 水戸さんに、彼氏はいたのか? いなかったのか? 天使のことも、秘密のレッスンのことも。

 彼女が、椿という名で援助交際をしていたことも、まだ確定したわけじゃない。

 それが逃げだとわかっていても、ぼくは自分に言い聞かせ、琴吹さんにはまだ黙っていようと決めた。

 

 ——あんたは、知りたくないだけだ。

 

 頭の中に響く声に、必死に反論する。

 違うっ。琴吹さんを傷つけたくないだけだ。それに、�本当のこと�を無理矢理知ろうとする必要があるのか? もしかしたら、そっちのほうが悪い結果をもたらすかもしれないのに。誰も傷つかずにすむなら、そのほうがずっといい。

 予鈴が鳴り、ぼくらはそれぞれの席に戻った。

 

 芥川くんが眉根を寄せ、心配そうにぼくのほうを見ていた。

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

『留守電聞いたよ、ななせ。

 ゴメンね。その日は、バイトのあとレッスンがあるの。次の土曜じゃダメかな?』

 

『うわ〜、ななせ。油断してたら二キロも太っちゃったよ〜。声量をアップさせるためには、もっと太ったほうがいいって天使は言うけど、やっぱりショック〜。今日から、お昼は林檎とおからのクッキーにする!』

 

『今日ね、みんなの前で、�魔笛�の夜の女王のアリアを歌ったの。

 自分でも、びっくりするくらい声が伸びて、先生たちも驚いていた。一体どんな大歌手にレッスンを受けてるのって、クラスの子に訊かれたから、�音楽の天使�だよって答えたら、ぽかんとしてておかしかった。

 本当のことなのにね』

 

『バイトでヤなことを言われた。あのお客、最低!

 けど、学費を稼ぐためだから我慢しなきゃ。ああ〜音楽って、どうしてこんなにお金がかかるんだろう。チケットのノルマとか、頭が痛いよ』

 

『聞いて、ななせ! 今度の発表会で、主役に選ばれたの! 嬉しい! ななせも絶対に見に来てね!』

 

『発表会の稽古で、なかなかデートの時間が作れないので、彼はちょっと不満そう。けど、優しい人だから、頑張れって言ってくれる。早くななせに、彼を紹介できるといいなぁ。ななせも早く、(※以降削除)』

 

『了解、クリスマスは、大親友のななせのために空けておきます。

 イブは、もちろん彼と。

 えへへ、ななせも、ここいらで思いきって行動に出てみたら?

 大丈夫! ななせは可愛いからきっと(※以降削除)』

 

『着メロ、クリスマスソングにしました。

�サンタが町にやってくる�

 気が早い?』

 

『彼の名前は、ななせの恋が実るまで秘密だよ。

 のろけなら、いっくらでも書いちゃうけど。

 去年のイブは、おそろいの指輪を交換したんだ。

 いつも身につけていようって約束したけれど、彼は学校でつけているとからかわれるからって、指からはずして隠してたんだ。

 デートの前になると、急いで引っ張り出して、指にはめるの。それを、遠くからこっそり見ているのが、あたしはとっても好きっ。

 それからね、哀しいことがあって、彼が手をぎゅっと握りしめて耐えているとき、その手にふれて、そっとほどいてあげるときね……とても優しい、崇高な気持ちになって、ああ、彼のこと、愛してるなぁって思うの。

 あたしの指輪と彼の指輪がふれあうときに鳴る、かつん……って小さな音がどんな素晴らしい音楽よりも美しく、耳に響くの。

 どうだ、ななせ、うらやましいだろ〜。

 ななせも、早く彼氏をつくりなよ。彼氏は、いいぞ〜。

 ななせに彼氏ができたら、Wデートしようね』

 

『ねぇ、ななせ、あたしは今、最高に幸せで、歌うことが嬉しくてたまらないの。天使がいてくれれば、あたしはもっともっと上手くなるし、歌を好きになってゆくよ』

 

『ななせは、天使のことが嫌いみたいだね。

 あたしが天使の話をすると、不機嫌そうな声になる。

 心配してくれているのはわかるけど、うさんくさいとか、騙されてるんじゃないかとか、そんな風に言われたら、あたしも気分が悪いよ。

 天使はあたしにとって、大切な恩人なんだから』

 

『急にバイトが入ったの。

 ゴメンね。あとで電話する。

 あんまり思いつめないで。森さんたちも(※以降削除)

 いってきます、ななせ』

 

 四時間目の漢文は自習だったので、ぼくは課題のプリントを早々に片づけたあと、水戸さんのメールを読んだ。

 最後の一行まで読み終えても、水戸さんが失踪した理由はわからなかったし、彼氏や天使のことも、多くは語られていなかった。

 メールを読むかぎり、ごく普通の、明るい女の子に思えるのに……。

 チャイムが鳴り、昼休みになった。

「売店で、パンを買ってくるよ。先に食べてて」

「珍しいな。いつも弁当なのに」

「お母さんが、炊飯器のスイッチを入れるのを忘れちゃったんだ」

 そんなやりとりを芥川くんとして、廊下に出たとき——。

 ポケットで携帯電話が震えた。

 メールが一通届いていて、相手は非通知になっている。

 中身を確認し、息をのんだ。

 

『ヤツは、Lucifer だ』

 

 なに、これ?

 迷惑メール?

 携帯でネットに接続し、単語を調べて、愕然とした。

 ルシファーとは、神に背いて地獄に墜とされた天使——地獄の王のことだった。

 急に息が苦しくなる。

 音楽の天使と、堕天使ルシファー——これは、偶然だろうか? それともなにか意図があって、ぼくに送られてきたのだろうか?

 一体、誰が?

 ヤツというのは誰を指しているんだ? 誰がルシファーなんだ?

 頭の中に、眼鏡をかけた冷たい目の少年が浮かぶ。もしかしたら、彼の嫌がらせなんじゃ。どうしてぼくのアドレスを知っているのかわからないけれど、とっさにそれくらいしか思いつかなかった。それに、昨日のことといい、彼に関しては不可解なことが多すぎる。

 どうしよう。臣くんに尋ねてみようか。けど、またなにか言われたら。あんな風に敵意をむき出しにした目で睨まれたら。

 迷いながら、ぼくは図書室へ行ってみた。

 カウンターで仕事をしているのは、別の生徒だった。緊張が解け、ホッとし、教室へ戻ろうとしたとき、閲覧コーナーのテーブルで本を読んでいる臣くんが見えた。

 心臓が、大きく跳ね上がる。

 どうしよう、どうしよう。胃が裂ける思いで、息を潜め、近づいてゆく。

 開いている本を、後ろからのぞき見た瞬間、背筋を戦慄が走った。

 頭から水を浴びせられたみたいに、全身が一瞬で凍える。

 それは、ハードカバーで出版された井上ミウの本だったのだ——。

 どうして、よりによって、ミウの本を読んでいるんだ!

 椿のプロフィールが、目の裏にくっきりと浮かび上がる。まさか臣くんは、水戸さんについて、なにか知っているのか? いや、考えすぎだ。

 硬い唾を飲み下し、ぼくは声をかけた。

「それ、井上ミウだね?」

 臣くんが振り返る。ぼくの顔を見て、嫌なやつが来たとでもいうように、フレームの奥の目をスッと細めた。

 見た目は今時の普通の少年なのに、視線には妙に迫力があって、胃がぎゅっと縮まり、手のひらに汗が吹きだしてくる。落ち着け。体格だってぼくとそう変わらない。ぼくより年下の、普通の男の子じゃないか。

「そういうの、好きなの?」

 臣くんは、冷え冷えとした声で答えた。

「いいや、大嫌いだ。この本も、井上ミウも」

 その言葉に、胸を切りつけられ、地の底に叩きつけられた。

 身じろぎもできずにいるぼくを、毒を含んだキツイ眼差しで見据えたまま、憎々しげに続ける。

「小学生の作文みたいな低能な文章で、吐き気がしそうな甘ったるい単語をずらずら書き連ねているだけの、駄作だよ。主人公の能天気さと偽善ぶりが、誰かさんにそっくりで、胸くそ悪くなる」

 野良犬のようにギラギラと光る目。侮蔑に満ちた言葉。

 それは、以前にぼくが、クラスの女の子たちの前で吐き出した言葉と、同じだった。

 

『そんな本の、どこがおもしろいの? 文章|下手だし、構成|雑だし、頭の悪い中学生が書いたポエムを読まされているみたいで笑っちゃうよ』

『みんな、賞をとったのが十四歳の女の子だったから、物珍しくて騒いでいただけじゃないか』

『ぼくは井上ミウなんか大嫌いだ』

 

 そう、ぼくも確かに、きみのように思っていた。

 こんな本、最低で、なんの価値もないんだって。ぼくなんかが、みんなにちやほやされているのは、なにかの間違いなんだって。

 この世で一番、井上ミウが嫌いだって。

 

「こんなに隅々まで透明で、善意にあふれた、おキレイな世界を、よくまぁ恥ずかしげもなく書けたもんだ。この本に書いてあることは、嘘ばっかりだ。こんな風に、人の心でもモノでも、表面しか見えてなくて、自分がおひさまに照らされて、路の真ん中を堂々と歩いてるって信じてるやつが、無邪気に人を傷つけて追いつめるんだ。あんたや、毬谷や、井上ミウみたいにね」

 

 他人から面と向かって、�井上ミウ�を否定されたことはなかった。そのことがこんなに胸に突き刺さって、痛くてたまらないなんて。こんなに動揺しているなんて——。

 足がふらつき、倒れそうになり、ぼくは「邪魔してゴメン」と言って、逃げるように図書室を出た。

 情けなくても、惨めでも、これ以上彼に悪意に満ちた視線で見つめられ、真っ黒な言葉の刃で、切り刻まれることに耐えられなかった。

 ミウの本が、全部嘘っぱちだなんて、ぼくが一番よく知っている。

 現実は、あんなに優しくも、美しくもなく、願いも約束も、一瞬の儚い夢でしかないのだと。

 平和な日常はあっけなく崩壊し、指をからませあって微笑みあった二人は、離ればなれになり、思い出は惑乱を引き起こす毒にしかならないのだと。

 全身を駆け抜ける痛みと熱を、どうしたらいいのかわらない。

 井上ミウなんて嫌いだ! あの本も井上ミウも、本当は汚くて、嘘まみれだ。

 そんなこと、わかってる! わかってるのに!

 人気のない廊下で、壁に手をつき、ぼくは浅い呼吸を繰り返した。冷たい汗が吹き出し、悪い風邪を引いたみたいに、ぞくぞくと寒気が這い上がってくる。

 そのままへたり込みそうになったとき、誰かがぼくの肩にふれた。

「どうしたんですか? 井上くん」

 顔をあげると毬谷先生が、ぼくを後ろから支えるようにして立っていた。

「……先生」

「顔色がとても悪いですよ。保健室へ行きますか?」

 眉をひそめ、心配そうに尋ねる。ぼくは弱々しく首を横に振った。

「平気です。すぐ、おさまります……」

 先生がますます眉をひそめる。

「平気、という顔ではありませんね。保健室が嫌なら、準備室へ行きましょう。これは教師命令です。つきあいなさい」

 

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 シナモンの香りが、白い湯気とともに漂う。

 おだやかな笑顔で差し出された熱いチャイを、ぼくは両手で受け取り、さましながら少しずつ飲んだ。

 準備室の中は、窓から差し込む光でまばゆいほどに明るく、静かであたたかだった。

 呼吸は正常に戻っていて、汗もひいていた。けれど、心の中にひりひりするような痛みは残ったままだった。

 毬谷先生が、自分もチャイを飲みながら、やわらかな眼差しでぼくを見つめ、尋ねる。

「なにがあったんですか?」

「……」

「話したくないなら、いいですけど」

「……先生は、自分を嫌いになったことがありますか?」

「……ななせくんと、喧嘩でもしましたか」

 紙コップを抱える指に力を入れ、うつむくと、毬谷先生は静かな声で言った。

「ありますよ。嫌いになったこと」

 顔を上げると、悲しそうな表情で窓の外を見ていた。

「……私は両親が音楽家だったので、生まれたときから、プロになることを期待されていて、そのことに対して疑問を感じたこともありませんでした。けれど、だんだん周囲の声と、自分の音楽が、噛み合わなくなって……うまく折り合いがつけられず、すべてが嫌になってしまったんですよ。私という存在も、名前も、そっくり消してしまいたい。あの頃は、毎日、そんな風に思っていました」

 ぼくは先生の横顔を見つめ、寂しげな声に耳を傾けていた。

 先生は、腕にはめた重そうな時計にそっと手を置き、おだやかな——けれどどこか切ない笑みを浮かべ、つぶやいた。

「だから私は、教師になって、ここにいるんでしょうね。自分を嫌いにならずにすむように……」

 天才と呼ばれ、特別扱いされることが、先生は苦痛だったのだろうか……。ぼくが、テレビや書評で、井上ミウが褒められるたびにぞっとしたように。

「そういえば、水戸くんは、見つかったのですか」

 先生が顔を上げ、尋ねる。

「いいえ……。音楽の天使くらいしか、手がかりがなくて」

「そうですか……」

 瞳を曇らせると、先生はまた憂いのにじむ声になり、つぶやいた。

「もしかしたら、これ以上、水戸くんを捜さないほうがいいのかもしれません」

 ぼくは驚いて訊いた。

「どうしてですか」

「もし……水戸くんが、自分の意志で姿を隠したのだとしたら、捜してほしくないのではないでしょうか」

 学生時代、毬谷先生はある日、ふいにみんなの前から姿を消したのだと、粧子さんが言っていた。

 そのときのことを思い出しているのだろうか。声が弱々しく掠れる。

「……真実が必ずしも、救いをもたらすとはかぎりません。知らないほうが幸せなことも、あります。

 特に、芸術家を目指す人たちはね……みんなとても臆病で、自信がなくて、揺れやすいんですよ。才能があると褒めそやされながら、壁にぶち当たって、苦しんで、苦しんで、どうしようもなくなって……それでも諦められなくて、心を病んでゆく人たちを、大勢見てきました。本当に、どうして、そこまで追いつめられなければならないのでしょうね……。才能なんて、とてもあやふやなもので、それを測る明確な方法なんて、これまでもこれからもないのに……。才能という幻想は、ときに凶器となり、人を傷つける。

 美しい音楽は聴き手には平等なのに、それを生み出す者にとっては、そうではないし、その才能が、永遠に続くわけでもありません。

 天使と呼ばれ、人々の賞賛を一身に浴びて煌めいていた歌い手でさえ、今は忘れ去られ……もう、歌うことはないのです」

�天使�という言葉を口にしたとき、毬谷先生の目に激しい苦しみが浮かんだ。

「天使は何故、歌わなくなったんですか?」

 先生は、哀しそうにつぶやいた。

「人が……亡くなったんですよ。ある高齢の音楽家が、天使の賛美歌を聴きながら手首を切ったんです」

 衝撃的な内容に息をのむぼくに、先生がますます辛そうに語る。

「天使は人を不幸にし、破滅させる……。天使の歌声は多くの人間を死へ追いやり、穢れに満ちてしまった。だから、天使はもう、歌いません。歌ってはいけないのです」

 手首を握りしめて言い放つ先生は、まるで自分を責めているように見えた。

 先生が語った天使は、水戸さんと関わりがあるのだろうか……?

 そして先生とも……。いや、もしかしたら毬谷先生自身が——。

 

『マリちゃんはわたしたちの希望の星だったのよ』

『今に日本を代表するオペラ歌手になるだろうって、言われてたのよ」

 

 先生は、ひどく疲れている様子だったけれど、なにかを振り切るように息を吸い、テーブルに置いた紙コップを取り上げた。

 そうして、ぼくのほうを見て、淡く、切なく、微笑んだ。

「ねぇ、井上くん。芸術家としての成功なんて儚いものです。私は、そんなものより、この一杯のチャイのほうを選びます」

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 井上ミウは、どんな子なのだろう……。

 ページをめくりながら、ときどき想像する。

 週刊誌では、お金持ちのお嬢様じゃないかなんて書かれていたけど、私は、ミウは普通の子だと思う。家族がいて、友達がいて、大好きな人がいて、そんな幸せで平凡な女の子じゃないかなって。

 きっと、優しくて、純粋で、いつもにこにこ笑っているような、素敵な女の子……。

 ミウの本は、挿絵の代わりに、椅麗な写真がたくさん載っているから好き。

 青い空、草むら、雨、プール、体育館、水飲み場、鉄棒……あたりまえで、懐かしいものばかり。

 それから、大好きって気持ちとか、信じる心とか、大切な約束とか。

 胸の中が、澄んだ綺麗なものでいっぱいになる。

 ななせも、ミウを読んでみたらいいのに。

 きっと気に入ると思うのに、前に「井上ミウって、私たちと同じ歳なんだよ。どんな子だろうね」って言ったら、「顔を出せないなんて、きっとすごいブスなんだよ」なんて、むくれてた。

 ななせは口は悪いけど、意地悪じゃない。いつもは、あんなこと言う子じゃないんだけどなぁ。

 広間にまた、ななせの写真を飾った。ちょっとふくれっつらで、可愛い。

 壁一面に、天使の写真と、ななせの写真と、私の写真。それから、青い薔薇。

 それを見つめながら、穢れきった私は願う。

 ななせが、平和で、幸福でありますように。

 私が戻ることを許されない、あたたかな昼の光の中で、家族や友達に囲まれて、心から笑っていてくれますように。

 せめて、ななせの恋だけは、叶いますように。

 井上ミウの小説に出てくる、樹と羽鳥みたいな恋を、ななせがしてくれたらいい。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 毬谷先生は、ぼくらに隠しごとをしている。

 そんなもやもやした想いを抱きながら教室へ戻ったのは、チャイムが鳴る直前だった。

「ゴメン。急に気分が悪くなって、毬谷先生のところで休んでたんだ」

 芥川くんが、顔をしかめる。

「大丈夫なのか?」

「うん。だいぶ落ち着いた」

「そうか。ならいい。てっきり……」

 芥川くんが口ごもる。それから、迷うような表情でなにか言いかけたときだ。

「ななせ!」

 森さんの声に驚いて振り返ると、琴吹さんが真っ青な顔で机に手をつき、震えていた。

「具合悪いの!? ななせ?」

 ぼくも慌てて、駆け寄る。

 爪先にコツンと当たるものがあった。床に、見覚えのある携帯が落ちている。

 あれ? これ、琴吹さんのじゃ。

 腰をかがめて拾い上げ、開きっぱなしの蓋を閉じようとしたとき、琴吹さんがすごい勢いで、ぼくの手から携帯をもぎとった。

「!」

 眉をつり上げ、荒い息を吐き、目に涙をにじませ、震えながら睨みつけてくる琴吹さんに驚いていると、先生が教室へ入ってきた。

「すみません、琴吹さんの気分が悪そうなので、保健室へ連れていきます」

 森さんが、琴吹さんを支えて出て行く。琴吹さんは胸の前で、携帯をぎゅっと握りしめ、なにかに怯えているようなこわばった表情で、うつむいていた。

 琴吹さんは一体、どうしてしまったんだろう。ちらりと見えた携帯の画面に、メールがびっしり表示がされていたのが、気になった。

 まさか、琴吹さんのところへも、おかしなメールが来たんじゃ!

 

 休み時間になるなり、ぼくは森さんの席まで行き、琴吹さんの様子を尋ねた。

 森さんは、困っている顔で答えた。

「その……あたしもよくわかんないんだけど、ちょっと混乱してるみたい。『ファントムが……』とか言って」

 冷たい闇が頭上から落ちてきたように錯覚し、手のひらが汗ばんだ。

「ファントム……って言ったの? 琴吹さん?」

「聞き間違いかもしれないけど……。でも、ななせが戻ってくるまで、教室で待ったほうがいいかも」

 呼吸が苦しくなり、胸が不安に締めつけられる。

 あのメールは、やっぱり、ぼくが受信したメールと関わりがあるんじゃないか? 琴吹さんが、携帯を落としてしまうほど、ショックな内容だったんじゃ。

 

 琴吹さんが戻ってきたのは、清掃時間が終わったあとだった。

 森さんたちが取り巻き、「心配したよ」と口々に話しかけるのを、ぼくはじれったい思いで見ていた。琴吹さんは、無理をしているようなぎこちない笑顔で、ぼそぼそ言葉を返している。やがて、琴吹さんが鞄を持って教室を出てゆくと、ぼくは追いかけて、廊下で呼び止めた。

「琴吹さん」

 細い背中が、びくっと震える。けれど立ち止まらず、逃げるような早足で、歩き出す。

「待って、琴吹さん!」

 腕をつかむと、泣きそうな顔で振り返った。

「はなして……っ」

「なにがあったの? ファントムがどうしたの?」

「!」

 見開かれた目に、はっきりと怯えが走る。青ざめきった顔に、複雑な表情が次々浮かぶ。恐怖、迷い、痛み、渇望、哀しみ。

 どうしたんだ? なんで、こんなに怯えているんだ? それに、どうして、こんなに哀しそうな……。

 混乱するぼくに、琴吹さんは眉根をぎゅっと寄せ、震える声でささやいた。

「なんでもないよ……もぉ、放っておいて。夕歌はあたし一人で捜すから、井上はもぉ、ついてこなくていい……」

「けど」

 琴吹さんの目に、透明な涙がたまってゆくのを見て、ますますうろたえる。

 琴吹さんは、声を震わせ、泣くのを必死に我慢しているみたいな顔で言った。

「だ、だって……昨日、夕歌の家を見に行ったとき、井上、すごく……辛そうだったもの……。あんな井上を見るのは、嫌っ。耐えられないよっ。あたし、井上の彼女でもないのに、迷惑ばっかりかけて……ごめんなさい。い、今までありがとう。でも、お願い、もぉ放っておいて……」

 思いきり殴られたように、頭の中が真っ白になり、手から力が抜けた。

 迷うぼくを見て、琴吹さんは隣で傷ついていたのだ——。

「琴吹|先輩」

 低い声がして、臣くんが足音も立てずに現れた。

「司書の先生が呼んでるんで、図書室へ来てもらえますか?」

「……わかった」

 掠れた声でつぶやくと、琴吹さんはうつむいたまま、臣くんと行ってしまった。

 途中で、臣くんが振り返り、軽蔑しきった冷たい視線でぼくを射た。

 

 ——偽善者。

 

 足がすくみ、喉がこわばり、一言も発することができなかった。

 琴吹さんの力になりたいと願う気持ちに、嘘はなかった。気弱に泣きじゃくる姿に胸が痛んで、どうにかして助けてあげたいと思っていたのに。

 けれど、中途半端な気持ちでそばにいたせいで、琴吹さんにあんな辛そうな顔をさせてしまった。

 息が苦しくて、喉が裂けそうで、自分の存在を消してしまいたかった。本当に、本当に、琴吹さんを傷つけるつもりなんて全然なかったのに。これじゃ図書室のときと同じだ。臣くんに言われたように、ぼくは最低の偽善者だ。

 世界中の人間から白い目で見られ、非難されているような惨めな気持ちで、廊下をふらふら歩いてゆく。抉られ、空っぽになった心が、ひりひりと痛み、切なさと苦しさに、涙がにじんでくる。

 ダメだ。泣いちゃいけない。そんな資格、ぼくにはない。あんなこと、琴吹さんに言わせてしまうなんて。琴吹さんは泣きそうだった。

 込み上げてくるものを、まばたきして必死にしりぞける。

 これからどうすればいいんだろう。

 琴吹さんは、一人で水戸さんを捜すから、もう関わらないでほしいと言っていた。

 けど、あんな状態の琴吹さんを、放っておけない。傷つけてもそばにいたほうがいいのか。それとも、離れることが琴吹さんのためなのか、わからなかった。

 いつの間にか、ぼくの足は、慣れ親しんだ三階の西の端にある文芸部へ向かっていた。

 そこに、遠子先輩は、いないのに。

 幻でもいい。

 会いたかった。

 遠子先輩に、会いたかった。

 冷え切ったノブを回し、部室のドアを開けたとき——。

 やわらかな声が聞こえた。

 

「こんにちは、心葉くん」

 

 窓際に置いたパイプ椅子に体育座りし、文庫本をめくっていたのは、細く長い三つ編みを腰までたらした、すみれの花のような�文学少女�だった。

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