文学少女4:四章 �文学少女�のお値打ち

发表于:2015-05-10 19:46 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-10 19:46~2015-05-31 02:00
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知道了

 四章 �文学少女�のお値打ち

 

「ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、作りたてのミートローフのようね。口当たりがよくて、小さな子供でもどんどん食べられちゃうし、大きくなってからも、あたたかくて、懐かしくて、美味しいの。

 強欲で他人を信じないお金持ちのスクルージが、イブの夜、ずっと前に亡くなった友人に再会し、生き方を変えるよう忠告されるの。友人はスクルージに、機会と望みを贈るわ。過去、現在、未来の、三人のクリスマスの精霊が、スクルージの前に順番に現れて、彼が忘れていたものや、見過ごしにしてきたものを、見せてくれるのよ。

 クリスマスのあたたかな風景や、貧しくても寄り添いあって生きる家族や、希望、信頼なんかをね。

 それはまるで、セロリや人参やタマネギ、丸ごとの卵やオリーブの実を混ぜて、オーブンでふんわり焼き上げたミートローフを、ナイフで切り分けて、銀色のフォークで小さく切って、少しずつ味わうような感じなの。

 普段は苦手なセロリや人参が、優しくやわらかく肉汁にからみ、ささやかな幸福感に胸がいっぱいになるのよ。オリーブの、ちょっとしょっぱい、癖のある風味も、とても美味しく感じられるの」

 ほのぼのした表情で蘊蓄を語りながら、ページの端を小さく破き、口へ運ぶ。

 かさこそとひそやかな音を立て、白い喉をそっと震わせて飲む込み、幸せそうににっこりと笑う。

 窓からこぼれる透明な日差しが、猫の尻尾みたいな細く長い三つ編みや、小さな白い顔、細い手足を、やわらかく彩っている。

 ぼくは夢でも見ている気持ちで、テーブルの横に突っ立っていた。

 本物の遠子先輩……だよな。

 本をぱりぱり食べながら、蘊蓄を垂れ流すような珍妙な女子高生が、他にいるはずがない。

「……なにやってんですか」

 ようやく声が出て尋ねると、遠子先輩はゆっくりとぼくのほうへ顔を向け、可愛らしく笑った。

「どうしてるかなぁと思って。ちょっとだけ、息抜きに来ちゃった」

「E判定なのに余裕ですね」

「心葉くんのおやつを食べて頑張ってるから、C判定くらいにはなっているはずよ」

 ぼくの突っ込みに動揺することもなく、のんびり答える。

 逆にぼくは気がゆるんで、鼻の奥がツンとしてしまった。

 遠子先輩が椅子の背に両腕を乗せ、おだやかな優しい目で、ぼくを見上げる。

「ねぇ、心葉くん。今まで、ポストに入れてくれたおやつ、本当に美味しかったわ。胡麻を入れて焼いたさっくりしたクッキー、ほんのりお酒の味がする干しぶどうのケーキ……ペパーミントのゼリー、甘いチャイ……あぁ、わたしがいなくても、心葉くんは元気で過ごしているんだなぁって……きっと、いいことがあったんだなぁって、�想像�しながら、いただいてたのよ」

 澄んだ声に胸が震え、ぼくは慌てて目をそらした。

「受験生に、おかしなもん食わせるわけにいかないでしょう。遠子先輩は食い意地張ってるから、全部食べちゃうんだから」

「そうねぇ。だって、心葉くんが書いたものだもの。残したりしないわ」

 嘘ばっかり。ぼくが書いたんじゃなくたって、ポストに放り込まれたヘンな手紙だって、最後まで食べきるくせに。

「けどね、この頃の心葉くんのおやつは、ちょっと苦かった……」

 遠子先輩の眼差しが、曇る。

 それで、心配して会いに来てくれたのだろうか。ぼくの三題噺は、そんなに苦かったのだろうか。

 なんだか、どんどん気持ちが弱くなっていって、喉が熱くなって、遠子先輩になにもかもぶちまけてしまいそうだった。

 嫌だ。そんな子供っぽいことしたくない。遠子先輩だって、受験で大変なのに。

 歯を食いしばって耐えていると、遠子先輩がふいに、にっこりした。

「おやつの話をしていたら、甘いものが食べたくなっちゃった。ねぇ、心葉くん。今日の差し入れは?」

 パイプ椅子をがたがた揺すって、催促する。

「あぁ、わかりましたよ。今なんか書きます」

 そう言ってから、以前に書いた三題噺が、鞄に入れっぱなしになっていることに気づいた。琴吹さんに『大嫌い』と言われた日に、さんざん悩んでいじくり回して、お蔵入りにした�ふんわり癒しのバニラスフレ風味�が——。

 ぼくは鞄からそれを出し、机の上に置いた。

 それから、そのへんにあった水色の栞に、ボールペンで、携帯電話の番号とメールのアドレスを書いた。

 遠子先輩は「早く早く〜」と言いながら、期待に満ちた顔で、こっちを見ている。

 ぼくは、右手に原稿用紙、左手に栞を持って、遠子先輩のほうへ向き直り、尋ねた。

「大きいのと小さいの、どっちがいいですか?」

 遠子先輩が椅子に座ったまま、満面の笑顔で両手を差し出す。

「大きいほう!」

 

 �蝶々��恐山��サーファー�の、ふんわり癒しのバニラスフレ風味を食べた遠子先輩は、胸を押さえて苦悶の表情を浮かべた。

「うぅぅぅぅぅぅぅぅ、マッチョなサーファーが、恐山から海パン一枚で滑り降りてきた〜〜〜〜。魂が蝶々になって体から抜け出して、恐山に帰っちゃった〜〜〜〜。サーファーが骸骨になっちゃった〜。これ、ホラー? ホラーなの? バニラじゃなくて、タクアン入りのかまぼこの味がする〜〜〜〜。ふんわりしてな〜い。とげとげしてる〜〜〜〜あぅぅぅ、練りワサビまで入ってる〜〜〜〜」

 めそめそする遠子先輩に背を向け、ぼくは栞を手帳に挟んだ。

 結局、渡せなかったな。

「うぅ……あぅ……ねぇ、心葉くん、流人と電話で、なにを話していたの」

 振り返ると、遠子先輩は椅子の背にしがみついて、必死に吐き気を堪えていた。

 そうしながら、ぽつぽつとつぶやく。

「もしかしたら、困っていることがあるんじゃないの? 先輩に相談したら、いい考えが浮かぶかもしれないわよ」

 すぐには返事ができなかった。こわばった声で尋ねる。

「……流人くんが、なにか言ったんですか」

「ううん。流人が、隣の部屋で『心葉さん』って言ってるのが、聞こえてきて」

「盗み聞きしたんですか」

 突っ込みを入れたとたんに、がばっと体を起こし、凄い勢いで反論をはじめた。

「べ、別に! わたしは、コップで盗み聞きなんかしてないわ! いくら流人が意地悪して教えてくれなくても、部屋の壁が画用紙みたいにぺらぺらでも、流人が心葉くんに電話していて、なんだか込み入った話をしているみたいで気になっても、盗み聞きなんて、そんなお行儀の悪いこと絶対にしないわ!」

「耳に、コップの跡が残ってます」

「えっ!」

 指さすと、遠子先輩が右側の耳をぱっと押さえる。

「嘘です」

「うっ」

「盗み聞き、したんですね?」

 問いつめると、今度は開き直って駄々をこねはじめた。

「だってだってだって! 心葉くんが流人に、なにか相談してるみたいで、気になって勉強どころじゃなかったんですもん。このままじゃ、受験に失敗して浪人しちゃう。そんなことになったら、心葉くんのせいよ! そうよ、流人なんかに頼る心葉くんが悪いのよ。だから尊敬する先輩が、安心して受験に集中できるように、なにがあったのか洗いざらい白状しなさい」

 ああ……やっぱり、遠子先輩は遠子先輩だ。

 自分勝手な主張に、ぼくはすっかり脱力してしまった。

 こんな人に見栄を張っても仕方がない。ぼくより、遠子先輩のほうが千倍子供っぽい。

「わかりましたから、椅子をがたがたさせるのやめてください。前みたいに転んで顔を打ちますよ」

 溜息をついてテーブルにつくと、ぼくは、これまであったことを話しはじめたのだった。

 遠子先輩が、椅子をテーブルの前まで引っ張ってくる。ぼくの語る内容に、眉をひそめ哀しそうな顔をしたり、息をつめて真剣な顔をしたりし、途中から人差し指を唇に軽くあて、考えに沈んでしまった。

 話が終わると、遠子先輩がつぶやいた。

「心葉くん。水戸さんがななせちゃんに出した彼氏のヒントを、詳しく教えてちょうだい」

「えーと……確か、三つあって、九人家族で、考え事をするときテーブルの周りを歩き回る癖があって、コーヒーが好き、だったかな」

「そう……」

 人差し指を唇にあてたまま、また物思いにふける。

「珍しいですよね、九人家族なんて」

「多分、水戸さんの彼は、九人家族じゃないと思うわ」

「え」

「このヒントは、もっと別のものを指しているんじゃないかしら」

「別のものって……どんな?」

 すると遠子先輩は眉根を寄せ、ちょっと困っている表情になった。

「ごめんなさい。わたしも、まだよくわからないの」

 申し訳なさそうにつぶきやき、

「けど、�椿�というのは、デュマの『椿姫』からとったんじゃないかしら」

 と言った。

「『椿姫』? あ、そういえば、オペラでありましたね」

 遠子先輩が『椿姫』について語り出す。

「ええ。『椿姫』の原題は『 La Dame aux camelias 』——フランス語で�椿の淑女�という意味よ。作者のデュマ=フィスの父親は、『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』で有名な、人気作家のアレクサンドル=デュマ。一般的に、父親のほうが大デュマ、息子のほうが小デュマと呼ばれているわ。

 若かりし頃、パリ社交界の花形だった高級|娼婦のマリ=デュプレシに恋をしたデュマ=フィスは、彼女をモデルにして『椿姫』を書いたのよ。

 主人公は、純情な青年アルマン——『オペラ座の怪人』のラウルとちょっと似ているわね。パリにやってきたアルマンは、椿姫と呼ばれる高級娼婦のマルグリットと恋に落ちるの。マルグリットも、一途な情熱をぶつけてくるアルマンを愛するのだけど、肺の病を患っていて、アルマンのお父さんにも、どうか息子と別れてくれと説得されて、泣きながら身を引くのよ。まるで高級なビターチョコの中に、純度の高いウイスキーをつめたボンボンみたいに、甘くて華やかで、ほろ苦くて、切ない味がするの」

 オペラ歌手を目指していた水戸さんは、当然『椿姫』を知っていただろう。

 ヒロインのマルグリットが、娼婦であることも。

 それであえて�椿�という名前をつけたとしたら。水戸さんは、そのときなにを思っていたのだろう。

 遠子先輩が続きを語る。

「ヴェルディのオペラでは、アルマンはアルフレード、マルグリットはヴィオレッタという名前に変わっているわ。ラストシーンも少し違っていて、タイトルは『 La traviata 』というのよ。意味は、イタリア語で『道を踏み外した女』——」

 胸を貫く痛みに、ぼくは顔をゆがめた。

 

 道を踏み外した女。

 

 水戸さんも、椿姫のように道を踏み外してしまったのだろうか。

 その結果、還れない場所へ迷い込んでしまったのだろうか。

 それとも、椿姫がアルマンのために身を引いたように、彼女もまた誰かのために身を隠したのだろうか。

 水戸さんのラウルは、アルマンは、どこにいるのだろう? それとも琴吹さんが言うように、もともと存在していなかったのか?

 遠子先輩が、知的な眼差しで言う。

「水戸さんの話は、確かに『オペラ座の怪人』に似ているわね。『オペラ座〜』の中にも、『ファウスト』や『ドン=ジュアン』なんかの実際のオペラが出てくるわ。

 けど、もしこの失踪事件を、『オペラ座の怪人』とするなら、心葉くんたちは、大きなヒントを見落としているわ」

「どういうことですか?」

 ぼくはテーブルに手をつき、身を乗り出した。

「何故、水戸さんは、発表会の主役を降ろされないのか? 十日以上も無断で稽古を休んでいるのにおかしいわ。秘密の特訓をしているとか、お偉いさんの後ろ盾があるとか言われているみたいだけど、どこからか圧力がかかっているのは間違いないと思う。

 その人は、水戸さんが本番に現れるという確信があるのではないかしら? 『オペラ座の怪人』でも、ファントムは劇場の支配人を脅して、愛するクリスチーヌを、歌姫カルロッタの代役として舞台に立たせたわ。そのためにファントムは、カルロッタの声をひきがえるのように変え、舞台を妨害することさえするのよ」

「水戸さんの後援者が、ファントム——水戸さんの天使だっていうんですか?」

 遠子先輩は、真面目な顔でうなずいた。

「その可能性はあるわ。配役に口出しできる立場の人は、限られている。学園の先生か、経営者か——なににしても、その人が、水戸さんの行方を知っているかもしれない」

 息をのむぼくに、遠子先輩が尋ねる。

「どうする? 心葉くん? 調べてみる?」

 いつもなら、「早速調査よ、心葉くん!」と言って、ぼくの都合なんておかまいなしに飛び出してゆくのに。

 唇を結び、澄んだ眼差しで、まるで不出来な弟を見守る姉のように、辛抱強くぼくの答えを待っている。

 その目が、心葉くんが決めなさいと言っている。

 胸がいっぱいになり、心細さや戸惑いや、前に進みたいという願いが、交互に喉に込み上げる。

 一体、これ以上、ぼくになにができるのか。水戸さんが援交をしているかもしれないことさえ、琴吹さんに話せずにいるのに。

 けど——。

 こんな風に見つめられて、背中を向けてしまいたくなかった。それじゃ、今までと同じだから。

 呼吸を整え、ぼくは答えた。

「はい」

 とたんに、遠子先輩の顔が笑み崩れた。

 光が溶けるように、甘く、優しく、口元がほころんでゆく。

 人差し指で、ぼくの額をちょんと突くと、遠子先輩は明るい声で言ったのだった。

「よぉしっ、じゃあ、早速調査よ、心葉くん」

 

「遠子先輩は、帰ってください」

「ええっ、なんでぇ!」

 学内の音楽ホールに向かうぼくのあとを、遠子先輩は首をいやいやと振って、追ってくる。

「麻貴のところへ行くんでしょう? それなら、わたしが一緒のほうが絶対いいわ」

「受験生にヌードモデルやらせて、風邪引かせるわけにいきません。帰って勉強してください」

「じゃあ、心葉くんが脱ぐの? ヌードモデルするの?」

「いや、それは……」

「大事なおやつ係——いいえ、後輩を、麻貴の毒牙にかけるわけにいかないわ」

「って、遠子先輩、前に自分が会いたくないからって、ぼくを麻貴先輩んところへお使いにやりませんでした?」

「あのときは、たまたま外せない用があったのよ」

 言い合っているうちに、中庭のホールに辿り着いてしまった。

 ホールの最上階に、個人のアトリエを構える姫倉麻貴先輩——通称�姫�は、ぼくらの話を聞きながら、おかしそうに笑っていた。

「で? どっちが脱いでくれるのかしら? 遠子? それとも心葉くん?」

 制服の上に作業用のエプロンをつけ、手に絵筆を持って、尋ねる。

 ウェーブのかかった長い茶色の髪が、たてがみのように顔の周りにかかり、背中へと流れ落ちてゆく。背も高く肉感的で、姫と呼ばれるのに相応しい華やかな容貌をした麻貴先輩は、学園の理事長の孫娘で、なんでも知っていて、なんでも手に入れることができる人だ。

 ただし、与える情報に対して、必ず�代償�を要求する。

 そんな麻貴先輩の一番の野望は、遠子先輩のヌードを描くことなのだ。もう三年間も口説き続けているという。そのため遠子先輩には、すっかり警戒されてしまっている。

 もっとも、麻貴先輩は『遠子に恨まれるなんて、ぞくぞくしちゃう』とか言っている人だから、睨まれようが避けられようがへいちゃらなのだろうけど。

「今回は、遠子先輩は関係ありません。代償は、ぼくが払います」

「いいえ。後輩の一大事を、先輩であり文学少女であるわたしが、黙って見てるわけにいかないわ」

「文学少女、関係ないでしょう」

「後輩は、素直に先輩の顔を立てるものよ」

「あら、じゃあ、遠子が脱いでくれるのね」

「えっ!」

 麻貴先輩に、ねっとりした笑みを向けられたとたん、遠子先輩が言いよどむ。

「そ……それは、これから交渉して……その、最近わたし、おやつを食べ過ぎて太っちゃったし……そういうことをするなら、準備期間をもらわなきゃ。ほら、麻貴も受験勉強で忙しいでしょう! 絵を描いている暇なんて……」

「あら? あたしは、とっくに推薦で決まってるわ」

「で、でもっ、わたしはE判定だし、べ、勉強しないと……だからあの、その……、つ、ツケにしといてっ!」

 こぶしを握りしめ、力一杯|叫ぶ遠子先輩を見て、麻貴先輩は我慢できないというように吹き出した。

「あー、もぉ、可愛い! たまんない! いいわ。今、ちょうど別のモデルで描いているとこだし、ツケといてあげる。卒業前に十倍にして返してもらうわ」

「うっ」

 絶句する遠子先輩を、麻貴先輩が怪しく光る目で見つめる。

「今回は、あたしからの早めのクリスマスプレゼントよ。そうそう、利息[#「利息」に傍点]にあたしへのプレゼントも忘れないでね」

 ぼくは深く同情しながらも、心の中でこっそりつぶやいたのだった。

(だから来なければよかったのに。麻貴先輩に敵うわけないんだから自業自得です……)

 

�姫�の仕事は早かった。

 土曜日の夜。ぼくと遠子先輩は、ホテルの一室にいた。

 遠子先輩は三つ編みをほどき、ピンクのゴムで耳の下で無造作に結び、制服のスカートのウエスト部分を折り返して短くし、うきうきと。

 ぼくはニットにジーンズの私服で、頭に手をあて沈痛な面持ちで。

「わぁ。このテーブルセット素敵。アンティークねっ。ベッドも、すごくスプリングがきいているわ。ほらほら」

 遠子先輩が豪華なダブルベッドの上で、正座したまま、ぽよんぽよんと飛び跳ねてみせる。ぼくの人生で、女の子と二人きりでホテルに入ったのははじめてだ。しかも、遠子先輩とだなんて。

 飛び跳ねていた遠子先輩がバランスを崩して、ころりとひっくり返る。

「あー、もう、遠子先輩は帰ってください」

「だめよ。この作戦[#「作戦」に傍点]は、わたしがいなきゃ成り立たないわ」

 スカートの裾を直して起き上がり、断言する。

 作戦って……遠子先輩が、勝手に決めたんじゃないか……。

「本当にやるんですか?」

「ええ」

「受験生は机にかじりついて、勉強をしてください」

「昨日の夜、たくさん数学の問題を解いたから平気よ」

 ぼくは聞きとがめた。

「? なんで、今さら数学なんかやってんですか?」

「センター試験で、必要だからに決まってるじゃない」

「センター試験って、まさか国立受ける気ですか!? それ記念受験ですか?」

 あんまり驚いて、場所も状況も忘れて問いつめてしまう。

 てっきり私立の文系|狙いだと思っていたのに、国立! あの壊滅的な数学の点数で、どうして国立を受けようなんて思えるんだ! 身の程知らずもいいところだ!

 遠子先輩は、ぺたんこの胸を偉そうにそらした。

「えへん。わたしは、国立一本よ」

「やめてください。受験料をドブに投げ捨てるようなもんです。しかも一本! 無謀すぎです! 今から、私立に目標を切り替えるべきです」

 ああ、それでE判定なのか。どうりで、おかしいと思ったんだ。遠子先輩なら、文系科目でかなり点数が稼げるはずなのに。

 呆れ果てるぼくを、ベッドにしゃがんだ遠子先輩が、頬をふくらませ身を乗り出して睨みつける。

「ひどぉぉぉぉぉい、受験生に対して気遣いが足りなーい」

「遠子先輩こそ、受験生の自覚を持ってください。やっぱり帰りましょう」

「嫌よ。せっかく変装までしたのに」

「三つ編み、ほどいただけじゃないですか」

「スカートも、七センチも短くしたのよ。女の子にとっては大変なことよ」

「だいたいこんな作戦無茶です。援交するふりして水戸さんのことを聞き出そうなんて」

「大丈夫。わたしは、ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』も、夢野久作の『瓶詰地獄』も、ライスの『スリーピング・ビューティー』三部作『〜官能の旅立ち』『〜歓喜する魂』『至上の愛へ〜』も読破した文学少女よ。経験はなくても知識はばっちりよ」

「それ、全然参考になりませんから! てゆーか、参考にしないでください」

 言い合っていたとき、ドアが開く音がした。

「心葉くん、隠れてっ」

 遠子先輩がぼくを押しやり、ぼくは慌ててカーテンの陰に身を潜めた。

 その直後、スーツを着た四十半ばくらいの男性が、口髭をいじりながら部屋に入ってきた。

 写真で見た白藤音大の副理事長の堤健吾だ。間違いない。

 堤は、椿が出入りしていた会員制援交サイトの常連で、椿の�客�だったのだ。また、水戸さんを、発表会の主役に強引に押し込んだ人物でもある。

 ただの脂ぎった中年男にしか見えないけれど、彼が水戸さんの天使なのか?

 遠子先斐はベッドで背中を向けて、うつむいている。

「やぁ、待たせたね」

 堤は自分もベッドの端に腰かけ、いやらしく遠子先輩の顔をのぞきこんだ。

「緊張してるの? もしかして、はじめてかい?」

 遠子先輩が、小さな声で答える。

「……お金、たくさんくれるって、聞いたから」

「そうだね。私の気に入れば、お金もあげるし、なんでも買ってあげるよ」

 ぴくりと……遠子先輩の肩が動いた。

「本当に? なんでも?」

「ああ。なにが欲しいんだい?」

 次の瞬間、遠子先輩はいきなり堤に体当たりをかまし、瞳を星のようにきらきらさせて、語り出していた。

「わたし、森鴎外全集を初版で一気食いしてみたい! それから夏目漱石と谷崎潤一郎と、室生犀星と、あぁ、樋口一葉の『たけくらべ』の初版本も捨てがたいし! それに、絶版になったチェーホフの作品集と、あぁっ、ハーレクイン社発行のハーレクイン・ヒストリカルシリーズのバックナンバーを全部そろえて、部屋中にうず高く積み上げて食べつくすのも夢だったの! 宝くじが当たったら、ぜひ実現しようと思っていたのよ!

 きっと、ラム酒がきいたカスタードクリームをたっぷりつめたパイシューや、濃厚な味わいのザッハトルテや、薫り高いシャンパンのゼリーの海に、溺れている気分よ!」

 途中から勢い余って堤を押し倒し、それでもまだしゃべり続ける遠子先輩を、堤が目を白黒させて見上げている。

 ぼくは、頭痛を覚えながら飛び出していって、携帯を堤に向け、撮影した。

「なんだ、きみは!」

 慌てて遠子先輩の下から這い出てくる堤に、撮影したばかりの画面を見せ、冷静に告げる。

「堤健吾さん。この画像を、あなたの義理のお父さんである白藤音大の理事長や、他の職員たちに送りつけられたくなかったら、あなたがいつも指名している�椿�のことを、教えていただけますか?」

「つ、椿だって……!」

 堤はひどく衝撃を受けている様子で、青ざめ、絶句してしまった。

 

 そのあと、そわそわと体を揺らしながら堤が語ったことは、以下の通りだった。

 水戸|夕歌が失踪した直後、椿の名前で、赤い封筒に入った発表会の招待状が送られてきたこと。

 そこには、水戸夕歌が、さる場所でレッスンを受けていることがワープロの文字で打たれており、発表会には必ず舞台に上がるので、夕歌を主役から降ろしてはならないとあった。もし、そんなことをしたら、貴殿は今の地位を失うだろうと。

「夕歌は大人しくて素人ぽくて、私の気に入りだったのに。なのに急に、発表会で主役にしてくれなければ、私とのことをばらすと言って、脅してきたんだ。

 あのとき夕歌は、私の頬を包丁で叩いて、『ここで手首を切って自殺してみせてもいいのよ。そうしたら、すごいスキャンダルになるよね』と言って、目つきも口調も、まともじゃなかった。かと思うと急に泣き出したり、獣みたいにむしゃぶりついてきたり、虚ろな目でじっと宙を睨んだり、とにかく滅茶苦茶だった。

 いなくなってくれて、ホッとしてたのに、今度は手紙やメールを送ってくるようになった。とんでもないアバズレだ! あの女は、天使の仮面を被った悪魔だ! 私は被害者だ!」

 夕歌への憎しみを吐き散らす堤を、ぼくらはやりきれない思いで見ていた。

 

 椿は、水戸夕歌だった。

 しかも水戸さんは、発表会で主役を演じるために、堤を脅迫していたのだ。そして今も、陰から堤を操っている。

 空気が凍りつくような、冷たく暗い夜道を歩きながら、ぼくも遠子先輩も黙りがちだった。遠子先輩のスカート丈は元の長さに戻っていたけれど、ぼくらが聞いたことを頭の中から消すことはできない。

 苦い思いが、胸に広がってゆく。堤から聞いた水戸夕歌は、琴吹さんが話してくれた、大事な親友の水戸さんと、あまりにもかけ離れている。

 ファントムの正体がクリスチーヌ自身だったなんて、そんなこと、とても琴吹さんには言えない。

 一体、水戸さんは、なにをしようとしているのだろう。

 クリスチーヌの心が、ぼくにはまったく見えない。

 華やかに組まれた舞台のセットの前で、クリスチーヌはラウルに言うのだ。

 

『見てよ、ラウル、この塀、この森、この樹木のトンネル、この彩色された画布の絵を。これらはみんな、この上もなく崇高な恋を見たのよ。だってここでは、普通の人間よりはるかに詩情豊かな人たちが、これらの絵を作り出したんだもの』

 

『あたしたちの愛はここにぴったりでしょう、ラウル。だってあたしたちの愛も作りもので、ああ! ただの幻想にすぎないんですものね!』

 

 無邪気に聞こえるその言葉が、ラウルの——ぼくの胸を切りつける。

 かつてぼくが信じていた愛も、希望も、夢も、すべては幻想にすぎなかったのかもしれない。

 琴吹さんはこの瞬間も、親友の身を案じ続けているのだろうか。水戸さんが無事に帰ってきて、以前と変わらない平和な日常に戻れるよう願っているのだろうか。

 空気が、ぴりぴりと肌に突き刺さる。遠子先輩が、ときどき気遣うようにぼくのほうを見る。

 別れ際、ふいに遠子先輩が言った。

「ねぇ、心葉くん。『オペラ座の怪人』は、全部読み終わった?」

「いいえ」

 力なく答えるぼくに、

「そう……よかったら、最後まで読んでみてね。話の内容が、水戸さんのことと重なってしまって、読むのが辛いかもしれないけれど……でも、あの物語の真実は、最後にあると思うから」

 静かに告げ、またちょっと、心配している目でぼくを見つめる。

 そんな顔をさせてしまう自分が情けなくて、胸の奥が擦れるようにひりひりした。

「……遠子先輩」

「ん?」

「勉強……ちゃんとしてくださいね」

 見栄を張って、傷ついていないふりをするぼくに、遠子先輩は淡く微笑んでみせた。

「ええ」

 ほどいた髪を儚く揺らし、住宅地の中へ消えてゆく遠子先輩を、意気地のない顔で見送る。

 一人になったぼくは、ひどく歳をとってしまったように疲れ切り、心を閉ざし、なにも考えないようにしながら、歩き続けた。

 そうして、どれくらい過ぎただろう。

 いきなり、コートのポケットで携帯が振動した。

 引っ張り出して確認すると、非通知になっていた。

 以前、送られてきたメールのことを思い出し、体が少しこわばる。通話ボタンを押し、耳にあてると、

「井上くん?」

 聞いたことのない女の子の声が、ぼくの苗字を呼んだ。

 凜とした、よく通る、綺麗な声。

 誰? ぼくのこと知っているみたいだけど。

「はじめましてだね。あたし、水戸夕歌です」

 冷たい突風が、顔に吹きつけた。

 

 水戸夕歌だって!

 

 心臓が痛いほど暴れ出し、頭が熱くなる。落ち着くんだと自分に言い聞かせ、汗ばむ手で携帯を握り直し、ぼくは慎重に尋ねた。

「きみは、琴吹さんの友達の水戸さんなの?」

「そうよ」

「どうして、ぼくのことを知ってるの?」

「井上くんのことなら、大抵のことは知ってる。ななせがいつも話してたから。電話でもメールでも、ななせは昔から井上くんのことばっかり」

 からかっている風ではなくて、もっとおだやかな優しい口調だった。その声の響きに胸を突かれるのと同時に、混乱した。

「携帯の番号は? どうしてわかったんだ?」

「それは内緒。けど、手に入れようと思えば大抵のものは、手に入るものよ。人の心以外はね」

「気味が悪いよ」

「ごめんなさい」

 水戸さんは、あっさり謝った。落ち着いていて、失踪中の人間とは思えない。『夕歌は悪魔だ』という堤の声が、耳にこだまする。

「前に、メールを送ってきたのもきみ? 『ヤツは、ルシファーだ』って」

「そう」

「どうして、そんなことをしたの? ヤツって誰のこと?」

「ヤツは、あなたたちのそばにいるわ。�傲慢�の罪によって、地獄に堕とされ、サタンになった堕天使よ。ヤツに近づいてはいけないわ」

「意味がわからないよ」

「余計なことしないでってコト」

 声が、急に冷え冷えとする。

「今日、堤に会ったでしょう? ああいうの、困る」

 皮膚が恐怖に粟立つ。ぼくらがホテルで堤に会ったことを知ってる? まさか見ていたのか? どこで? それとも、堤が知らせたのか?

 耳を必死にすまして、彼女がいる場所の音を聞き取ろうとする。

 車のエンジン音。

 かすかなクラクション。

 流れてくるジングルベルのメロディ……。

「あたしの邪魔をしないで。ななせも、巻き込まないで」

「きみが戻ってくれば、琴吹さんもぼくも、きみを捜したりしないよ。今、どこにいるんだ!」

「クリスマスツリーの中よ。そこがあたしの家なの」

 ジングルベルがサビの部分にさしかかる。クリスマスの歓びを、明るく、楽しく、歌い上げる。

「……サイトで、きみのプロフィールを見たよ」

「あんなの適当よ」

「愛読書は、井上ミウって書いたことも?」

「あれは、本当」

「琴吹さんは、きみが井上ミウのファンだなんて言ってなかった」

「ななせは、何故か井上ミウを嫌っているみたいだったから。あたしは、好きよ。井上ミウ……文章を暗記してしまうほど、何度も読み返したわ……でも、そんなこと、もうどうでもいい」

 水戸さんが、冷然と言う。

「琴吹さんは、きみのことを心配してる。きみが帰ってくるのを待ってるんだ。きみは、琴吹さんに約束したんだろう? クリスマスは、琴吹さんのために空けておくって」

 水のように澄んだ綺麗な声に、ほんの少しだけ哀しみが混じる。

「……そうね。ななせとも……彼とも……約束をしたんだったね。イブは彼と、クリスマスはななせとって」

「なら、琴吹さんだけじゃなくて、彼も、きみを待ってるはずだ」

「ダメよ」

 声がこれまでで一番|険しくなり、感情的になる。車の排気音が、クリスマスソングをかき消す。

「クリスチーヌは天使と一緒にいるから。ラウルはもう会えない。クリスチーヌは、とっくに指輪をはずしてしまったわ」

 その言葉が、なにを意味するのかわからないまま、とにかく彼女をこちらに引き戻したくて、ぼくは叫んだ。

「天使の正体は、ファントムじゃないか! そんなやつと一緒にいちゃダメだ!」

 聞こえてきたのは、胸を突き刺す氷のように、冷ややかな声だった。

「あなたも、ラウルと同じね。自分が理解できないものを恐れて、排除しようとするのね。あの間抜けなラウルに一体、なにができるの? クリスチーヌは、賛美歌を聴きながら逝ったのよ」

「さっきからなにを言ってるんだ、きみは?」

「もう、話すことはないわ。とにかく、ななせを関わらせないで。井上くん、あなたは、ななせだけ見てればいいの」

「待って! 切らないで!」

 プツンと音がして、声が途絶えた。体から熱が急速に引き、足元から這い昇ってくる寒さに震えながら、ぼくは水戸さんの言葉を頭の中で繰り返していた。

 

 クリスチーヌは[#「クリスチーヌは」に傍点]、賛美歌を聴きながら逝ったのよ[#「賛美歌を聴きながら逝ったのよ」に傍点]。

 

 水戸さんがクリスチーヌなんじゃないのか? 賛美歌を聴きながら逝ったって、どういうことなんだ!?

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 もう、おしまいだ! ラウルは、間に合わなかった。

 私は、天使に手を切り落とされてしまった! 私が強情を張って、指輪を握りしめたまま離さなかったものだから、天使はどす黒い火のように怒り狂い、私の左手をノコギリでごりごりと切断し、指をナイフで一本一本|削いでいった。

 私の手首からは、あたたかな血が水のように流れ、土に染み込んでゆき、生臭い嫌な匂いがあたりに漂った。そうして、血まみれになった指輪を拾い上げ、天使はそこについた血を、冷たい舌でぬぐったのだ。

 それは、天使と私を深く結びつけるための儀式だった。

 私は、もうななせのところへも、彼のところへも帰れない。この夜の闇の中に、引き込まれ、囚われてしまつた。顔をさらし、日の下を歩くことを許されないファントムになってしまった。

 天使が私を破滅させた! 清らかな声で私を誘い、優しい言葉をかけて、髪をなでて油断させて、信じ込ませて、私を騙した! 私の、体を、声を、心を、穢し、恐ろしい怪物に作り直し、自分の仲間にしてしまった!

 天使は、仮面をつけた醜いファントムだったのだ!

 どうして、あの穢れた名を持つ恐ろしい化け物を、信じたりしたのだろう。心を許して、夜ごと、会いにゆき、月の下で声をからませて、歌ったりしたのだろう。

 あれは、卑劣な罠だった!

 ファントムは、私の手首を切り、彼との愛の証である大事な指輪を奪った。そして私自身を、日常から分断した。

 ファントムと出会わなければ、私は、彼やななせのいるあたたかな優しい場所へ、帰れたかもしれないのに。

 そこで、普通の女の子としてやり直すことができたかもしれないのに。

 偽りの栄光の代償として私が得たものは、恐ろしい破滅と、冷たい仮面と、ファントムが作った霊廟のような、真っ暗なお城だけだった。

 クリスチーヌは、逝ってしまった!

 クリスチーヌは、逝ってしまった!

 クリスチーヌは、逝ってしまった!

 最後の賛美歌は、闇の中にむなしく溶けていった。私は絶望のうちに、心臓の音が止まるのを聞いた。

 ここにはもう、草の上に惨めに這いつくばり、ぎらぎらした瞳で、昼の世界の人間たちに復讐を誓うファントムしかいない。

 このことを知ったら、ななせはどんなに哀しむだろう、傷つくだろう。携帯を見たら、ななせからメールが来ていた。留守電に吹き込みもある。きっと、返信を待っているし、心配している。

 ななせに、メールを送らなければ。ななせだけは守りたい。ななせは、笑ってなきゃいけない。

 でも、なんて!? クリスチーヌの骸は地の底にあり、私は、穢れたファントムに変わってしまったというのに——。

[#ここまで太字]

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

 週明け。月曜日の休み時間に職員室へ行ったぼくは、毬谷先生が学校を辞めたことを知って、愕然とした。

「そんな! まだ二学期も終わってないのに。どうして!」

 ぼくに、そのことを教えてくれた先生は顔をしかめ『身内に不幸があったらしいと聞いているが、よくわからない』と答え、まだ他の生徒には言わないようにと念を押した。

 鉛のような不安が、胸の奥に沈んでゆく。

 休日に、水戸さんが電話で話していた内容を考えているうちに、毬谷先生が言っていた、賛美歌を聴きながら手首を切った音楽家のことを思い出した。

 クリスチーヌは賛美歌を聴きながら逝ったというあの言葉と、なにか関係があるのだろうかと気になって、詳しく尋ねてみるつもりでいたのに、先生が学校を辞めてしまったなんて!

 ぼくは納得できないまま、昼休みに麻貴先輩のクラスへ行ってみた。けれど、麻貴先輩も朝からいないという。

 どうしよう……。

 アテもないまま、音楽準備室へ向かって歩いてゆく。先生と関わりのある場所なんて、そこくらいしか思いつかなかったから。

 水戸さんだけじゃなく、毬谷先生までいなくなってしまった。最後に話したとき、先生は、さめたチャイが入った紙コップを片手で持ち上げ、淡く微笑んで、言ったのに。

 

 ——ねぇ、井上くん。芸術家としての成功なんて儚いものです。私は、そんなものよりこの一杯のチャイのほうを選びます。

 

 平穏な日常をなによりも愛していた先生が、あっさりそれを捨ててしまうなんて信じられなかった。自分を好きでいるために、今ここにいるのだと話していた、あの毬谷先生が——。

 琴吹さんと、毬谷先生と、三人で過ごした短い時間の中で、先生はぼくに大事な言葉をくれた。

 また、お手伝いをさせてくださいと言ったとき、先生は「待っています」と笑っていたのに。なのに、ぼくらになにも告げず、こんな風に突然いなくなってしまったことが、ひたすらショックだった。胸に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったような気がする。

 準備室の前まで来て、ノブに手をかけようとし、ふと動作を止めて耳をすました。

 中から、低い声が聞こえる。

 ドアの隙間から、そっとのぞき見ると、制服を着た女の子が、床にぺたんとしゃがみ込んで、泣いていた。

 その子の前に、細かく千切られた赤い紙が散乱しているのを見て、ハッとし、ぼくは大きくドアを開けた。

 肩をびくっと震わせ、涙に濡れた目でぼくを見上げたのは、子供っぽい顔立ちをした小柄な女の子だった。

 どこかで見たことがある。

 そうだ! 前に、この部屋で毬谷先生とキスしていた子だ!

「きみも、先生が学校を辞めたことを、聞いたの?」

 尋ねると、女の子はこくりとうなずき、またぽろぽろ泣き出した。

 ぼくは、女の子の前まで歩いてゆき、「ねぇ、泣かないで」と慰め、落ち着くのを待った。

 彼女は杉野さんという名前で、一年生だった。毬谷先生とつきあっていたわけではなく、杉野さんの片想いだったという。

 彼女の話に耳を傾けながら、周りに散らばる赤い紙にさりげなく目を走らせる。思った通り、それは封筒だった。

『発表会のチケットが入った赤い封筒が、�椿�の名前で送られてきて……』

 堤の話を思い出し、ひやりとする。

「これは、きみが破いたの? どうして?」

「ぐす……そのお手紙が来たときから、マリちゃん、おかしかったから……。急に資料の整理をはじめたり、あたしが手伝うって言っても、ダメって断ったり……、あたしのこと、ずっと子供扱いしてて、相手にしてくれなかったのに、いきなりホテルに誘ったり……なのに、なんにもしないで帰っちゃったり……」

 毬谷先生はホテルに入ってからも、様子がヘンだったという。まるで、捜し物でもするように、部屋の中をそわそわと歩き回り、杉野さんがシャワーを浴びて戻ってくると、ベッドの脇のテーブルを、これまで見たことがないような険しい顔で睨みすえ、つぶやいていた。

「なんて言ってたの?」

「よ、よく聞こぇなかったけど……『間に合わなかった』とか、『天使が奪っていった』とか……」

 天使!

「それで、いきなり部屋から出てっちゃったの」

 ぼくが目撃した準備室でのキスは、この翌日だったという。ホテルに置き去りにされて憤慨する杉野さんへの、お詫びだったらしい。

 先生の行動は、ぼくが聞いても不自然に思えた。それに、天使って……。

「マリちゃんが封筒を見て、苦しそうにしてたから、あたし、中身が気になって……マリちゃんの机から、こっそり持って来ちゃったの。けど、オペラのチケットが入ってただけで、手紙はなかった」

 そのあと返すタイミングがつかめなくて、ずっと持っていたのと、小声で打ち明ける。

「差出人の名前は見た?」

「うん……�椿�って、書いてあった」

 衝撃が、頭を貫く。

 堤のところへ来た封筒と同じだ。どういうことなんだ!

 毬谷先生は、椿を知っているのか!? 水戸さんの失踪に関わりがあるのか!?

 足元が崩れてゆくような不安に、息が苦しくなってゆく。先生は、水戸さんとはそれほど親しいわけじゃないと言っていたのに——。

 泣き続ける杉野さんをどうにか落ち着かせ、教室へ戻ったのは、昼休みが終わる直前だった。

 出入り口のところで、琴吹さんとぶつかりそうになった。

「!」

 お互い驚いて、後ずさる。

「……ご、ごめん!」

「う、ううん」

 琴吹さんが唇をきゅっと噛み、弱気な目でぼくを見る。なにか言いたそうだ。

 ぼくも、水戸さんから電話があったことや、毬谷先生のことを、知らせるべきかどうか激しく迷いながら、見つめ返した。

 そのとき、琴吹さんのスカートで、着信音がけたたましく鳴り響いた。

「!」

 琴吹さんが真っ青になり、ポケットから携帯電話を引っ張り出し、それを見ながら、ぼくにくるりと背中を向けて、慌てて去ってゆく。

 着信相手は一体誰なんだ? 中身は、なんなんだ?

 追いかけて尋ねたい気持ちではち切れそうだった。けれど先生がやってきて、ぼくも自分の席に着いた。

 琴吹さんは机の下に隠した携帯を、こわばった顔で凝視している。

 

 放課後になると、琴吹さんは森さんたちに囲まれて帰ってしまった。これからクレープの店へ行くらしい。琴吹さんの元気がないので、森さんたちが気を遣ったのだろう。

 芥川くんは部活へ行き、ぼくは、もどかしい気持ちのまま教室を出た。

 ぼくらを取り巻く日常がひび割れ、崩壊しようとしているのを、胸が押し潰されそうなほどに感じながら、それにどう対応していいのかわからない。

 毬谷先生は、何故、杉野さんをホテルへ誘ったんだ? 先生の行動の意味は?

 もう手がかりは、臣くんしかいない。臣くんは、毬谷先生のことを嫌っているようだったし、ぼくに先生に近づくなと警告していた。ぼくらの知らない先生を、彼なら知っているかもしれない。それに、天使のことも、水戸さんのことも……。

 彼と話をするのは今も怖いし、訊いてもまともに答えてくれるかどうかわからないけれど、ぶつかってみるしかない。とりあえず図書室へ行って、そこにいなければ委員の人に、彼のクラスを聞いて……。

 そのとき、図書室へ続く通路の窓際に、眼鏡をかけた少年が立っているのを見て、足がすくんだ。

 

 臣くん——。

 

 刺すような冷たい眼差しを向けられたとたん、心臓に爪を立てられたような気がして、びくっとしてしまう。

 臣くんは、脅しつけるような低い声でつぶやいた。

「うろちょろするな。怪我をするぞ。あんた一人じゃなくて[#「あんた一人じゃなくて」に傍点]、琴吹ななせも[#「琴吹ななせも」に傍点]」

 その言葉を聞いたとたん、こめかみが熱くなった。

「琴吹さんに、なにをする気だ! まさか、琴吹さんにおかしなメールを送ったりしてないだろうな」

 すると彼は、薄く笑って見せた。

「だったら?」

 頭の中でなにかがはじけ、ぼくは彼につかみかかっていた。

 普段の自分からは考えられないその行為は、真っ青な顔でメールを見ていた琴吹さんを思い出したからというだけではなく、今、ぼくが感じている体の芯が震えるような恐怖を、振り払うためでもあったのだろう。

 制服の襟元を両手で握りしめ、「琴吹さんになにをしたんだ! きみは、なにを知ってるんだ!」と叫んでゆすぶると、臣くんは舌打ちし、軽いもみ合いになった。

 そのとき、彼の襟元から、銀色のチェーンがこぼれ出た。

 その先に、細い銀の指輪が下がっているのを見て、背筋に戦慄が走った。

 

『クリスチーヌは、とっくに指輪をはずしてしまったわ』

 

 彼の胸で光っているのは、どこにでも売っているファッションリングだ。アクセサリーをつけている男子高校生なんて、今時珍しくもない。

 けど、まさか、そんなこと——。

 臣くんは、こぼれたリングを片手でぎゅっと握りしめ、底光りする目で、ぼくを睨みすえた。

「吠えるなよ。どうせ、あんたはなんにもできないんだ。あの間抜けなラウルと一緒さ」

 そうして、愕然と立ちつくすぼくに、憎しみのこもった、冷たい声で言ったのだった。

「なぁ[#「なぁ」に傍点]、ミウちゃん[#「ミウちゃん」に傍点]?」

「!」

 衝撃が心臓を貫き、この瞬間、見慣れた風景がぐにゃりとゆがんだような気がした。

 まるで何者かが支配する別の空間に閉じこめられたような混乱と恐怖が、黒い波のようにぼくを襲った。

 どうして彼が、ミウのこと——!

 ぼくが、井上ミウだって、知ってるのか!?

 そんなはずない。でも、今、確かに言った!

 ぼくが隠していた、あの禍々しい名前を、井上ミウの名を——!

 このぼくに向かって[#「このぼくに向かって」に傍点]!

 目の前に立っている少年が、得体の知れない不気味な生き物に見え、体中を悪寒が走り、足ががくがくと震えた。

 混乱し、怯えるぼくに、彼が冷ややかな眼差しで、とどめの言葉を放つ。

「ミウちゃんは[#「ミウちゃんは」に傍点]、ペンより重いものなんか持ったコトないんだよなぁ?」

 ぼくはよろめきながら後ずさり、そのまま背中を向けて、駆け出した。

 うろちょろするな[#「うろちょろするな」に傍点]。怪我をするぞ[#「怪我をするぞ」に傍点]。

 あんた一人じゃなくて[#「あんた一人じゃなくて」に傍点]、琴吹ななせも[#「琴吹ななせも」に傍点]。

 

 なぁ[#「なぁ」に傍点]、ミウちゃん[#「ミウちゃん」に傍点]。

 

 頭の中で、彼の声が、言葉が、響き渡る。

 ミウちゃん[#「ミウちゃん」に傍点]、ミウちゃん[#「ミウちゃん」に傍点]、ミウちゃん[#「ミウちゃん」に傍点]、ミウちゃん[#「ミウちゃん」に傍点]、ミウちゃん[#「ミウちゃん」に傍点]——。

 早く、早く、この声の届かないところへ、逃げなければ。

 牙をむいた天使に、噛みつかれる!

 

 家に帰り、自室のドアをしめても、動悸はおさまらなかった。

 頭が混乱し、整理がつかない。何故、臣くんは、ぼくにあんなことを言ったんだ? 中学の友達にもぼくが井上ミウだって、話したことはないのに。井上ミウの正体を知っているのは、家族と、出版社の人たちと、美羽くらいしかいないはずなのに。

 今にも、あの声が聞こえてきそうで、ぼくは夢中でヘッドホンをつけ、音楽を流し、ボリュームをあげた。そのままベッドに寝転び、頭を抱えて目を閉じる。

 彼は、何者なんだ。あの指輪は、水戸さんの指輪なのか?

 水戸さんは、彼のところにいるのか? それに、毬谷先生は——琴吹さんは——。

 ミウの名前を思い出さないように、必死に別のことを考ぇる。事件のこととか、ゆうべ読んだ『オペラ座の怪人』のこととか——。けれど、思考が、何度も同じ処をぐるぐる回り、同じシーンが再生され続ける。

 ラウルとペルシア人が、天使の仮面をかなぐり捨てたファントムに、残酷に追いつめられてゆく。

 ファントムは、クリスチーヌに自分の力を誇示し、彼女への狂的な執着をあらわにし、自分を愛するよう迫るのだ。

 

 ——わたしは顔を世間並みにしてくれる仮面を作った。もうみんな振り返りもしないだろう。おまえはこの世でいちばん幸せな妻になるんだよ。そしてわたしたちは二人だけで、死にたくなるほど歌うのだ。

 

 ——泣いているな! わたしを怖がっている!

 

 ——わたしは本当は悪人ではないんだ! わたしを愛してくれれば、おまえにもわかるだろう!

 

 ——愛してもらえさえすればわたしは善人になれるんだ[#「愛してもらえさえすればわたしは善人になれるんだ」に傍点]!

 

 ——おまえはわたしを愛していない! おまえはわたしを愛していない! おまえはわたしを愛していない!

 

 クリスチーヌの心が自分にはないと知ったファントムの怒りは、恋敵のラウルへと向かう。クリスチーヌはラウルを庇おうとするが、ファントムが作り上げた広大な地下の迷宮の中で、ラウルは翻弄され、追いつめられてゆく。ファントムの存在はあまりにも強く、圧倒的で、反撃するこどもままならない。

 

『どうせ、あんたは、なんにもできないんだ。あの間抜けなラウルと一緒さ』

 

 侮蔑に満ちた冷たい声が、くすくすという少女の笑い声とともに、頭に忍び込んでくる。

 

 ——ぼくがきみを彼[#「彼」に傍点]の魔力から救ってあげるよ、クリスチーヌ。誓うよ! だからきみはもう彼[#「彼」に傍点]のことなんか考えないで。それが必要なことだよ。

 

 誠意と情熱だけで、ファントムを倒すことなんて、できやしない。

 それに、クリスチーヌは、救われることを望んでいるのだろうか? もし、クリスチーヌが、ファントムとともに地下の帝国で女王として君臨することを選んだとしたら、ラウルは救われない。

 いつの間にか、ぼくはラウルになっていた。

 地下の闇の中を、逃げ回るぼくを、くすくすという笑い声が追いかけてくる。

 来ないでくれ。向こうへ行ってくれ! その声を、ぼくに聞かせないで!

 前方に、ほのかな灯りが浮かび上がる。あそこまで行けば!

 けれど、必死に辿り着いた先に立っていたのは、黒く長いマントに体を包み、顔を白い仮面で覆ったファントムだった。

 ふいに、笑い声が止んだ。

 凍りつくような静寂に包まれた闇の中、怯えるぼくの前で、ファントムがゆっくりと仮面をはずす。

 そこに現れたのは、ぼくがよく知っている女の子だった。

 

 美羽!

 

 悲鳴のような不協和音がとどろき、闇が砕け散ってゆく。

 きみが、ファントムだったのか!

 張り裂けそうな声で叫ぶぼくを指さし、美羽が冷たい瞳で告げる。

 

 いいえ[#「いいえ」に傍点]、ファントムはあなたよ[#「ファントムはあなたよ」に傍点]、コノハ[#「コノハ」に傍点]。

 

 頬にあたる携帯電話の振動で、ぼくは目覚めた。

 全身が汗でびっしょりで、前髪が額に張りついている。相手を確かめずに出ると、切羽つまった声が、耳に飛び込んできた。

「井上くん! 二回も留守電入れたんだよ!」

「森さん……? ゴメン。眠ってて聴いてない。なにかあったの?」

 森さんは、早口に叫んだ。

「ななせがいなくなっちゃったの。ななせのお母さんから連絡があって。黙って家を出ていったみたいで、携帯にかけても出ないの!」

 

[#中央揃え]◇    ◇    ◇

 

[#ここから太字]

 ああ、どうかラウルが来ませんように!

 ラウルが来たら、ファントムは、ラウルを殺してしまう!

 お願い、ラウルには手を出さないで。ラウルを傷つけないで。

 ラウルは、私たちとは違う。あたたかな太陽の下で生きるのに相応しい、優しく純粋な人なの。可愛くて、善良で、哀しみを隠して笑っている——切なくて、愛しくて、大好きな人なの、大事な人なの、愛しているの!

 彼と私が添い遂げることなんて、青い薔薇を作るように不可能なことだって、わかっている。

 青い薔薇は白い薔薇を染めた偽物の薔薇で、本物の青い薔薇は純粋な青には見えない。

 青い薔薇の花言葉は、�有り得ないこと�のままで、私たちの愛も、偽りの青い薔薇のようなものなのだと。けれども、たとえ幻想でも、私はラウルを愛しているの。

 どうか、来ないで。来ないで、ラウル。あなたが、ファントムの仕掛けた罠にからめとられ、闇に引きすり込まれ、血で染まるのは見たくない。

 来ないで。来ないで、ラウル。

 来ないでっっっ!

 

 ななせから、メールと留守電。

 着メロのクリスマスソングが、何度も鳴った。

 ななせは、とっても混乱して、泣いている。会いたいって言っている。帰ってきてって言ってる。どうしていいのかわからないって、なんでもするから、夕歌がいないとだめだから、帰ってきてって。帰ってきて、帰ってきて、帰ってきて。

 この世でただ一人、ななせだけは傷つけたくないのに。幸せに笑っていてほしいのに。穢れきった私と、穢れきった恋。穢れきった夢。穢れきった名前。

 だけど、ななせのことを思うとき、心が澄んでゆくような気がするから。今の私が望むのは、ななせの幸せだけ。

 なのに、ななせが泣いているのに、私は、ななせを慰めてあげられない。大事な、大事な、ななせが泣いているのに、抱きしめてあげられない。ふれることも、言葉をかけることもできない。泣いているのに。あんなに怖がつて、怯えて、傷ついて、ひとりぼっちで、泣いているのに。

 ——心臓が、裂けてしまう。

[#ここまで太字]

[#改ページ]



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