1Q84上:第11章 青豆 肉体こそが人間にとっての神殿である

发表于:2015-05-10 22:23 [只看楼主] [划词开启]
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第11章 青豆

      肉体こそが人間にとっての神殿である

 

 

 青豆ほど睾丸の蹴り方に習熟している人間は、おそらく数えるほどしかいないはずだ。蹴り方のパターンについても日々研鐙を積み、実地練習を欠かさなかった。睾丸に蹴りを入れるにあたって何よりも大事なのは、ためらいの気持ちを排除することだ。相手のいちばん手薄な部分を無慈悲に、熾烈に電撃的に攻撃する。ヒットラーがオランダとベルギーの中立国宣言を無視し躁躍することによって、防衛線の弱点を衝き、簡単にフランスを陥落させたのと同じことだ。躊躇してはならない。一瞬のためらいが命取りになる。

 一般的に言って、それ以外に女性がより大柄で力の強い男性を、一対一で倒す方法はほとんどないと言ってもいい。それが青豆の揺らぎない信念だった。その肉体部分が、男という生き物が抱えている——あるいはぶら下げている——最大の弱点なのだ。そして多くの場合、それは有効に防御されていない。そのメリットを利用しない手はない。

 睾丸を思い切り蹴り上げられる痛さがどのようなものか、女である青豆にはもちろん具体的には理解できない。推測のしようもない。しかしそれが相当な痛みであるらしいことは、蹴られた相手の反応や顔つきからおおよその想像はついた。どれほど力の強い男も、タフな男も、その苦痛には耐えられないようだった。そしてそこには自尊心の大幅な喪失が伴われているようでもあった。

「あれは、じきに世界が終わるんじゃないかというような痛みだ。ほかにうまくたとえようがない。ただの痛みとは違う」、ある男は青豆に説明を求められたとき、熟考したあとでそう言った。

 青豆はその類比についてひとしきり考えを巡らせた。世界の終わり?

「じゃあ逆の言い方をすれば、じきに世界が終わるというのは、睾丸を思い切り蹴られたときのようなものなのかしら」と青豆は尋ねた。

「世界の終わりを体験したことはまだないから、正確なことは言えないけど、あるいはそうかもしれない」と相手の男は言って、漠然とした目つきで宙を睨んだ。「そこにはただ深い無力感しかないんだ。暗くて切なくて、救いがない」

 青豆はそのあとたまたま『渚にて』という映画をテレビの深夜放送で見た。一九六〇年前後につくられたアメリカ映画だ。アメリカとソビエトとのあいだで全面戦争が勃発し、大量の核、、、サイルがトビウオの群れのように大陸間を盛大に飛び交い、地球があっけなく壊滅し、世界のほとんどの部分で人類が死に絶えてしまう。しかし風向きか何かのせいで、南半球のオーストラリアだけにはまだ死の灰が到達していない。とはいえそれがやってくるのは時間の問題である。人類の消滅は何をもってしても避けられない。生き残った人々はその地で、来るべき終末をなすすべもなく待っている。それぞれのやり方で人生の最後の日々を生きている。そんな筋だった。救いのない暗い映画だった(しかし、それにもかかわらず、誰もが心の奥底では世の終末の到来を待ち受けてもいるのだと、青豆はその映画を見ながらあらためて確信した)。

 いずれにせよ、真夜中に一人でその映画を見ながら、青豆は「なるほど、睾丸を思い切り蹴られるというのは、こういう感じの心持ちなのか」と推測し、それなりに納得した。

 

 青豆は体育大学を出てから四年ばかり、スポーツ・ドリンクと健康食品を製造する会社に勤め、その会社の女子ソフトボール部の中心選手(エース投手にして四番打者)として活躍した。チームはまずまずの成績をおさめ、全国大会のベスト・エイトにも何度か入った。しかし大塚環が死んだ翌月に、青豆は会社に退職願を出し、ソフトボール選手としてのキャリアに終止符を打った。それ以上ソフトボールという競技を続ける気持ちにはどうしてもなれなかったからだ。生活も思い切って一新したかった。そして大学時代の先輩の口利きがあって、広尾にあるスポーツ・クラブにインストラクターとして就職した。

 スポーツ・クラブでは主に筋肉トレーニングと、マーシャル・アーツ関係のクラスを担当した。高い入会金と会費をとる、有名な高級クラブで、有名人の会員も多い。彼女は女性のための護身術のクラスをいくつか立ち上げた。それは青豆がもっとも得意とする分野だった。大柄な男性を模したキャンバス地の人形をつくり、股の部分に黒い軍手を縫いつけて睾丸のかわりにし、女性メンバーに徹底してそこを蹴る練習をさせた。リアリティーを出すために、軍手にスカッシュのボールを二個詰めることもあった。それを迅速に、無慈悲に、繰り返し蹴りあげる。多くの女性会員はその訓練をことのほか楽しんだし、技術も目に見えて向上したのだが、中にはその光景を見て眉をひそめる人々もいて(その多くはもちろん男性会員だった)、「あれはいくらなんでもやりすぎじゃないか」という苦情がクラブの上の方に持ち込まれた。その結果、青豆はマネージャーに呼ばれ、睾丸を蹴る練習は控えるようにという指示を受けた。

「しかし睾丸を蹴ることなく、女性が男たちの攻撃から身を護ることは、現実的に不可能です」と青豆はクラブのマネージャーに向かって力説した。「たいてい男の方が身体も大きいし、力が強いんです。素早い睾丸攻撃が女性にとっての唯一の勝機です。毛沢東も言っています。相手の弱点を探し出し、機先を制してそこを集中撃破する。それしかゲリラが正規軍に勝つチャンスはありません」

「君も知ってのとおり、うちは都内でも有数の高級なスポーツ・クラブだ」とマネージャーは困った顔をして言った。「メンバーの多くはセレブリティーだ。すべての局面において、我々は品位を保たなくてはならない。イメージが大事なんだ。妙齢の女性が集まって、奇声を発しながら人形の股ぐらを蹴り上げる練習をするのは、理由がどうであれいささか品位に欠ける。入会希望者が見学に来て、たまたま君のクラスの様子を目にして、それで入会をやめた例もある。毛沢東がなんと言おうが、ジンギス・カンがなんと言おうが、そういう光景は多くの男性に不安や苛立ちや不快感を与えるんだ」

 男性会員に不安や苛立ちや不快感を与えることについては、青豆は毛ほども後ろめたさを感じなかった。力ずくでレイプされる側の痛みに比べたら、そんな不快感などとるに足らないものではないか。しかし上司の指示に逆らうわけにはいかない。青豆の主催する護身術のクラスは、攻撃度のレベルを大幅に落とさなくてはならなかった。人形を使うことも禁止された。おかげで練習内容はかなり生ぬるい、形式的なものに変わってしまった。青豆としてはもちろん面白くなかったし、メンバーからも不満の声があがったが、雇用されている身としてはいかんともしがたい。

 青豆に言わせれば、もし男が力ずくで迫ってきたときに、その睾丸を効果的に蹴り上げることができなかったら、ほかになすべきことはほとんどないのだ。かかってきた相手の腕を逆にとって、それを背中でねじり上げるというような高等な技が、実戦できれいに決まるわけがない。現実と映画は違う。そんなことを試みるくらいなら、何もしないでただ走って逃げた方がまだましだ。

 いずれにせよ青豆は睾丸の攻撃方法を十種類くらいは心得ていた。後輩の男の子に防具をつけさせて実際に試してもみた。「青豆さんのタマ蹴りは、防具をつけててもかなり痛いっす。もう勘弁してください」と彼らは悲鳴をあげた。もし必要があれば、その洗練された技能を実践に移すことにまったく躊躇はない。私を襲ってくるような無謀なやつらがいたら、そのときは世界の終わりをまざまざと見せてやる、と彼女は決意していた。王国の到来をしっかりと直視させてやる。まっすぐ南半球に送り込んで、カンガルーやらワラビーと一緒に、死の灰をたっぷりとあびせかけてやる。

 

 王国の到来について思いを巡らせながら、青豆はバーのカウンターでトム・コリンズを小さく一口ずつ飲んでいた。待ち合わせをしているふりをし、ときどき腕時計に目をやったが、実際に誰かがやってくるあてはない。彼女はそこにやってくる客の中から適当な男を物色しているだけだ。時計は八時半をまわっている。彼女はカルヴァン・クラインの鳶色のジャケットの下に、淡いブルーのブラウスを着て、紺のミニスカートをはいていた。今日も特製アイスピックは持っていない。それは洋服ダンスの抽斗で、タオルにくるまれて平和に休んでいる。

 そのバーは六本木にあり、シングルズ・バーとして知られていた。多くの独り者の男が、独り者の女を求めてやってくることで——あるいはその逆のことで——有名だった。外国人も多い。ヘミングウェイがバハマあたりでたむろしていた酒場をイメージした内装がほどこされている。カジキが壁に飾られ、天井には漁網が吊り下げられている。人々が巨大な魚を釣り上げている記念写真がいくつもかかっていた。ヘミングウェイの肖像画もある。陽気なパパ・ヘミングウェイ。その作家が晩年アルコール中毒に苦しみ猟銃自殺したことは、ここにやってくる人々にはとくに気にならないようだった。

 その夜も何人かの男が声をかけてきたが、どれも青豆の気には入らなかった。いかにも遊び人という感じの大学生の二人組が誘いをかけてきたが、面倒なので返事もしなかった。目つきの悪い三十前後のサラリーマンは「人と待ち合わせをしているから」と言ってすげなく断った。若い男たちはだいたいにおいて青豆の好みではない。彼らは鼻息が荒く、自信だけはたっぷりだが、話題が乏しく、話がつまらない。そしてベッドの中ではがつがつとして、セックスの本当の楽しみ方を知らない。ちょっとくたびれかけて、できれば少し髪が薄くなっているくらいの中年男が彼女の好みだ。それでいて下品なところがなく、清潔なのがいい。それに頭のかたちだって良くなくては。しかしそういう男は簡単には見つからない。だからどうしても妥協というスペースが必要になる。

 青豆は店内を見まわしながら、無音のため息をついた。どうして世の中には「適当な男」というのがろくすっぽ見当たらないのだろう。彼女はショーン・コネリーのことを考えた。彼の頭のかたちを思い浮かべただけで、身体の奥が鈍く痙いた。もしここにショーン・コネリーがひょっこり現れたら、私はどんなことをしてでも自分のものにしちゃうんだけどな。しかし言うまでもないことだが、ショーン・コネリーが六本木のバハマもどきのシングルズ・バーに顔を見せるわけはない。

 店内の壁に設置された大型テレビには、クイーンの映像が流されていた。青豆はクイーンの音楽があまり好きではない。だからなるべくそちらに目を向けないようにしていた。スピーカーから流れてくる音楽もできるだけ聴かないように努めていた。ようやくクイーンが終わると、今度はアバの映像になった。やれやれ、と青豆は思った。ひどい夜になりそうな予感がした。

 

 青豆は勤務しているスポーツ・クラブで「柳屋敷」の老婦人と知り合った。彼女は青豆の主催する護身術クラスに入っていた。例の短命に終わってしまった、人形攻撃を中心とするラディカルなクラスだ。小柄で、クラスの中では最も高齢だったが、彼女の身の動きは軽く、蹴りも鋭かった。この人はいざとなれば躊躇なく相手の睾丸を蹴り上げることができるだろうと青豆は思った。余計なことは口にせず、回り道もしない。青豆はその女性のそういうところが気に入った。「私くらいの歳になれば、とくに護身をする必要もないわけですが」、彼女はクラスの終わったあとで青豆にそう言って、上品に微笑んだ。

「歳の問題ではありません」、青豆はきっぱりと言った。「これは生き方そのものの問題です。常に真剣に自分の身を護る姿勢が大事なのです。攻撃を受けることにただ甘んじていては、どこにもいけません。慢性的な無力感は人を蝕み損ないます」

 老婦人はしばらく何も言わず、青豆の目を見ていた。青豆が口にしたことの何かが、あるいはその口調が、どうやら彼女に強い印象を与えたようだった。それから静かに肯いた。「あなたの言うことは正しい。実にそのとおりです。あなたはしっかりした考え方をしている」

 数日後に青豆は、一通の封筒を受け取った。その封筒はクラブの受付に言付けられていた。中に短い手紙が入っており、美しい筆跡で老婦人の名前と電話番号が書かれていた。お忙しいだろうが、手のあいたときに連絡をいただければありがたいとあった。

 電話には秘書らしい男が出た。青豆が名前を告げると、何も言わずに内線に切り替えた。老婦人が電話口に出て、わざわざ電話をかけてきてくれてありがとう。もし迷惑でなかったら、どこかで食事をご一緒できればと思っています。個人的にゆっくりお話をしたいことがあるので、と言った。喜んでご一緒します、と青豆は言った。それでは明日の夜はいかがでしょう、と老婦人は尋ねた。青豆には異論はなかった。ただ自分なんかを相手にどんな話があるのだろう、と不思議に思っただけだ。

 二人は麻布の閑静な地域にあるフランス料理店で夕食をともにした。老婦人はその店の古くからの客らしく、奥の上席に通され、顔見知りらしい初老のウェイターに丁寧な給仕を受けた。彼女はカットの美しい薄緑色の無地のワンピースを着て(六〇年代のジヴァンシーのように見える)、弱翠のネックレスをつけていた。途中で支配人が出てきて恭しく挨拶をした。メニューには野菜料理が多く、味も上品で淡泊だった。その日の特製スープは、偶然にも青豆のスープだった。老婦人はグラスに一杯だけシャブリを飲み、青豆もそれにつきあった。料理と同じくらい上品で淡麗な味のワインだった。青豆はメインに白身の魚のグリルをとった。老婦人は野菜だけの料理をとった。彼女の野菜の食べ方は芸術品のように美しかった。私くらいの年になると、ほんの少し食べるだけで生きていけるの、と彼女は言った。それから「できることなら上等なものだけをね」と半分冗談のように付け加えた。

 老婦人は青豆に個人的なトレーニングを求めていた。週に二日か三日、自宅でマーシャル・アーツを教授してもらえないだろうか。できれば筋肉のストレッチングもしてもらいたい。

「もちろんそれは可能です」と青豆は言った。「個人出張トレーニングとして、ジムのフロントをいちおう通していただくことになりますが」

「けっこうです」と老婦人は言った。「ただし、スケジュールの調整はあなたとじかに話しあって決めるようにしましょう。あいだに人が入ってやりとりが面倒になるのは避けたいのです。それでかまわないかしら?」

「かまいません」

「それでは来週から始めましょう」と老婦人は言った。

 それだけで用件は終わった。

 老婦人は言った。「このあいだジムでお話ししたとき、あなたが口にしたことに感心させられました。無力感についての話です。無力感がどれほど人を損なうかということ。覚えていますか?」

 青豆は肯いた。「覚えています」

「ひとつ質問をしてよろしいかしら?」と老婦人は言った。「時間を節約するために率直な質問になると思うけど」

「何でも訊いて下さい」と青豆は言った。

「あなたはフェミニストかレズビアンですか?」

 青豆は顔を少し赤くして、それから首を振った。「違うと思います。私の考え方はあくまで個人的なものです。フェミニストでもレズビアンでもありません」

「けっこうです」と老婦人は言った。そして彼女は安心したようにとても上品にブロッコリを口に運び、とても上品に咀噌し、ワインをほんの一口飲んだ。それから言った。

「あなたが仮にフェミニストやレズビアンであったとしても、私としてはちっともかまいません。そのことは何の影響も及ぼしません。しかしあえて言うなら、そうではない方がむしろ、話の筋がすっきりします。私の言いたいことはわかりますか」

「わかると思います」と青豆は言った。

 

 週に二回、青豆は老婦人の屋敷に行って、そこでマーシャル・アーツを彼女に指導した。老婦人の娘がまだ小さい頃に、バレエのレッスンのために作った鏡張りの広い練習場があり、二人はそこで身体を綿密に順序よく動かした。彼女はその年齢にしては身体も柔らかく、上達も早かった。小柄ではあるが、長年にわたって念入りに気を配られ、手入れをされた身体だ。そのほかに青豆はストレッチングの基本を教え、筋肉をほぐすためのマッサージをおこなった。

 青豆は筋肉マッサージが得意だった。体育大学では誰よりもその分野での成績がよかった。彼女は人間の身体のあらゆる骨と、あらゆる筋肉の名前を頭に刻み込んでいた。ひとつひとつの筋肉の役割や性質、その鍛え方や維持法を心得ていた。肉体こそが人間にとっての神殿であり、たとえそこに何を祀るにせよ、それは少しでも強靭であり、美しく清潔であるべきだというのが青豆の揺らぎなき信念だった。

 一般的なスポーツ医学だけではあきたらず、個人的な興味から鍼の技術も身につけた。何年か中国人の先生について本格的に学習した。先生は彼女の急速な上達ぶりに感心した。これならプロとして十分やっていけると言われた。青豆は覚えが良かったし、人体の機能の細部について飽くなき探究心を持っていた。そして何よりも、彼女にはおそろしく勘の良い指先が具わっていた。ある種の人々が絶対音感を持っていたり、あるいは地下の水脈を見つける能力を持っているのと同じように、青豆の指先は身体機能を左右する微妙なポイントを瞬時に見きわめることができた。それは誰かに教わったわけではない。彼女にはただそれが自然にわかるのだ。

 青豆と老婦人はトレーニングやマッサージが終わったあと、二人でお茶を飲みながら時を過ごし、いろんな話をするようになった。いつもタマルが銀のトレイに茶器のセットを載せて運んできた。タマルは最初の一ヶ月ほど、青豆の前でひとことも口をきかなかったので、青豆は老婦人に向かって、あの人はひょっとして口がきけないのでしょうかと質問しなくてはならなかった。

 あるとき老婦人は青豆に、これまで自分の身を護るために、その睾丸を蹴り上げる技術を実地に試したことはあるのかと尋ねた。

 一度だけある、と青豆は答えた。

「うまくいった?」と老婦人は尋ねた。

「効果はありました」と青豆は用心深く、言葉少なに答えた。

「うちのタマルにはその睾丸蹴りは通用すると思う?」

 青豆は首を振った。「おそらく駄目でしょう。タマルさんはそのへんのことは承知しています。心得のある人に動きを読まれたら、なすすべはありません。睾丸蹴りが通用するのは、実戦慣れしていない素人に対してだけです」

「つまりあなたにはタマルが『素人』ではないとわかるのですね?」

 青豆は言葉を選んだ。「そうですね。普通の人とは気配が違います」

 老婦人は紅茶にクリームを入れて、スプーンでゆっくりかきまわした。

「あなたがそのとき相手にしたのは素人の男だったわけね。大きな男だった?」

 青豆は肯いたが、何も言わなかった。相手は体格がよかったし、力も強そうだった。しかし傲慢で、相手が女ということで油断をしていた。女に睾丸を蹴られた経験はこれまでに一度もなく、そんなことが自分の身に起こるとは考えてもいなかった。

「その人は傷を受けたのでしょうか?」と老婦人は尋ねた。

「いいえ、傷は受けていません。しばらくのあいだ激しい苦痛を感じただけです」

 老婦人はしばらく黙っていた。それから質問した。「あなたはこれまでどこかの男を攻撃したことはありますか? ただ苦痛を与えるというだけではなく、意図的に傷を負わせたことは」

「あります」と青豆は答えた。嘘をつくのは彼女の得意分野ではない。

「そのことについては話せますか?」

 青豆は首を小さく振った。「申しわけありませんが、簡単に話せることではないんです」

「けっこうです。もちろん簡単に話せるようなことではないでしょう。無理に話す必要はありません」と老婦人は言った。

 二人は黙ってお茶を飲んだ。それぞれに違う何ごとかを考えながら。

 やがて老婦人が口を開いた。「でもいつか、話してもいいという気持ちになったら、そのときに起こったことを私に話してもらえるかしら?」

 青豆は言った。「いつかお話しできるかもしれません。できないままに終わるかもしれません。正直なところ、自分でもわからないのです」

 老婦人はしばらく青豆の顔を見ていた。そして言った。「興味本位で尋ねているわけではありません」

 青豆は黙っていた。

「あなたは何かを内側に抱え込んで、生きているように私には見えます。何かずいぶん重いものを。最初に会ったときからそれを感じていました。あなたは決意をした強い目をしています。実のところ、私にも[#傍点]そういうもの[#傍点終わり]はあります。抱えている重いものごとがあります。だからわかるんです。急ぐことはありません。しかしいつかはそれを自分の外に出してしまった方がいい。私はなにより口の堅い人間ですし、いくつかの現実的な手だてももっています。うまくすればあなたのお役に立てるかもしれません」

 青豆があとになってその話を老婦人に思い切って打ち明けたとき、彼女は人生の別のドアを開くことになった。

 

「ねえ、何を飲んでるの?」と青豆の耳元で誰かが言った。女の声だった。

 青豆は我に返り、顔を上げて相手を見た。髪を五〇年代風のポニーテイルにした若い女が、隣のスツールに腰を下ろしていた。細かい花柄のワンピースを着て、小振りなグッチのショルダーバッグを肩から提げている。爪には淡いピンクのマニキュアがきれいに塗られている。太っているというのではないが、丸顔でどちらかというとぽっちゃりしていた。いかにも愛想の良さそうな顔だ。胸は大きい。

 青豆はいくぶん戸惑った。女に声をかけられることは予期していなかったからだ。ここは男が女に声をかける場所なのだ。

「トム・コリンズ」と青豆は言った。

「おいしい?」

「とくに。でもそんなに強くないし、ちびちび飲める」

「どうしてトム・コリンズっていうんだろう?」

「さあ、わからないな」と青豆は言った。「最初に作った人の名前じゃないかしら。びっくりするほどの発明だとも思えないけど」

 その女は手を振ってバーテンダーを呼び、私にもトム・コリンズをと言った。ほどなくトム・コリンズが運ばれてきた。

「隣りに座っていいかな?」と女は尋ねた。

「いいわよ。空いてるから」、もうとっくに座っているじゃない、と青豆は思ったが、口には出さなかった。

「誰かとここで待ち合わせをしているわけじゃないんでしょ?」とその女は尋ねた。

 青豆はとくに返事はせず、黙って相手の顔を観察していた。たぶん青豆よりは三つか四つ年下だろう。

「ねえ、私は[#傍点]そっち[#傍点終わり]の方にはほとんど興味ないから、心配しなくていいよ」と女は小さな声で打ち明けるように言った。「もしそういうのを警戒しているのならだけど。私も男を相手にしている方がいい。あなたと同じで」

「私と同じ?」

「だって一人でここに来たのは、良さそうな男を探すためでしょ?」

「そう見える?」

 相手は軽く目を細めた。「それくらいわかるよ。ここはそういうことをするための場所だもの。それにお互いプロじゃないみたいだし」

「もちろん」と青豆は言った。

「ねえ、よかったら二人でチームを組まない? 男の人って、一人でいる女より、二人連れの方が声をかけやすいみたい。私たちだって、一人よりは二人でいた方が楽だし、なんとなく安心できるでしょ。私はどっちかというと見かけは女っぽい方だし、あなたはきりっとしてボーイッシュな感じだし、組み合わせとしちゃ悪くないと思うんだ」

 ボーイッシュ、と青豆は思った。誰かにそんなことを言われたのは初めてだ。

「でもチームを組むといっても、それぞれに男の好みが違うかもしれないじゃない。うまくいくかしら」

 相手は軽く唇を曲げた。「そう言われれば、たしかにそうだな。好みか……。ええとそれで、あなたはどんなタイプの男が好みなの?」

「できれば中年」と青豆は言った。「若い子はそれほど好きじゃない。ちょっと禿げかけているあたりが好み」

「ふうん」と女は感心したように言った。「なるほどね、中年か。私としてはどっちかっていうと若くて元気の良い美形の子が好きで、中年男にはそれほど興味ないんだけど、まああなたがそういうのがいいって言うのなら、つきあいでちっと試してみてもいいよ。何ごともほら、経験だから。中年っていい? だからつまり、私が言ってるのはセックスのことだけど」

「人によると思う」と青豆は言った。

「もちろん」と女は言った。そして何かの学説を検証するみたいに目を細めた。「セックスを一般化することはもちろんできない。でもあえてひっくくれば?」

「悪くない。回数は無理だけど、時間はかけてくれる。急がない。うまくいけば何度もいかせてくれる」

 相手はそれについて少し考えていた。「そう言われると、いくらか興味が出てきたかもしれない。一度試してみようかな」

「お好きに」と青豆は言った。

「ねえ、四人でやるセックスって試したことある? 途中で相手を換えるやつ」

「ない」

「私もないんだけど、興味ある?」

「たぶんないと思う」と青豆は言った。「うん、チームを組んでもいいんだけど、たとえ一時的にでも一緒に行動するからには、もう少しあなたのことを知っておきたいの。でないと、途中で話が合わなくなるかもしれない」

「いいよ。それはたしかに正しい意見だ。で、たとえば私のどんなことを知っておきたいの?」

「たとえば、そうだな……どんな仕事をしてるの?」

 女はトム・コリンズを一口飲み、それをコースターの上に置いた。そして紙ナプキンで口を叩くように拭った。紙ナプキンについた口紅の色を点検した。

「これ、なかなかおいしいじゃない」と女は言った。「ベースはジンよね?」

「ジンとレモンジュースとソーダ」

「たしかにそんなに大した発明とは言えないけど、でも味は悪くない」

「それはよかった」

「ええとそれで、私がどんな仕事をしているのか? そいつはちっとむずかしい問題ね。正直に言っても、信じてもらえないかもしれないし」

「じゃあ私の方から言うわ」と青豆は言った。「私はスポーツ・クラブでインストラクターをしているの。主にマーシャル・アーツ。あとは筋肉ストレッチング」

「マーシャル・アーツ」と感心したように相手の女は言った。「ブルース・リーみたいなやつ?」

「[#傍点]みたい[#傍点終わり]なやつ」

「強い?」

「まずまず」

 女はにっこり笑って、乾杯するようにグラスを持ち上げた。「じゃあ、いざとなれば無敵の二人組になれるかもね。私はこう見えて、けっこう長く合気道をやってるから。実を言うとね、私は警察官なの」

 

「警察官」と青豆は言った。口が軽く開かれたまま、それ以上言葉は出てこなかった。

「警視庁勤務。そうは見えないでしょ?」と相手は言った。

「たしかに」と青豆は言った。

「でもほんとにそうなの。マジに。名前はあゆみ」

「私は青豆」

「青豆。それって本名?」

 青豆は重々しく肯いた。「警官っていうと、制服を着て、ピストルを持って、パトカーに乗ったり、通りをパトロールしたりするわけ?」

「私としてはそういうのがやりたくて警官になったんだけど、なかなかさせてはもらえない」とあゆみは言った。そしてボウルに盛られた塩つきプレッツェルをぽりぽりと音を立てて腐った。

「お笑いみたいな制服を着て、ミニパトに乗って、駐車違反なんかを取り締まるのが、私の今のところの主なお仕事。もちろんピストルなんか持たせちゃもらえない。トヨタ・カローラを消火栓の前に停めた一般市民に向けて、威嚇射撃をする必要もないからね。私は射撃訓練でもかなり良い成績を出しているんだけど、そんなことは誰も目にも留めない。ただ女だからというだけで、来る日も来る日も棒の先につけたチョークで、アスファルトの上に時刻とナンバーを書いて回らされてるわけ」

「ピストルというと、ベレッタのセミオートマチックを撃つわけ?」

「そう。今はみんなあれになったからね。ベレッタは私にはいささか重すぎる。たしかフルに弾丸を装填したら、一キロ近く重量があるはずだから」

「本体重量は八五〇グラム」と青豆は言った。

 あゆみは腕時計の品定めをする質屋のような目で青豆を見た。「ねえ青豆さん、どうしてそんな細かいことまで知ってるわけ?」

「昔から銃器全般に興味があるの」と青豆は言った。「もちろんそんなもの実際に撃ったことはないけど」

「そうか」とあゆみは納得したように言った。「私も実はピストルを撃つのが好きだよ。ベレッタはたしかに重量はあるけど、撃った反動は旧式のものほど大きくないから、練習を積めば小柄な女性にだって無理なく扱える。でも上のやつらはそんな考え方はしない。女に拳銃なんて扱えるかって思っている。警察上層部なんて、みんな男権主義のファシストみたいなやつらなんだから。私は警棒術だってすごく成績がよかったんだよ。たいていの男には負けなかった。でも全然評価されない。言われるのはエッチなあてこすりばっかり。警棒の握り方がなかなか堂に入ってるじゃないか、もっと実地練習したかったら遠慮なく俺に言ってくれよ、とかさ。まったくあいつらの発想ときたら、一世紀半くらい遅れてるんだから」

 あゆみはそう言って、バッグからヴァージニア・スリムを取り出し、慣れた手つきで一本取り出して口にくわえ、細い金のライターで火をつけた。そして煙を天井に向けてゆっくりと吐いた。

「そもそも、どうして警官になろうと思ったわけ?」と青豆は尋ねた。

「もともと警官になるつもりなんてなかったんだよ。でも普通の事務みたいな仕事はやりたくなかった。かといって専門的な技能もない。となると、選べる職種は限られてくる。それで大学四年のときに警視庁の採用試験を受けたわけ。それにうちの親戚って、なぜか警官が多いんだ。実を言うと、父親も兄貴も警察官なんだよ。叔父も一人警官をしている。警察って基本的に仲間内の社会だから、身内に警察官がいると優先して採用してくれるの」

「警察官一家」

「そういうこと。でもさ、実際に入ってみるまで警察ってのがこんなに男女差別のきつい職場だとは思わなかったな。婦人警官っていうのはね、警察の世界ではいわば二級市民みたいなものなの。交通違反の取り締まりをするとか、机の前に座って書類管理をするとか、小学校をまわって子供の安全教育をするとか、女の容疑者の身体検査をするとか、そういう面白くもなーんともない仕事しかまわってこないわけ。私よりも明らかに能力の落ちる男たちが、次々に面白そうな現場にまわされていくっていうのにさ。上の方は男女の機会均等なんて明るい建前を言ってるけど、実際にはそんなに簡単なものじゃない。せっかくの勤労意欲も失せてきちゃう。わかるでしょ?」

 青豆は同意した。

「そういうのって頭にくるよ、ほんとに」

「ボーイフレンドとかはいないの?」

 あゆみは顔をしかめた。そして指のあいだにはさんだ細身の煙草を、しばし睨んでいた。「女で警官になるとね、恋人を作るのが現実的にとってもむずかしくなるわけ。勤務時間が不規則だから、普通の勤め人とは時間が合わないし、それにちょっとうまく行きかけても、私が警察官をしているってわかったとたんに、普通の男ってみんなするする引いちゃうんだ。蟹が波打ち際を逃げていくみたいに。ひどい話だと思わない?」

 青豆は同意の相づちを打った。

「そんなわけで、あと残された道は職場内恋愛くらいなんだけど、これがまた、見事にまともな男がいないんだ。エロい冗談しか言えないような不毛なやつらばっかし。生まれつきアタマが悪いか、出世することしか考えてないか、そのどっちか。そんなやつらが社会の安全を担っているんだ。日本の将来は明るくないよ」

「あなたは見かけも可愛いし、男の人にもてそうに見えるけど」と青豆は言った。

「まあね、もてなくはないよ。職業を打ち明けないかぎりはね。だからこういうところでは、保険会社に勤めているってことにしておくの」

「ここにはよく来るの?」

「[#傍点]よく[#傍点終わり]というほどじゃない。ときどき」とあゆみは言った。そして少し考えてから打ちあけるように言った。「たまにセックスしたいなあって思うんだ。率直に言えば男がほしくなる。ほら、なんとなく周期的にさ。そうするとお洒落して、ゴージャスな下着をつけて、ここに来るわけ。そして適当な相手をみつけて一晩やりまくる。それでしばらくは気持ちが落ち着く。健康な性欲が具わっているだけで、べつに色情狂とかセックス・マニアとかそういうんじゃないから、いったんぼあっと発散しちゃえばそれでいい。尾を引いたりすることはない。明くる日からまたせっせと駐車違反の路上取り締まりに励む。あなたは?」

 青豆はトム・コリンズのグラスをとって静かにすすった。「まあ、だいたい同じようなところかな」

「恋人はいない?」

「そういうのはつくらないことにしているの。面倒なのは嫌だから」

「決まった男は面倒なんだ」

「まあね」

「でもときどき我慢できないくらい[#傍点]やりたく[#傍点終わり]なる」とあゆみは言った。

「[#傍点]発散したく[#傍点終わり]なる、という表現の方が好みに合っているけど」

「[#傍点]豊かな一夜を持ちたく[#傍点終わり]なる、というのは?」

「それも悪くない」

「いずれにせよ、一晩かぎりの、尾を引かないやつ」

 青豆は肯いた。

 あゆみはテーブルに頬杖をついて、それについて少し考え込んでいた。「私たちけっこう共通したところがあるかもね」

「あるかもしれない」と青豆は認めた。ただしあなたは婦人警官で、私は人を殺している。私たちは法律の内側と外側にいる。それはきっと大きな違いになることでしょうね。

「こういうことにしようよ」とあゆみは言った。「私たちは同じ損保会社に勤めている。会社の名前はヒミツ。青豆さんが先輩で、私が後輩。今日は職場でちっとばかり面白くないことがあったので、二人でうさばらしにお酒を飲みに来た。そしてわりといい気分になっている。そういうシチュエーションでいいかな?」

「それはいいけど、損害保険のことなんてほとんど何も知らないよ」

「そのへんはまかせといてちょうだい。如才なく話を作るのは、私のもっとも得意とするところだから」

「まかせる」と青豆は言った。

「ところで、私たちの真後ろのテーブルに中年っぽい二人連れがいて、さっきから物欲しそうな目であちこちを見ているんだけど」とあゆみが言った。「さりげなく振り向いて、チェックしてみてくれる」

 青豆は言われたとおりさりげなく後ろを振り向いた。ひとつあいだを置いたテーブル席に、中年の男が二人座っていた。どちらもいかにも仕事を終えて一息ついているサラリーマンというふうで、スーツにネクタイを結んでいる。スーツはくたびれていないし、ネクタイの好みも悪くなかった。少なくとも不潔な感じはしない。一人はおそらく四十代後半、一人は四十前に見えた。年上の方は痩せて面長で、額の生え際が後退している。若い方には、昔は大学のラグビー部で活躍したが、最近は運動不足で肉がつき始めたという雰囲気があった。青年の顔立ちを残しつつも、顎のまわりがそろそろ分厚くなりかけている。二人はウィスキーの水割りを飲みながら談笑していたが、視線はたしかに店内をそれとなく物色していた。

 あゆみがその二人組を分析した。「見たところ、こういう場所にはあまり慣れてないみたい。遊びに来たんだけど、女の子にうまく声がかけられない。それに二人ともたぶん妻帯者だね。いくぶん後ろめたそうな雰囲気もある」

 青豆は相手の的確な観察眼に感心した。話をしながらいつの間にそれだけのことを読み取ったのだろう。警察官一家というだけのことはあるのかもしれない。

「青豆さん、あなたは髪が薄い方が好みなんでしょ? だったら私はがっしりした方をとる。それでかまわない?」

 青豆はもう一度後ろを向いた。髪が薄い方の頭のかたちはまずまずというところだった。ショーン・コネリーからは何光年か距離があるけれど、とりあえず及第点は与えられる。なにしろクイーンとアバの音楽を続けざまに聴かされた夜だ。贅沢は言えない。

「いいよ、それで。でもどうやってあの人たちに私たちを誘わせるの?」

「悠長に夜明けまで待っているわけにはいかない。こっちから押しかけるのよ。にこやかに友好的に、かつ積極的に」とあゆみは言った。

「本気で?」

「もちろん。私が行って軽く話をつけてくるから、まかせておいて。青豆さんはここで待っててくれればいい」とあゆみは言った。トム・コリンズをひとくち勢いよく飲み、両手の手のひらをごしごしとこすった。それからグッチのショルダーバッグをいきおいよく肩にかけ、にっこりと微笑んだ。「さあ、警棒術のお時間」

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