文学少女4:八章 じゃあ、行くね

发表于:2015-05-10 19:51 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-10 19:50~2015-05-31 02:30
地点: 南京
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知道了

八章 じゃあ、行くね

 

 週明けの月曜日。閉室時間を少し過ぎた頃、ぼくは遠子先輩と、図書室を訪れた。

 部屋は、寂しげな暗い夕日に染まっていた。

 カウンターの中は空っぽで、閲覧コーナーにも人影はない。耳をすますと、キィボードを叩くカチャカチャ……という音が、かすかに聞こえた。

 部屋の片隅にあるパソコンコーナーへ行ってみる。

 すると臣くんが、夕日を頬に浴びて、慣れた様子でキィを叩いていた。

 眼鏡が光っていて、表情がよくわからない。

「臣くん……」

 そっと声をかけると、キィを叩く手を止めて、ぼくらのほうを見た。

 その顔はとても静かで、落ち着いていた。ぼくらが会いに来ることを予測していたみたいだった。

「水戸さんは、どこにいるの? きみは、知っているんだろう?」

「三分、待って」

 臣くんは低い声でつぶやき、またキィを叩きはじめ、最後にエンターキィを押した。

 そうして、パソコンの電源を落として立ち上がり、眼鏡をはずした。

「ちょっと遠いけど、いいかな」

 

 電車を降りたところで、メールを打つ。そこからだいぶ歩いて辿り着いたのは、人気のない草むらに建つ古い工場だった。今は閉鎖され、使われていないのだと、臣くんが背中を向けたまま淡々と説明する。ぼくはそこでまた、メールを打った。

 雑草が生い茂る敷地には、ぼくらの背丈ほどのクリスマスツリーが一本だけあって、月の光に照らされていた。

 

 ——きみは今、どこにいるんだ。

 ——クリスマスツリーの中。そこがあたしの家なの。

 

 携帯での会話を思い出し、軋むような切なさが、胸の奥に広がってゆく。

 臣くんはツリーの前で立ち止まると、草の上にかがみ込み、そこに投げ出された電源にパチリとスイッチを入れた。すると、ツリーに飾られた星や、教会や、天使の羽根が、明るく輝いた。

「その下に……水戸さんが眠っているのね」

 遠子先輩が、哀しみのにじむ声でつぶやく。

 臣くんはうつむいたまま、乾いた声で答えた。

「夕歌はクリスマスツリーが好きだった。オレがここへツリーを運んできたときも、とてもはしゃいでいた。この飾りは全部、夕歌がつけたんだ」

 クリスマスツリーに住みたいと言っていた水戸さんの望みを、臣くんは、最後に叶えてあげたのだろう。

 淡々と語る彼の声は、学園にいるときの、くぐもった低い声とも、ホールで聴いた圧倒的な高音とも、電話で話したときの凜とした少女の声とも違っていて、女性のアルトに近い、中性的な不思議な声だった。

 一体、いくつの声を、彼は持っているのだろう。

 夕べ、自宅のパソコンで、昔、パリで、�天使�と呼ばれていた少年のことを調べた。

 年齢、出生、経歴、すべてが謎に包まれた、東洋人の少年は、数年前、教会の合唱団で歌っていたところをスカウトされ、たちまち人気者になった。

 輝くような声で奏でられる賛美歌は、神聖な響きに満ち、人々を天上の楽園へ誘う天使のようであると、誰もが絶賛し、心酔した。

 変声期を過ぎても高く透明なその声に、聴衆はただただ驚嘆し、天使は男装の少女ではないかと噂する人もいた。

 

 無性の天使——。

 

 いつか彼は、そう呼ばれるようになった。

 麻貴先輩が話していたのは、毬谷先生ではなく、臣くんのことだったのだ。きっとわざと紛らわしい言い方をしたのだろう。芸術の世界は、ときどきとんでもない化け物を生み出すと、麻貴先輩は言っていた。天使は、まさにそんな存在だった。

 男性でありながら、生まれながらに女性の声域を持つ歌い手をソプラニスタと呼び、裏声を使い女性の声域を出す男性歌手をカウンターテナーと呼び、少年期のソプラノを保つため去勢を施した男性歌手を、カストラートと呼ぶ。

 天使が、はたしてどれであったのかは、わからない。

 けれど彼は、ぼくらの前で奇跡のような歌声を響かせ、水戸さんの声を模写することまで、してのけた。

 よく聴けば、その声は水戸さんの声とは違っていたと、あとで琴吹さんが言っていた。

 話す速度や、ちょっとした癖をうまくつかんでいたこと、それにあの場の雰囲気が、まるで水戸さん自身がしゃべっているように、錯覚させたのだと思うと。

 ぼくが路地裏で聴いた何人もの笑い声、きっとあれも、彼の悪戯だったのだろう。

 一年の華々しい活動ののち、コンサートで自殺者を出し、天使は人々の前から忽然と姿を消した。

 天使の歌は、人を死へ導く破滅の歌——。そんな風評が流れ、天使の名は穢れた。

 それでも、その歌声を聴きたいと願う人たちは多かったが、天使が舞台に戻ることはなかった。やはりあれは少女だったのだという人も、熱狂的なファンに連れ去られたのだという人も、遅れて来た変声期が、その澄んだ歌声を奪ったのだという人もいた。

 真実は、数年を経た今も明かされていない。

 今、ぼくらの前で、孤独な眼差しでクリスマスツリーを見つめる彼は、眼鏡で素顔を隠した平凡な高校一年生の男の子とは別人のように、幻想的な雰囲気を漂わせている。

 本当は何歳なのだろう……。うつむいた横顔は意外なほど整っていて、少年のようにも少女のようにも、大人のようにも子供のようにも見えた。

 時を超えた、無性にして、無垢なるもの——そう、まるで天使のような……。

「ここで、いつも夕歌とレッスンをしていた」

 感情を押し殺した、硬い厳しい声で、臣くんが語る。

「……はじめは、関わるつもりはなかったんだ」

 まるで自分自身に腹を立てているように、小さく舌打ちする。

 出会った夜、水戸さんは、ヒールが片方折れたサンダルに、破れた服という出で立ちで、右の頬を赤く腫らし、この場所で泣きながら歌っていた。

 ひどい客にあたったようで、車から放り出されたらしい。

 哀しみに飲み込まれまいとするように、明るく幸せな歌を歌いながら、堪えきれず声をつまらせ、頬にこぼれる涙を、手の甲で幾度もぬぐいながら歌い続ける少女を、はじめは隠れて見ていた。けれど、彼女がいつまでも歌うのをやめないので、声をかけずにいられなかったのだと。

 

『そんな風に歌ってはダメだ。それじゃ喉が、いかれてしまう』

 

 草の香りのたちこめる夏。

 月明かりに照らされて、ふいに現れた彼を見て、水戸さんはひどく驚いた顔をしていたという。

 途切れた歌を、彼が続けて歌うと、水戸さんは目を見張って聴き入った。

 そうして、自分も彼の声にあわせて、歌いはじめたのだった。

 時折、彼が水戸さんに短いアドバイスをしながら、二人の合唱はずいぶん長い時間続いた。水戸さんの声は、彼の声に引き上げられるようにして、どんどん伸びてゆき、輝くような笑みが、水戸さんの顔いっぱいに広がった。

 彼も、楽しかった。

 人前で歌うことを封印してきた彼は、誰かと声をあわせて歌うことなんて、本当に久しぶりだったのだ。自分の声が、別の誰かの声と重なり合い一つに溶けあってゆくのが、嬉しくて楽しくて、いつまでも歌っていたい気分だった。

 朝が来ると、彼は水戸さんに服を用意し、名前を告げることも、約束をすることもなく去った。

 他人と交流を持つつもりは彼にはなかったし、なんの期待もしたくなかった。

 なのに水戸さんは、次の夜も、また次の夜も、その次の夜も、彼のもとへやってきて、レッスンをしてほしいと頼んだのだ。

 彼が名前を教えないと、『じゃあ、�天使�と呼ぶからいいわ。�オペラ座の怪人�の、音楽の天使のことよ。それが嫌なら名前を教えて』と、笑いながら言った。

 彼は意地を張って名乗らずにいたので、�天使�が、彼の名前になった。

 そう呼ばれるのは苦痛でしかなかったはずなのに、水戸さんに澄んだ声で『天使』と呼ばれるのは、心地がよかった。

 根負けした彼の指導を受けて、水戸さんの声はどんどん変わっていった。技術的な面よりも、心が解放されたことが大きかったのかもしれない。

 歌っているとき、水戸さんはいつも楽しそうで、生き生きしていた。

 水戸さんは、彼にいろんな話をした。

 親友の琴吹さんのこと、恋人の毬谷先生のこと、好きな本のこと、将来の夢のこと——楽しいことばかりではなく、辛いことも、すべて彼に打ち明け、

『あたしは、椿姫のように道を踏み外してしまったのかな。いつかヴィオレッタみたいにすべてを失ってしまうのかな』

 と、寂しそうにつぶやき、

『けど、仕方ないね。家には毎日借金取りの人たちが来るし、お父さんは会社にいられなくなっちゃったし、弟を高校に進学させたかったんだもん。あたしは、あたしにできることをするしかなかったんだから。……そう、仕方がないよ。今は歌えるだけで幸せ』

 そう言って、笑っていた。

『敬一さんや、ななせを騙してるのは辛いけど、昼間のあたしは、これまでとなにも変わらない元のあたしなんだって、思っていたいんだ。夜のことは全部悪い夢で、目がさめているときのあたしが、本当のあたしなんだって』

 そう言ったあとで、急に哀しそうな顔になり、

『けど最近は、夜のあたしが本当のあたしで、昼間のあたしが幻想なんじゃないかって気がするときがある』

 と、つぶやいた。

「オレは、歌うことをやめた人間だけど……夕歌は、本当に歌が好きだった。とてもいい子で、才能もあったから、自分のように闇に身を潜めて、人から隠れて暮らすような生きかたはしてほしくなかった。日の当たる場所で成功してほしかった」

 クリスマスツリーに灯るほのかな灯りを見つめ、水戸さんとの思い出を、静かに語り続ける臣くんの声にも、横顔にも、大切なものを失ってしまった人間の哀しみと孤独がにじんでいる。

 長い間、一人でいた臣くんにとって、水戸さんは光とぬくもりをもたらしてくれた人だったのかもしれない。

 そう、闇の中で、一本だけ輝く小さなクリスマスツリーのように。

 水戸さんは、臣くんの希望だったのではないか。

 二人がここで、どんな時間を過ごしたのか。どんな話をしたのか。それを想像すると、どうしようもなく胸が震え、まぶたと喉が焼けるように熱くなり、ひりひりと痛んだ。

 遠子先輩も、ぼくと同じ想いを感じているのだろう。目をうるませ、哀しそうに唇を結んでいる。

 水戸さんが、異様なほど歌にのめり込むきっかけになったのは、家族の死の知らせだった。過酷な現実を忘れようとするように、水戸さんは歌い、同時に、成功を強く求めるようになったという。

 副理事長の堤を脅し、発表会で主役を勝ち取り、稽古に明け暮れた。祖先の姫の怨みをはらそうとするトゥーランドットを演じる水戸さんは、まるで自分に苦しみを与えた世界に対して絶叫しているように見え、臣くんは不安だった。

 そんな中、悲劇は起きたのだ。

「……あの夜、夕歌はぼろぼろに傷ついて、ここへ現れた。首に、絞められた痕が紫に浮き上がっていて、頭にも怪我をしていた。客とトラブルがあったとしか、夕歌は話さなかったし、はじめは元気そうに見えた。けれど、だんだん様子がおかしくなって……翌朝、息を引き取ったんだ」

 遠子先輩が、憂いを含んだ眼差しで臣くんを見つめ、つぶやく。

「それであなたは、水戸さんのお客さんたちに、椿の名前で、チケットを送ったのね? そうやって、あの場所へ犯人を導いたのね」

「……そんなことしなくても、夕歌の態度から……だいたい予想は、ついていたんだ」

 臣くんの声が掠れ、痛みに堪えるように、手をぎゅっと握りしめた。

「夕歌が、誰かを庇うとしたら、あいつしか考えられなかったから……」

 唇を噛み、じっと空を睨んでいる臣くんを見て、胸が裂けそうになる。

 水戸さんの遺体をツリーの下に隠した臣くんは、毬谷先生の周辺を、細かく調べはじめた。先生の動向を見守りながら、込み上げてくる疑惑を、きっと幾度も否定したのだろう。どうか犯人は別の人間であってほしいと、必死に願ったのだろう。

 なによりも水戸さんのために、毬谷先生が犯人とは信じたくはなかったのだろう。

 けれど、彼の望みは、叶わなかった。

 水戸さんは、最愛の人の手で殺されたのだ。そして、恋人を庇ったまま死んでいった。

「夕歌は亡くなったあとも指輪を離さなかったから、オレは夕歌の手首を切り落として、無理矢理、指輪を取り上げたんだ。復讐の誓いのために……」

 感情を表に出すまいと、臣くんは必死に耐えているようだった。

 遠子先輩が、優しい声で尋ねる。

「水戸さんの携帯から、ななせちゃんにメールを送り続けていたのは、ななせちゃんに、心配をかけたくなかったからね」

 表情を見られまいとするように、臣くんが顔をそむける。

「急に連絡が途絶えて、ななせが夕歌の家へ訪ねてきたら困るから……」

 後ろで、かさりと草を踏む音がした。

 多分、琴吹さんだ。ぼくが送ったメールを読んだのだろう。駅から遠いので、タクシーを使うよう打っておいた。

 今日、琴吹さんは熱を出して学校を休んだのだ。昼休みに電話をすると、ごめんなさいと謝っていた。熱も引いたので、明日はちゃんと登校するからと。

 そっと振り返ると、建物の陰に、息を切らし頬を紅潮させた琴吹さんが、泣きそうな目をして立っていた。

 臣くんは、気づかずに話を続けている。

「あのとき、ななせが毬谷の方へ歩き出していなかったら——夕歌の指輪を見て、毬谷が涙をこぼしていなかったら——きっと、毬谷の喉を切り裂いて殺していた。そんなこと夕歌は望んでないとわかっていても、やっていただろう。ななせが……止めてくれた」

 あのときの真っ暗な絶望を、どうにもならない閉塞感を、ぼくもまた、灼けるような痛みとともに思い出す。

 決して、わかりあうことのない、永遠の平行線。

 傷つけあうためだけに、ぶつけあう言葉の礫。

 あの絶望的な状況を覆したのは、琴吹さんのまっすぐな想いだった。

 

『ななせを、巻き込まないで』

『井上くん、あなたはななせだけ見てればいいの』

 

 臣くんが唇を噛みしめ、うつむく。

 水戸さんが大切にしていた親友を、彼もまた、守りたかったのだろう。

 水戸さんのフリをし、電話をかけてきたのも、ぼくに厳しくあたったのも、琴吹さんを心配していたから……。きっとぼくが頼りなく見えて、苛立っていたのだろう。

 臣くんが、ぎこちなく視線をあげ、不器用そうな硬い眼差しで、ぼくを見る。

「……偽善者って言ったの、悪かったな。……ななせを支えてくれて、ありがとう」

 その言葉に、胸が震えた。

「支えてもらったのは、ぼくのほうだよ」

 張りつめていた瞳が、少しだけ気弱になり、寂しそうな影が浮かぶ。

 今のは別れの挨拶だったのだろうかと気づき、ぼくはハッとした。

「きみは、このあとどうするの?」

 臣くんがまた急に厳しい顔になり、視線をすっとそらす。

「どこか別の場所へ行く。今までもずっと、そうやって旅を続けてきたから」

「学校は?」

「辞める。あそこにいたのは、�契約�を結んでいたからなんだ。それも終わったから」

 遠子先輩が尋ねる。

「契約って……麻貴と?」

「それは答えられない」

 毅然と言い捨てる彼が、いろんなことを諦め、絶望しているような気がして、胸が締めつけられて、ぼくは言った。

「どうして行かなきゃならないんだ? ここにいちゃいけないのか? きみは自由なんだろう? だったら、この場所で、これまでどおり暮らせるんじゃないのか?」

「無理だ……。オレのマネージメントをしていた養父母が、今もオレを必死に捜させている。まだオレに、商品価値があると思っているんだろう。ひとつの場所に、長くとどまるのは、危険すぎる」

「なら、ずっと隠れながら生きていくの? もう、みんなの前では歌わないの?」

 ツリーの灯りに淡く照らされた孤独な横顔を、泣きそうな気持ちで、見つめる。

 

 彼は、ぼくに似ていた。

 

 輝かしい賞賛の中にありながら、突然に人々の前から姿を消した、少女の声を持つ少年。

 一冊のベストセラーを出版して書くことをやめた、少女の名を持つ小説家だったぼく。

 まるで自分の姿を見るようで、切なくなる。

 臣くんは顔を上げ、暗く哀しそうな目でぼくを見た。

「井上ミウは、二作目を書くと思うか?」

 心臓を貫かれたようだった。

 ぼくは、二度と、小説は書かない。

 作家にだけは、絶対にならない。

 二年前、泣きながらそう誓った。

 何故、臣くんがぼくの秘密を知っているのか、わからない。もしかしたら、ぼくのことも調べたのかもしれない。

 けど、ぼくが胸に抱いている共感を、きみも感じてくれていたのだろうか。

 ぼくらは似ていると。

 だから逆に、ぼくに問いかけたのだろう。ミウは二作目を書くかと。

 ぼくが答えられないことを、きっと彼はわかっていたのだろう。

 そして、それが自分の答えだと、伝えたかったのだろう。

 

 天使は、もう、歌わない。

 

「歌は、オレを幸せにはしてくれなかった」

 寂しそうにつぶやくその言葉に、心が切り裂かれる。

 小説は、ぼくに災いをもたらしただけだった。ぼくは虚構の自分に苦しみ、美羽を失った。井上ミウという名前は、美しい名前のはずだったのに——いつか醜く穢れ、ぼくに痛みと後悔しか与えない名前になってしまった。

 哀しみが、川面にたつ波紋のように、胸の底に広がってゆく。

 口元に自嘲的な笑みを浮かべて、臣くんが言う。

「毬谷は、たとえ化け物でも、ファントムでありたかったと言っていた。けどオレは、ずっとラウルになりたかった」

 それは、彼の心からの願いだったのだろう。

『オペラ座の怪人』の中で、ファントムも言っていた。もう、人並みでないことをするのは疲れたと。

 

 ——これからはわたしも人並みの生活をしたい。

 

 ——一人並みに妻をもらって、日曜には一緒に散歩に出かけたいのだ。

 

 ——わたしは顔を世間並みにしてくれる仮面を作った。もうみんな振り返りもしないだろう。

 

 華やかなオペラ座の地下に、自分だけの帝国を築き、そこで歌い、ピアノを弾き、曲を作りながら、醜いファントムは、昼の世界であたりまえに暮らすことを、夢見ていた。

 誰も、彼の本当の名前を呼んでくれない、一人きりの暗闇の中で……。

 この物語は、最後まで読まなければいけないと、遠子先輩は言った。

 そうでなければ、物語の真実を知ることはできないからと。

 哀しそうな表情で黙り込んでいた遠子先輩が、そのとき口を開いた。

「そうね。ラウルであることは、どんなに幸せで、素晴らしいことかと、わたしも思うわ」

 臣くんが、遠子先輩を見つめる。

 遠子先輩は、澄んだ眼差しで臣くんを見つめ返していた。吹きはじめた風が、長い三つ編みをかすかに揺らしている。

「『オペラ座の怪人』は、残酷なお伽話なの。醜い顔を仮面の下に隠した男が、不幸な境遇にある少女に恋をし、少女は彼の魔法で、お姫様に変身するわ。けれど少女が愛したのは、若く美しい王子だった。

 クリスチーヌは、決してファントムを選ばない。

 たとえそれが、醜くさえなければ、�人類のなかで最も気高い一人となりえただろう�人物であっても——素晴らしい才能を秘めた、同情すべき人物であっても——クリスチーヌは、最後に、ラウルを選ぶの」

 切ない声が、冷たい風の中に散ってゆく。

 臣くんは辛そうな表情で、遠子先輩の言葉を聞いている。

「『オペラ座の怪人』というのは、そういう物語なのよ。

 けど——だからこそ、この物語は哀しみにあふれていて、美しいわ。

 暗く退廃的な美に彩られたゴシック小説が、ファントムが見せた真実によって、最後の最後に、胸が震えるような、透明な物語に変わってゆく——。

 まるで、ねっとりと舌にまとわりつく濃厚なフォアグラが、華箸なグラスに注がれた冷たいペリエによって、一瞬にして洗い流され、清められ、高められるように」

 淡い月の光が、遠子先輩のほっそりした体や、小さな顔を、青く照らしている。

 何故、遠子先輩は、こんなに哀しそうな目をしているのだろう。

 まるで消えてしまいそうな幻に語りかけるように、眉を下げ、必死な眼差しで——。

「『オペラ座の怪人』は、ルルーの作品の中では、密室の名作と言われた『黄色い部屋の謎』ほどの評価は得られなかったわ。推理小説としては荒唐無稽で粗も多く、文学作品としては大衆的すぎるって。

 けれど、ルルーはこの物語で、ファントムという忘れられない人物を、創り出したわ。

 物語を読み終えたとき、多くの人たちは、ファントムの哀しみに胸を打たれ、彼が歩んできた道がどんなものであったのか、物語の中に残された手がかりを頼りに、考えずにいられない。そして、どんな形であれ、彼が救われるよう願ってしまうのよ。物語を読み終えたとき、ファントムは、現実に存在していた人間のように感じられるわ。

 クリスチーヌは、ファントムを選ばない。

 だけど、読者はファントムを忘れない。

 ファントムの嘆きを、ファントムの生を、ファントムの愛を、忘れないわ。

 仮面を取り払った醜いファントムをこそ、愛するわ」

 うるんだ瞳で語り続ける遠子先輩は、すべてを失い、去ってゆこうとしている臣くんに、なにかを贈りたかったのかもしれない。

 彼がこの先、独りで寂しくなったときに、心をあたためてくれる、小さな灯りのような言葉を——。

 時間が許す限り、精一杯、思いを込めて——。

「ねぇ、本当にたくさんの人たちが、『オペラ座の怪人』を読み、ファントムを愛してきたのよ! これまで、この本を題材にした映画や舞台や、二次創作が、数えきれないほど作られたわ。ファントムに対して様々な考察がされて、中には仮面をつけていない金髪美青年のファントムまでいるわ。

『ジャッカルの日』で有名な、イギリスの人気作家フレデリック=フォーサイスは、『マンハッタンの怪人』の中で、アメリカに渡ったファントムの、その後の物語を書いたし、女流作家のスーザン=ケイは、原作でほんのわずかしか語られなかったファントムの生い立ちや、オペラ座に住み着くまでの経緯を、細やかな愛情と豊かな想像力で、あざやかに描き出したわ。彼女の著作『ファントム』は、ぜひ読んでほしい傑作よ。

 一冊の本から生まれたファントムという人物が、新しい命を得て、世界に広がり、新しい読者が生まれ、想像が生まれ、また別の物語が生まれていったの。みんなの想像が、ファントムをよみがえらせたのよ。

 それほどファントムは愛されているし、これからだって愛され続けるわ。ファントムにも、この物語にも、それだけの魅力がある。でもね——」

 遠子先輩がきゅっと手を握りしめ、眉を下げ、力を込めて叫ぶ。

「それは、『オペラ座の怪人』を最後まで読まなければ、わからないのよっ!」

 臣くんは、遠子先輩の勢いに目を見張った。

 風が、ざわざわと草木を揺らす。

 遠子先輩は、切羽詰まった泣きそうな顔をしていた。澄んだ声が、静かで切ない音楽のように流れてゆく。

「わたしは本が大好きで、本を読むことで、たくさんの幸せをもらったし、慰められたし、癒されたわ。

 どんな物語も、わたしは必ず最後まで読んで、味わうわ。けど、たまに思うの。この物語が、ここで突然、終わってしまったら、どうなってしまうのかしらって。

 例えば、作者が、書くことをやめてしまったらって——。

 それを想像すると、哀しくて、苦しくて、胸が潰れそうになるのよ。

 もし、ガストン=ルルーが、『オペラ座の怪人』を途中で終わらせていたら、ファントムは醜い怪物のままだったわ。ラウルもクリスチーヌも救われない」

 戸惑う臣くんを、黒く濡れた瞳でじっと見上げると、遠子先輩は、祈るようにつぶやいた。

「あなたも、あなたの物語を、書き続けて。

 それを、あなたの歌を待っている人たちに、読ませてあげて」

「!」

 臣くんが息をのむ。

 遠子先輩が、熱のこもった真剣な声で訴える。

「歌は、あなたを幸せにしなかったかもしれない。けれど、あなたの歌を聴いて幸せになった人たちは、大勢いるわ。そうでなければ、あなたは�天使�だなんて呼ばれていない。ファントムが、たくさんの読者に愛されたように、あなたも聴衆に愛されている。あなたが、気づいていないだけ——いいえ[#「いいえ」に傍点]、耳をふさいで気づこうとしないだけよ[#「気づこうとしないだけよ」に傍点]」

 臣くんの顔に、激しい衝撃が走るのを、ぼくは見た。

 

『あんたみたいなやつは、気づかないんじゃなくて、知りたくないだけなんだ』

 

 あの言葉が今、彼自身に、跳ね返ってゆく。

「あなたの歌には、人を幸福にする力がある。水戸さんもきっと、あなたの歌に救われていたわ」

「違うっ!」

 荘然と立ちつくしていた臣くんが、顔をゆがめ、叩きつけるように叫んだ。

「夕歌は、救われてなんかいなかった! オレに会わなければ——オレが夕歌に、歌を教えたりしなければ——夕歌は毬谷に憎まれて、殺されずにすんだはずなのに!」

 それまで必死に押し殺してきた感情が爆発したかのように、狂おしい目をし、こぶしを硬く握りしめ、頬を紅潮させ、唇を震わせる。

「毬谷が、パリで�天使�の歌を聴いてたなんてっ、あんな風に�天使�を恨んでいたなんて——手首を切るほど追いつめられていたなんて——知らなかったっ! 夕歌の声に、オレの——天使の声を、重ねていたなんてっっっ——オレが夕歌を、破滅させたようなものだ!」

 彼が感じている痛みや、苦しみや、後悔が、胸に突き刺さる。

 なんて悲痛な叫びなのだろう。なんて、哀しい声なのだろう。

 毬谷先生が、天使を憎む言葉を吐き散らしたとき、彼は仮面の下で、こんなにも傷つき、絶望していたのだ!

 遠子先輩が、凛とした声で訴える。

「あなたが、水戸さんの死に責任を感じて哀しんでいる気持ちはわかるわ。けど、間違えないで。あなたに会ったとき、水戸さんは、椿として、心を削りながら働いていたのよ。水戸さんが亡くなったのは、あなたのせいじゃない。それどころか、あなたの歌に出会ったことで、水戸さんは辛い毎日の中で、安らぎを得たのよ」

 臣くんが、首を激しく横に振る。

「違うっ、違うっ! オレが余計なことをしなければ、夕歌はあんな風に惨めに死ぬことはなかった! 毬谷の言うとおり、オレが夕歌を惑わして、地下の闇に引きずり込んだんだ。きっと夕歌も、心の中ではオレを恨んでた」

「本当に!?」遠子先輩が厳しい顔つきで、問いかける。「本当に、水戸さんは、あなたを恨んでいたの? あなたが自責の念に囚われて、そう思い込もうとしているだけじゃないの?」

「そうじゃない。そんなんじゃ——」

「ならば、水戸さんが亡くなったときのことを話して! 水戸さんとあなたは、最後にどんな話をしたの?」

 臣くんが唇を噛み、苦しそうに黙り込む。思い出すだけで、辛くてたまらないのだろう。目をぎゅっと閉じてしまう。ぼくの胸も、裂けそうだった。

 建物の陰で、琴吹さんが息を潜めるようにして、臣くんを見つめている。琴吹さんの顔も、こわばっている。

「……お願い、教えて」

 遠子先輩が静かに、けれど逃げを許さない真剣な口調で言う。

 臣くんが、びくっとし、痛みを堪えるように薄く目を開ける。幾度も迷うように唇を噛み、足元を見つめ、掠れた声で語り出した。

「……あの夜、夕歌は、不自然なほどはしゃいでいた……。オレが、怪我をしているのだから休んだほうがいいと言ってもきかずに、発表会が近いのだから、レッスンをしなければと、明るく言い張った。

 きっと素晴らしい舞台にするのだと………。

 夕歌の声は、普段より伸びがよくて、安定しているようだった。夕歌も、今日は朝まで歌っていたい気分だと、笑っていた……。はじめて会った夜のように、夕歌は、歌うことですべてを忘れようとしていたのかもしれない……。

 放っておくと、本当にいつまでも歌い続けそうだったので、無理矢理|休憩をとらせた。草むらに座って、ツリーを見ながら、『あたしたちのツリーは、ホントに可愛くて素敵ね』と、夕歌は言っていた。そんな他愛のない話をしていたら、夕歌が急に肩にもたれかかってきて、甘えるように言ったんだ。

『ねぇ、敬一さん[#「敬一さん」に傍点]。今年のイブも、去年みたいに、楽しく過ごせるといいね』」

 臣くんの声が震え、途切れた。

「夕歌は——オレを、毬谷と思って話していたんだ」

 絶望に満ちた告白に、ぼくは息をのんだ。

「それから? どうしたの?」

 遠子先輩が揺るがない瞳で、問いかける。

「……っ、夕歌の様子がおかしいことに気づいても、オレは、どうすることもできなかった。夕歌が……あんまり、嬉しそうで」

「そのまま、毬谷先生として会話を続けたのね?」

「……ほとんど夕歌が一人でしゃべっていた。イブは、敬一さんのお部屋で、パーティーをしようねとか、お料理は任せてねとか、なにが食べたい? とか。なかなか会えなくてゴメンねとか……。指輪、いつも身につけてるよとか……」

 胸が、切り裂かれるような痛みに震える。

 どんな気持ちで、水戸さんの言葉を聞いていたのだろう、彼は。

 なすすべもないまま、どんな気持ちで……。

 そのあと、水戸さんは琴吹さんの家に、携帯で電話をかけたという。琴吹さんが最後に水戸さんと話したとき、水戸さんを抱きしめていたのは、毬谷先生ではなく、臣くんだったのだ。

 

 ——今、彼と一緒なの。クリスマスツリーが、とっても綺麗で、彼が抱きしめてくれるから、あったかいの。ねぇ、ななせも早く彼を作らなきゃ。そしたら四人でダブルデートをしよう。きっと、楽しいだろうねぇ。

 

 琴吹さんが、嗚咽を堪えるように目をぎゅっと細くし、唇を噛む。

 臣くんは、表情を見られまいとするように顔をそむけた。

「それから?」

 遠子先輩が、優しく続きをうながす。

「……っく、電話を切って、ななせは、可愛いね……ななせの恋がうまくいくといいね……ななせが——……っく、ななせが——井上ミウの小説みたいに、幸せだといいね……って——」

 ぼくの心臓が、大きく音を立てた。

 

 井上ミウの小説のように、幸せに——!

 

 水戸さんが、そんなことを!?

 臣くんの口から、ミウのことが次々語られる。水戸さんが、敬一さんも読んでみてと、勧めたこと。ミウの小説は、優しくて、純粋で、あたりまえで、大切で、ホッとするのだと。樹も羽鳥も、可愛くて大好きなのだと——。

 

 ——ねぇ、約束よ。ミウを読んでみてね。一番大好きな小説なの。ミウの本を読んでいる間は、辛いことも忘れられるのよ。

 

 ぼくは——ぼくは今まで、ぼくの本を読んで、なにかを感じてくれる人がいるなんて、考えたこともなかった。

 顔も知らない誰かが、会ったこともない誰かが、ぼくの本を、好きになってくれるなんて——。

 頭が熱くなり、説明のできない気持ちが、喉いっぱいに込み上げてくる。

 琴吹さんは両手で顔を覆い、草の上にしゃがみ込んで、肩を震わせていた。

 遠子先輩が、月の光のように澄んだ声で尋ねる。

「それから? あなたは、どうしたの?」

 臣くんも震えていた。うつむき、唇を噛み、必死に言葉を絞り出す。

「夕歌が、賛美歌を歌ってって——言ったんだ。どうしても、今、聴きたいって……お願いだから、歌ってほしいって……。すごく澄んだ目で……だから——だから——」

「歌ってあげたのね、あなたは」

 優しい声で、ささやく。

「とっても、いいことを、してあげたわね」

 臣くんの顔が、くしゃりとゆがむ。目の縁ににじんだ涙を、慌てて手の甲でこする。

「二度と、歌わないつもりだったんだっ。オレの賛美歌を聴いて、たくさん、人が死んだからっ。だから、もう絶対、歌わないって——でも、もう、夕歌に会えない気がして、最後の頼みのような気がして——オレは、歌ったんだ! 夕歌は目を閉じたまま、動かなくなった。次の朝、心臓が止まっていた! いくら呼んでも目を覚まさなかったっ! オレが歌ったから、夕歌は、死んだんだっ!」

「違うわっ!」遠子先輩が、激しく叫ぶ。「ちゃんと思い出して! 水戸さんが、あなたの歌を聴きながら、どんな顔をしていたのか——!」

 臣くんが首を横に振る。

「思い出して! 水戸さんの目を、唇を、吐息を——。最後の瞬間、なにをあなたに伝えたのかをっ!」

 遠子先輩は問いを発することをやめない。耳をふさぐ臣くんに、長い三つ編みを揺らし、月光に照らされ、厳しく、激しく——まるで、イブの夜、金貸しのスクルージの前に現れた『クリスマス・キャロル』の精霊たちのように、彼の心を覆う鎧を打ち壊し、真実を引き出そうとする。

「ねぇ、あなたが見た水戸さんの物語を、わたしたちに教えて! 自分から、水戸さんとの思い出を穢さないでっ!」

 臣くんがうつむいたまま、両手をぎゅっと組み合わせる。彼が見た真実……。それが、今、彼の口から明かされる。

「——夕歌は……っ、オレの胸にもたれて、手に指輪を握りしめて……目を閉じて……微笑んでいたっ。オレが歌っている間、ずっと……っ。そうして、ああ、綺麗だね……敬一さんって。……っく、本物の天使が、歌ってるみたいって……。それから——」

 声がつまり、しゃくりあげる。

 ささやくような小さな声が、水戸さんの最後の言葉を語る。

「幸せだね……って」

 そのとたん、臣くんの目から大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。組んだ手を口に押しあて、顔を伏せたまま、彼は子供のように激しく泣きじゃくった。

 

 ——幸せだね。

 

 そう言って、微笑んで、水戸さんは逝ったのだ。

 天使の歌声に包まれて、目を閉じて、安らかな幸福のうちに。

「それが、水戸さんの�真実�よ」

 長く苦しかった物語を、最後の瞬間、清らかな優しい光に満ちた祈りの物語に変える言葉を�文学少女�が、そっと伝ぇる。

 琴吹さんが立ち上がり、駆け出した。

 臣くんの手をつかみ、両手で包むようにして持ち上げると、臣くんは驚いたように顔を上げた。

「!」

 涙で濡れた目を見開く彼を、琴吹さんも赤い目で見つめ返す。

 それから、組み合わされた彼の手の上に、口づけを落とした。

 ファントムの額に口づけた、クリスチーヌのように——。

「夕歌に、優しくしてくれて、ありがとう」

 ぐちゃぐちゃに泣きはらした顔で、一生懸命微笑む琴吹さんを見て、臣くんの目から、また涙がこぼれる。弱々しい眼差しで琴吹さんを見つめ、その耳元に顔を寄せた。

 臣くんは、なにかささやいたようだった。

 琴吹さんが、びくっとし、またすぐ泣き出しそうな表情になる。

 琴吹さんからすっと離れ、手の甲と腕で乱暴に涙をぬぐうと、臣くんは、すべてを振り切るように精悍な顔つきになり、歩き出した。

 擦れ違いざま、呼び止めようとするぼくに、小さな声でつぶやく。

「ななせを、よろしく」

 そうして、目を涙でいっぱいにして震えている琴吹さんを残して、張り裂けそうな気持ちで立ちつくすぼくを残して、祈るような澄んだ瞳で見送る遠子先輩を残して、一度も振り返らず、闇の中に消えていった。

 

 ぼくらが、天使を見たのは、それが最後だった。

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