1Q84上:第17章 青豆 私たちが幸福になろうが不幸になろうが

发表于:2015-05-10 22:36 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-10 22:35~2015-05-31 02:00
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第17章 青豆

      私たちが幸福になろうが

      不幸になろうが

 

 

 翌日の夜、月はやはり二つのままだった。大きい方の月はいつもの月だった。まるでついさっき灰の山をくぐり抜けてきたみたいに全体が不思議な白みを帯びていたが、それをべつにすれば、見慣れた旧来の月だった。一九六九年のあの暑い夏にニール・アームストロングがささやかにして巨大な最初の一歩をしるした月だ。そしてその隣にいびつなかたちをした、緑色の小振りな月があった。それはまるで出来の悪い子供のように、大きな月の近くに遠慮がちに寄り添って浮かんでいた。

 私の頭がどうかしているに違いない、と青豆は思った。月は昔からひとつしかないし、今だってひとつしかないはずだ。もし急に月が二個に増えたりしたら、地球での生活にも様々な現実的変化が生じているはずだ。たとえば満ち潮や引き潮の関係だって一変してしまうことだろうし、それは世間の重要な話題になっているはずだ。いくらなんでも私が気づかないわけがない。何かの加減で新聞記事をうっかり見逃すのとはわけが違う。

 しかし[#傍点]本当に[#傍点終わり]そうだろうか? 百パーセントの確信を持って、私にそう断言できるだろうか? 青豆はしばらく顔をしかめていた。ここのところ、奇妙なことが私のまわりで起こり続けている。私の知らないところで、世界は勝手な進み方をしている。私が目を閉じているときにだけ、みんなが動くことのできるゲームをやっているみたいに。だとしたら、空に月が二つ並んで浮かんでいても、さして奇妙なことではないのかもしれない。いつか私の意識が眠り込んでいるあいだに、それは宇宙のどこかからひょっこりとやってきて、月の遠縁のいとこみたいな顔をして、そのまま地球の引力圏に留まることにしたのかもしれない。

 警官の制服と制式拳銃が一新されていた。警官隊と過激派が山梨の山中で激しい銃撃戦を繰り広げていた。それらはすべて私の知らないうちに起こっていた。アメリカとソビエトが共同で月面基地を建設したというニュースもあった。それと月の数が増えたこととのあいだには、何か関連性があるのだろうか? 図書館で読んだ新聞の縮刷版に、新しい月に関連した記事があったかどうか記憶を探ってみたが、思い当たることはひとつとしてなかった。

 誰かに質問できればいいのだろうが、誰に向かってどのような尋ね方をすればいいのか、青豆には見当もつかなかった。「ねえ、空に月がふたつ浮かんでいると思うんだけど、ちょっと見てみてくれないかな」とでも言えばいいのだろうか? しかしそれはどう考えても馬鹿げた質問だ。もし月が二個に増えたのが事実であれば、そんなことも知らないというのは妙な話だし、もし月が従来どおり一個しかないとしたら、こちらの頭がおかしくなったと思われるのがおちだ。

 青豆はパイプ椅子に身を沈め、手すりに両足を載せ、質問のかたちを十通りほど考えてみた。実際に口に出してもみた。しかしどれもこれも同じ程度に愚かしく響いた。しかたない。事態そのものが常軌を逸しているのだ。それについて筋のとおった質問ができるわけがない。わかりきったことだ。

 二個目の月の問題はとりあえず棚上げしておくことにした。あとしばらく様子を見よう。さしあたってそれで何か実際に迷惑を被っているわけではないのだから。それに、気がついたらいつの間にか消えてなくなっていたというようなことになるかもしれない。

 

 翌日の昼過ぎに広尾のスポーツ・クラブに行って、マーシャル・アーツのクラスをふたつ担当し、個人レッスンをひとつ行った。クラブのフロントに立ち寄ると、珍しく麻布の老婦人からのメッセージが届いていた。手の空いたときに連絡をいただきたい、と書かれていた。

 いつものように電話にはタマルが出た。

 よかったら明日、こちらにお越し願えまいか。いつものプログラムをお願いしたい。そのあと軽い夕食を御一緒できればということだ、とタマルは言った。

 四時過ぎにはそちらにうかがえる、夕食は喜んで御一緒する、と青豆は言った。

「けっこう」と相手は言った。「それでは明日の四時過ぎに」

「ねえ、タマルさん、最近月を見たことはある?」と青豆は尋ねた。

「月?」とタマルは言った。「空に浮かんでいる月のことかな」

「そう」

「とくに意識して見たという記憶はここのところない。月がどうかしたのか?」

「どうもしないけど」と青豆は言った。「じゃあ、明日の四時過ぎに」

 タマルは少し間を置いて電話を切った。

 

 その夜も月は二つだった。どちらも満月から二日ぶん欠けている。青豆はブランデーのグラスを手に、どうしても解けないパズルを眺めるみたいに、その大小一対の月を長いあいだ眺めていた。見れば見るほど、その取り合わせはますます謎に満ちたものに思えた。もしできることなら、彼女は月に向かって問いただしてみたかった。どういう経緯があって、突然あなたにその緑色の小さなお供がつくことになったのかと。でももちろん月は返事をしてはくれない。

 月は誰よりも長く、地球の姿を間近に眺めてきた。おそらくはこの地上で起こった現象や、おこなわれた行為のすべてを目にしてきたはずだ。しかし月は黙して語らない。あくまで冷ややかに、的確に、重い過去を抱え込んでいるだけだ。そこには空気もなく、風もない。真空は記憶を無傷で保存するのに適している。誰にもそんな月の心をほぐすことはできない。青豆は月に向かってグラスをかかげた。

「最近誰かと抱き合って寝たことはある?」と青豆は月に向かって尋ねた。

 月は返事をしなかった。

「友だちはいる?」と青豆は尋ねた。

 月は返事をしなかった。

「そうやってクールに生きていくことにときどき疲れない?」

 月は返事をしなかった。

 いつものようにタマルが玄関で青豆を迎えた。

「月を見たよ、ゆうべ」とタマルは最初に言った。

「そう?」と青豆は言った。

「あんたに言われたから気になってね。しかし久しぶりに見ると、月はいいものだ。穏やかな気持ちになれる」

「恋人と一緒に見たの?」

「そういうことだ」とタマルは言った。そして鼻の脇に指をやった。「それで月がどうかしたのか?」

「どうもしない」と青豆は言った。そして言葉を選んだ。「ただ最近、どうしてか月のことが気にかかるの」

「理由もなく?」

「とくに理由もなく」と青豆は答えた。

 タマルは黙って肯いた。彼は何かを推し測っているようだった。この男は理由を欠いたものごとを信用しないのだ。しかしそれ以上は追及せず、いつものように前に立って青豆をサンルームに案内した。老婦人はトレーニング用のジャージの上下に身を包み、読書用の椅子に座り、ジョン・ダウランドの器楽合奏曲『ラクリメ』を聴きながら本を読んでいた。彼女の愛好する曲だった。青豆も何度も聴かされて、そのメロディーを覚えていた。

「昨日の今日でごめんなさいね」と老婦人は言った。「もっと早くアポイントメントを入れられるとよかったんだけど、ちょうどこの時間がぽっかり空いたものだから」

「私のことなら気になさらないでください」と青豆は言った。

 タマルがハーブティーを入れたポットを、トレイに載せて持ってきた。そして二つの優雅なカップにお茶を注いだ。タマルは部屋を出て、ドアを閉め、老婦人と青豆はダウランドの音楽を聴き、燃え立つように咲いた庭のツツジの花を眺めながら、静かにそのお茶を飲んだ。いつ来ても、ここは別の世界のようだと青豆は思った。空気に重みがある。そして時間が特別な流れ方をしている。

「この音楽を聴いているとときどき、時間というものについて、不思議な感慨に打たれることがあります」と老婦人は青豆の心理を読んだように言った。「四百年前の人々が、今私たちが聴いているのと同じ音楽を聴いていたということにです。そういう風に考えると、なんだか妙な気がしませんか?」

「そうですね」と青豆は言った。「でもそれを言えば、四百年前の人たちも、私たちと同じ月を見ていました」

 老婦人は少し驚いたように青豆を見た。それから肯いた。「たしかにそうね。あなたの言うとおりだわ。そう考えれば、四世紀という時を隔てて同じ音楽を聴いていることに、とくに不思議はないのかもしれない」

「[#傍点]ほとんど[#傍点終わり]同じ月と言うべきかもしれませんが」

 青豆はそう言って老婦人の顔を見た。しかし彼女の発言は老婦人に何の感興ももたらさなかったようだった。

「このコンパクト・ディスクの演奏も古楽器演奏です」と老婦人は言った。「当時と同じ楽器を使って、当時の楽譜通りに演奏されています。つまり音楽の響きは当時のものとおおむね同じだということです。月と同じように」

 青豆は言った。「ただ[#傍点]もの[#傍点終わり]が同じでも、人々の受け取り方は今とはずいぶん違っていたかもしれません。当時の夜の闇はもっと深く、暗かったでしょうし、月はそのぶんもっと明るく大きく輝いていたことでしょう。そして人々は言うまでもなく、レコードやテープやコンパクト・ディスクをもっていませんでした。日常的にいつでも好きなときに、音楽がこのようなまともなかたちで聴けるという状況にはありませんでした。それはあくまでとくべつなものでした」

「そのとおりね」と老婦人は認めた。「私たちはこのように便利な世の中に住んでいるから、そのぶん感受性は鈍くなっているでしょうね。空に浮かんだ月は同じでも、私たちはあるいは別のものを見ているのかもしれない。四世紀前には、私たちはもっと自然に近い豊かな魂を持っていたのかもしれない」

「しかしそこは残酷な世界でした。子供たちの半分以上は、慢性的な疫病や栄養不足で成長する前に命を落としました。ポリオや結核や天然痘や麻疹で人はあっけなく死んでいきました。一般庶民のあいだでは、四十歳を超えた人はそんなに多くはいなかったはずです。女はたくさんの子供を産み、三十代になれば歯も抜け落ちて、おばあさんのようになっていました。人々は生き延びるために、しばしば暴力に頼らなくてはならなかった。子供たちは小さいときから、骨が変形してしまうくらいの重い労働をさせられ、少女売春は日常的なことでした。あるいは少年売春も。多くの人々は感受性や魂の豊かさとは無縁の世界で最低限の暮らしを送っていました。都市の通りは身体の不自由な人々と乞食と犯罪者とで満ちていました。感慨をもって月を眺めたり、シェイクスピアの芝居に感心したり、ダウランドの美しい音楽に耳を澄ますことのできるのは、おそらくほんの一部の人だけだったでしょう」

 老婦人は微笑んだ。「あなたはずいぶん興味深い人ね」

 青豆は言った。「私はごく普通の人間です。ただ本を読むのが好きなだけです。主に歴史についての本ですが」

「私も歴史の本を読むのが好きです。歴史の本が教えてくれるのは、私たちは昔も今も基本的に同じだという事実です。服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることにそれほどの変わりはありません。人間というものは結局のところ、遺伝子にとってのただの|乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が[#傍点]自分たちにとって[#傍点終わり]いちばん効率的かということだけです」

「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけにはいかない。そういうことですか?」

 老婦人は肯いた。「そのとおりです。人間はそれについて考えないわけにはいかない。しかし私たちの生き方の根本を支配しているのは遺伝子です。当然のことながら、そこに矛盾が生じることになります」、彼女はそう言って微笑んだ。

 歴史についての会話はそこで終わった。二人は残っていたハーブティーを飲み、マーシャル・アーツの実習に移った。

 

 その日は屋敷の中で簡単な食事をした。

「簡単なものしか作れないけれど、それでいいかしら?」と老婦人は言った。

「もちろんかまいません」と青豆は言った。

 食事はタマルがワゴンに載せて運んできた。料理を作るのはおそらく専門の料理人なのだろうが、運んで給仕するのは彼の役目だった。彼はアイスバケツに入れた白ワインを抜き、慣れた手つきでグラスに注いだ。老婦人と青豆はそれを飲んだ。香りがよく、冷え加減もちょうどいい。料理は茄でた白色のアスパラガスと、ニソワーズ・サラダと、蟹肉を入れたオムレツだけだった。それにロールパンとバター。どれも食材が新鮮でおいしかった。量も適度に十分だった。いずれにせよ、老婦人はいつもほんの少ししか食事をとらない。彼女はフォークとナイフを優雅に使って、まるで小鳥のように少しずつの量を口に運んだ。そのあいだタマルはずっと、部屋のいちばん遠いところに控えていた。彼のような濃密な体つきの男が、長い時間にわたって気配をすっかり消してしまえるのは驚くべきことで、青豆はいつもそのことに感心させられた。

 料理を食べているあいだ、二人は切れ切れにしか話をしなかった。二人は食べることに意識を集中した。小さな音で音楽が流れていた。ハイドンのチェロ・コンチェルト、それも老婦人の好きな音楽のひとつだ。

 料理が下げられ、コーヒーポットが運ばれてきた。タマルがそれを注いで下がるときに、老婦人は彼に向かって指を上げた。

「もうこれで用事はありません。ありがとう」と彼女は言った。

 タマルは小さく頭を下げた。そしていつものように足音もなく部屋を出て行った。ドアが静かに閉まった。二人が食後のコーヒーを飲んでいるあいだにディスクが終わり、新たな沈黙が部屋に訪れた。

「あなたと私とは信頼し合っている。そうですね?」と老婦人は青豆の顔をまっすぐ見て言った。

 青豆は簡潔に、しかし留保なく同意した。

「私たちは大事な秘密を共有しています」と老婦人は言った。「言うなれば身を預け合っているわけです」

 青豆は黙って肯いた。

 

 彼女が老婦人に向かって、最初に秘密を打ち明けたのもこの同じ部屋だった。そのときのことを青豆はよく覚えている。彼女はその心の重荷をいつか誰かに告白しないわけにはいかなかった。それを自分一人の胸に収めたまま生き続けることの負担は、そろそろ限界に達しかけていた。だから老婦人に水を向けられたとき、青豆は長いあいだ閉ざしてきた秘密の扉を思い切って開けた。

 自分の無二の親友が長年にわたって夫に暴力を振るわれ、精神のバランスを崩し、そこから逃げ出すこともできず、苦しみ抜いたすえに自殺を遂げたこと。青豆は一年近く経ってから用件を作ってその男の家を訪れた。そして巧妙に状況を設定して、鋭い針で首の後ろを刺して殺害した。ただの一刺し、傷跡も残らず出血もなかった。単純な病死として処理された。誰も疑いを抱かなかった。青豆は自分が間違ったことをしたとは思わなかったし、今でも思っていない。良心の痛みを感じるのでもない。しかしだからといって、一人の人間の生命を意図して奪ったことの重みが減じられるわけではない。

 老婦人は青豆の長い告白に耳を澄ませていた。青豆がつっかえながら、ことの経緯を話し終えるまで、ただ黙って聞き入っていた。青豆が話し終えたあと、不明な細部についていくつか質問をした。それから手を伸ばし、青豆の手を長いあいだ強く握った。

「あなたは正しいことをしたのです」と老婦人はゆっくり噛んで含めるように言った。「その男は生きていれば、ゆくゆくほかの女性をも似たような目にあわせたでしょう。彼らはいつも被害者をどこからか見つけ出します。同じことを繰り返すようにできているのです。あなたはその禍根を断ち切った。ただの個人的な復讐とはわけが違います。安心なさい」

 青豆は顔を両手に埋めてひとしきり泣いた。彼女が泣いたのは環のためだった。老婦人がハンカチを出して涙を拭いてくれた。

「不思議な偶然ですが」と老婦人は迷いのない静かな声で言った。「私もまったくと言っていいほど同じ理由で人を[#傍点]消えさせた[#傍点終わり]ことがあります」

 青豆は顔を上げて老婦人を見た。言葉はうまく出てこなかった。この人はいったい何の話をしているのだろう?

 老婦人は話を続けた。「もちろん私が直接手を下してそうしたのではありません。私にはそれほどの体力はないし、またあなたのような特殊な技術を身につけているわけでもありません。私にとれるしかるべき手段をとって[#傍点]消えさせた[#傍点終わり]のです。しかし具体的な証拠は何ひとつ残ってません。私が仮に今名乗り出て告白したところで、それを事件として立証することは不可能です。あなたの場合と同じように。もし死後に審判というものがあるなら、私は神に裁かれることでしょう。でもそんなことは少しも怖くはありません。私は間違ったことはしておりません。誰の前でも堂々と言い分を述べさせてもらいます」

 老婦人は安堵に似たため息をついた。そして続けた。

「さあ、これであなたと私は、お互いの重要な秘密を握りあっていることになります。そうですね?」

 青豆にはそれでもまだ、相手が何の話をしているのか、十分には呑み込めなかった。消えさせた? 青豆の顔は深い疑問と激しい衝撃とのあいだで、正常なかたちを失いかけていた。老婦人は青豆を落ち着かせるために、さらに穏やかな声で説明を加えた。

 

 彼女の実の娘もやはり、大塚環と似たような経緯で自らの命を絶った。娘は間違った相手と結婚したのだ。その結婚生活がうまく行かないだろうことは、老婦人には最初からわかっていた。彼女の目から見ると、相手の男は明らかに歪んだ魂を抱えていた。これまでにも問題を起こしていたし、その原因はおそらく根深いものだった。しかしその結婚を阻止することは誰にもできなかった。案の定、激しい家庭内暴力が繰り返されることになった。娘は徐々に自尊心と自信を失い、追いつめられ、諺状態に入り込んでいった。自立する力を奪い取られ、アリ地獄に落ちたアリのように、そこから抜け出すことができなくなった。そしてあるとき、大量の睡眠薬をウィスキーと一緒に胃に流し込んだ。

 検死のとき、その身体に暴行のあとが発見された。打撲や激しい打擲のあとがあり、骨折のあとがあり、煙草の火を押しつけられたような数多くのやけどがあった。両方の手首にはきつく縛られたあとが残っていた。縄を使うことがこの男の好みであったようだ。乳首が変形していた。夫が警察に呼ばれ、事情を聴取された。夫は暴力を振るっていたことをある程度認めたが、それはあくまで性行為の一部として合意の上で行われたことであり、むしろ妻がそれを好んでいたと主張した。

 結局、環のときと同じように、警察は夫に対して法的な責任を問うことはできなかった。妻から警察に訴えが起こされたわけではないし、彼女は既に死んでいた。夫には社会的な地位があり、有能な刑事弁護士がついていた。また死因が自殺であることに疑いの余地はなかった。

「あなたはその男を殺したのですか?」と青豆は思い切って尋ねた。

「いいえ、[#傍点]その男を[#傍点終わり]殺したわけではありません」と老婦人は言った。

 青豆は話の筋が見えないまま、黙して老婦人を見つめていた。

 老婦人は言った。「娘のかつての夫は、その卑劣な男は、まだこの世界に生きています。毎朝ベッドの上で目を覚まし、自分の両足で通りを歩いています。私にはその男を殺したりするつもりはありません」

 老婦人は少し間を置いた。自分の言ったことが青豆の頭に収まるのを待った。

「そのかつての娘婿に対して私がやったのは、世間的に破滅させることでした。それも完膚無きまでに破滅させることです。私はたまたま[#傍点]そういう力[#傍点終わり]を持っています。その男は弱い人間でした。頭はそれなりに働くし、弁も立つし、世間的にはある程度認められてもいるのですが、根本は弱くて下劣な男です。家庭内で妻や子供たちに激しい暴力を振るうのは、決まって弱い人格を持った男たちなのです。弱いからこそ、自分より弱い人間をみつけて餌食にせずにいられないのです。破滅させるのはたやすいことでしたし、そのような男は一度破滅したら、二度と浮かび上がることはできません。私の娘が死んだのはかなり前のことですが、私は今に至るまで、休みなくその男を監視しています。浮かび上がろうとしたところで、[#傍点]私が[#傍点終わり]そんなことは許しません。まだ生きていますが、屍も同じです。自殺をすることはありません。自殺するほどの勇気は持ち合わせていないから。それが私のやり方です。やすやすと殺したりはしません。死なない程度に間断なく、慈悲なく苦しめ続けます。生皮を剥ぐようにです。私が[#傍点]消えさせた[#傍点終わり]のはほかの人間です。べつのところに移ってもらわなくてはならない現実的な理由がそこにはありました」

 

 老婦人は更に青豆に向かって説明した。娘が自殺した翌年、彼女は同じような家庭内暴力に苦しんでいる女性たちのために、私設のセーフハウスを用意した。麻布の屋敷に近接した土地に、小さな二階建てのアパートを所有しており、近いうちに取り壊すつもりで、人を入れていなかった。その建物に簡単に手を入れて、行き場を失った女性たちのセーフハウスとして活用することにしたのだ。都内の弁護士が中心になって「暴力に悩む女性たちのための相談室」を開設しており、ボランティアが交代で面談や電話の相談を受けている。そこから老婦人のところに連絡がある。緊急の避難場所を必要とする女性たちが、セーフハウスに送り込まれてくる。小さな子供を連れている場合も少なくない。中には父親から性的暴行を受けている十代の娘たちもいる。彼女たちは落ち着き先が見つかるまで、そこに滞在する。当面の生活に必要なものは常備されている。食料品や着替えが支給され、彼女たちはお互いに助け合いながら一種の共同生活を送った。そのための費用は老婦人が個人的に負担した。

 弁護士とカウンセラーがセーフハウスを定期的に訪れ、彼女たちのケアをし、今後の対策を話し合った。老婦人も暇があれば顔を出して、そこにいる女性たち一人ひとりの話を聞き、適切なアドバイスを与えた。働き先や落ち着き先を探してやることもあった。もし物理的な介入が必要とされるトラブルが生じれば、タマルが出向いて適切に処理した。たとえば夫が行き先を知って、力ずくで妻を取り戻しにくるようなケースもないではない。そしてタマルより効果的に迅速にその手のトラブルを処理できる人間はいない。

「しかし私やタマルだけでは処理しきれないし、どのような法律をもってしても現実的な救済策を見いだせないというケースが中にはあります」と老婦人は言った。

 話すに連れて、老婦人の顔が特殊な赤銅色の輝きを帯びていくのを青豆は目にした。それに連れていつもの温厚で上品な印象は薄れ、どこかに消えていった。そこには単なる怒りや嫌悪感を超えた[#傍点]何か[#傍点終わり]がうかがえた。それはおそらく精神のいちばん深いところにある、硬く小さく、そして名前を持たない核のようなものだ。それでも声の冷静さだけは終始変わらない。

「もちろん、いなくなってしまえば離婚訴訟の手間が省けて、保険金がすぐに入るからというような実際的な理由だけで、人の存在を左右するわけにはいきません。すべての要素を拾い上げて公正に厳密に検討し、この男には慈悲をかけるだけの余地がないという結論に達したときにだけ、やむを得ず行動を起こします。弱者の生き血を吸ってしか生きていくことのできない寄生虫のような男たち。歪みきった精神を持ち、治癒の可能性もなく、更生の意志もなく、この世界でこれ以上生きていく価値をまったく見いだせない連中」

 老婦人は口を閉じ、岩壁を貫くような目でしばらく青豆を見ていた。そしてやはり穏やかな声で言った。

「そのような人々には[#傍点]何らかのかたち[#傍点終わり]で消えてもらうしかありません。あくまで世間の関心をひかないようなやり方で」

「そんなことが可能なのですか?」

「人が消えるにはいろんな消え方があります」と老婦人は言葉を選んで言った。そのあとしばらく時間を置いた。「私には[#傍点]ある種の[#傍点終わり]消え方を設定することができます。私にはそういう力があります」

 青豆はそれについて考えを巡らせた。しかし老婦人の表現はあまりに漠然としていた。

 老婦人は言った。「私たちはそれぞれに大切な人を理不尽なかたちで失い、深く傷ついています。その心の傷が癒えることはおそらくないでしょう。しかしいつまでも座して傷口を眺めているわけにはいきません。立ち上がって次の行動に移る必要があります。それも個別の復讐のためではなく、より広汎な正義のためにです。どうでしょう、よかったら私の仕事を手伝ってくれませんか。私は信頼の置ける有能な協力者を必要としています。秘密を分かち合い、使命を共にすることができる人を」

 話をひととおり整理し、彼女の言ったことを呑み込むのに時間がかかった。それは信じがたい告白であり提案だった。そしてその提案に対して気持ちを定めるには更に時間が必要だった。そのあいだ老婦人は椅子の上で姿勢を変えることなく、青豆を見つめながらただ沈黙をまもっていた。彼女は急いでいなかった。いつまでも待つつもりでいるようだった。

 この人は間違いなくある種の狂気の中にいる、と青豆は思った。しかし頭が狂っているのではない。精神を病んでいるのでもない。いや、その精神はむしろ冷徹なばかりに揺らぎなく安定している。実証に裏づけられてもいる。それは狂気というよりは狂気に[#傍点]似た何か[#傍点終わり]だ。正しい偏見と言った方が近いのかもしれない。今彼女が求めているのは、私がその狂気なり偏見なりを彼女と共有することなのだ。同じ冷徹さをもって。そうする資格が私にはあると彼女は信じている。

 どれほど長く考えていたのだろう。深く考えに耽っているうちに、時間の感覚がどこかで失われてしまったようだ。心臓だけが硬く一定のリズムを刻んでいた。青豆は自分の中にあるいくつかの小部屋を訪れ、魚が川を遡るように時間を遡った。そこには見慣れた光景があり、長く忘れていた匂いがあった。優しい懐かしさがあり、厳しい痛みがあった。どこかから入ってきた一筋の細い光が、青豆の身体を唐突に刺し貫いた。まるで自分が透明になってしまったような不思議な感覚があった。手をその光にかざしてみると、向こう側が透けて見えた。身体が急に軽くなったようだった。そのときに青豆は思った。今ここで狂気なり偏見なりに身を任せ、それで自分の身が破滅したところで、この世界がすっかり消えてなくなったところで、失うべきいったい何が私にあるだろう。

「わかりました」と青豆は言った。しばらく唇を噛んでから、また口を開いた。「私にできることがあれば、お手伝いしたいと思います」

 老婦人は両手を伸ばし、青豆の手を握りしめた。それ以来、青豆は老婦人と秘密を分かち合い、使命を、そして狂気に似た[#傍点]何か[#傍点終わり]を共にすることになった。いや、それはまったくの狂気そのものなのかもしれない。しかしその境界線がどこにあるのか、青豆には見きわめることができない。それに彼女が老婦人と共に遠い世界に送り込んだのは、どのような見地から見ても慈悲を与える余地を見いだせない男たちだった。

 

「この前あなたが渋谷のシティー・ホテルで、例の男を[#傍点]別の世界[#傍点終わり]に移してから、まだあまり時間は経っていません」と老婦人は静かに言った。「別の世界に移す」と彼女が言うと、まるで家具の移動の話でもしているみたいに聞こえた。

「あと四日でちょうど二ヶ月になります」と青豆は言った。

「まだ二ヶ月足らずです」と老婦人は続けた。「ですから、あなたにここで次の作業をお願いするというのは、どうみても好ましいことではありません。少なくとも半年は間隔を置きたいところです。間隔が詰まりすぎると、あなたの精神的な負担が大きくなります。なんと言えばいいのかしら——普通のことではないから。それに加えて、私の運営するセーフハウスに関わりのある男たちが心臓発作で亡くなる確率が、いささか高すぎるのではないかと首をひねる人がそのうちに出てくるかもしれません」

 青豆は小さく微笑んだ。そして言った。「世間には疑り深い人が多いから」

 老婦人も微笑んだ。「ご存じのように、私はきわめて慎重な人間です。偶然や見込みや幸運といったものをあてにしません。最後の最後までより穏やかな可能性を模索し、可能性がどうしてもないと判明したときにだけそれを選択します。そしてやむを得ず[#傍点]それ[#傍点終わり]を行うときには、考え得るあらゆるリスクを排除します。すべての要素を丹念に綿密に検討し、準備万端を整え、これで大丈夫と確信してからあなたにお願いします。ですからこれまでのところ、問題らしきものはひとつも起きていません。そうですね?」

「そのとおりです」と青豆は認めた。まさにそのとおりだった。道具を用意して指定された場所に足を運ぶ。状況は前もって念入りに設定されている。彼女は相手の首の後ろの決まったポイントに、鋭利な針を一度だけ打ち込む。そして相手が「別の場所に移動した」ことを確認してからそこを立ち去る。これまでのところすべては円滑にシステマチックに運ばれてきた。

「しかし今回の相手について言えば、心苦しいことですが、あなたにいくらか無理をお願いしないわけにはいかないようです。日程も十分に熟していませんし、不確定要素が多く、これまでのような整った状況を提供できない可能性があります。いつもとは少しばかり事情が違うのです」

「どんな風に違うのでしょう?」

「相手は普通の立場の男ではありません」と老婦人は慎重に言葉を選んで言った。「具体的に言えば、まず警護が厳しいのです」

「政治家か何かですか?」

 老婦人は首を振った。「いいえ、政治家ではありません。それについてはまたあとで話をしましょう。あなたを送り込まずに済む方法についても、ずいぶん考慮してみました。しかしどれをとってもうまく行きそうにありません。普通のやり方ではどうにも歯が立たないのです。申し訳ないけれど、あなたにお願いする以外に方法を思いつけませんでした」

「急を要する作業なのですか?」と青豆は尋ねた。

「いいえ、急を要するというのではありません。いついつまでにという期限があるわけでもありません。しかし遅くなれば、それだけ傷つく人が増えるかもしれません。そして私たちに与えられたチャンスは限定されたものです。次にいつそれが巡ってくるかも予測がつきません」

 窓の外はすっかり暗くなり、サンルームは沈黙に包まれていた。月は出ているのだろうか、と青豆は思った。しかし彼女の座った場所からは外が見えなかった。

 老婦人は言った。「事情はできる限り詳しく説明するつもりです。でもその前にあなたに会ってもらいたい人がいます。これから二人で彼女に会いに行きましょう」

「その人はこのハウスで生活しているのですか?」と青豆は尋ねた。

 老婦人はゆっくりと息を吸い込み、喉の奥で小さな音を立てた。その目にはいつもは見受けられない特別な光が浮かんでいた。

「六週間前に相談所からここに送られてきました。四週間はひとことも口をきかず、放心状態というか、とにかくすべての言葉を失っていました。わかったのは名前と年齢だけ、ひどい格好で駅に寝泊まりしているところを保護され、あちこちたらい回しにされた末に、うちに送られてきたのです。私が時間をかけて少しずつ話をしました。ここは安全なところで、怯える必要はないのだとわからせるまでに時間がかかりました。今では、いくらか口をきくようになりました。混乱した細切れな話し方ですが、断片を組み合わせると、何が起こったのかおおよそ理解できました。とても口に出せないようなひどいことです。いたましいことです」

「やはり夫からの暴力なのですか?」

「いいえ」と老婦人は乾いた声で言った。「彼女はまだ十歳です」

 

 老婦人と青豆は二人で庭を抜け、鍵を開けて小さな木戸をくぐり、隣地にあるセーフハウスに向かった。こぢんまりとした木造アパートで、昔、屋敷で働く使用人がもっと沢山いた頃、主にそのような人々の住居として使われていた。二階建てで、建物自体には趣があるのだが、住居として一般に貸すにはいくぶん老朽化している。しかし行き場所のない女性たちのとりあえずの避難場所としては不足はなかった。古い樫の木が建物を護るように枝を大きく広げ、玄関のドアには美しい図柄の型板ガラスが入っていた。部屋は全部で十あった。混んでいる時期もあり、すいている時期もあったが、だいたいは五人か六人の女たちがそこでひっそりと暮らしていた。今は半分ほどの部屋の窓に明かりがついている。ときおり小さな子供たちの声が聞こえるほかは、いつも奇妙なほど静まりかえっている。まるで建物自体が息を潜めているみたいにも見える。生活につきものの雑多な物音がそこにはない。門の近くに雌のドイツ・シェパードが一匹繋がれていて、人が近寄ると低くうなり、それから何度か吠えた。誰がどのような方法で訓練したのかはわからないが、犬は男が近寄ると激しく吠えるようにしつけられていた。それでも犬がもっともなついているのはタマルだった。

 老婦人が近づいていくと、犬はすぐに吠えるのをやめ、しつぼを大きく振り、嬉しそうに鼻を鳴らした。老婦人は身をかがめて、その頭を何度か軽く叩いた。青豆も耳の後ろを掻いてやった。犬は青豆の顔を覚えていた。頭の良い犬なのだ。そしてなぜか生のほうれん草を好んで食べる。それから老婦人は鍵を使って玄関のドアを開けた。

「ここにいる女性の一人が、その子の面倒を見てくれています」と老婦人は青豆に言った。一緒の部屋に住んで、できるだけ目を離さないようにしてもらっています。その子ひとりきりにしておくのはまだちょっと心配だったから」

 セーフハウスでは女たちは日常的にお互いの面倒をみて、自分たちがくぐり抜けてきた体験を語り合い、受けた痛みを分かち合うことが暗黙のうちに奨励されていた。そうすることによって彼女たちは少しずつ、自然に治癒されていくことが多かった。前から滞在しているものが、あとから来たものに生活の要領を教え、必需品の受け渡しをした。掃除や料理はいちおう当番制になっていた。もちろん中には一人きりになりたい、何ひとつ体験を語りたくないというものもいた。そのような女性たちは孤独と沈黙を尊重された。しかし大半の女性は、同じような目にあってきたほかの女性と率直に体験を語り合い、関わり合うことを望んだ。ハウス内での飲酒と喫煙、そして許可のない人の出入りは禁止されているが、他にはこれといって制約はない。

 アパートには電話がひとつ、テレビがひとつあり、それらは玄関のわきにある共同のホールに置かれていた。ホールにはまた古いソファ・セットとダイニングテーブルがあった。女たちの多くは、一日の大半の時間をその部屋で過ごしているようだった。しかしテレビがつけられることはほとんどなかった。テレビがついていても、音量は聞こえるか聞こえないかという程度だ。女性たちはむしろ一人で本を読んだり、新聞を広げたり、編み物をしたり、額を寄せて誰かとひそひそ声で語り合うことの方を好んだ。中には一日絵を描いているものもいた。そこは不思議な空間だった。現実の世界と、死後の世界の中間にあるかりそめの場所みたいに、光がくすんで淀んでいた。晴れた日にも曇った日にも、昼間でも夜でも、同じ種類の光がそこにはあった。その部屋を訪れるたびに、青豆は自分が場違いな存在であり、無神経な闖入者であるように感じた。それは特別な資格が必要とされるクラブのようなものだった。彼女たちが感じている孤独は、青豆が感じている孤独とは違った成り立ちのものだった。

 老婦人が顔を見せると、居間にいた三人の女たちが立ち上がった。彼女たちが老婦人に深い敬意を抱いていることは一目で見て取れた。老婦人は女たちを座らせた。

「そのままでかまいません。つばさちゃんと話をしたいだけだから」

「つばさちゃんはお部屋にいます」、おそらく青豆と同年代と思える女性が言った。髪はまっすぐで長い。

「佐恵子さんと一緒です。まだ下には降りてこられないみたいです」ともう少し年上の女性が言った。

「まだ少し時間がかかるでしょう」と老婦人はにこやかに言った。

 三人の女性たちは黙ってそれぞれに肯いた。時間がかかるというのが何を意味しているのか、彼女たちにはよくわかっていた。

 

 二階にあがって部屋に入ると、老婦人はそこにいたどことなく影の薄い小柄な女性に、しばらく席を外してくれませんかと言った。佐恵子さんと呼ばれる女性は淡く微笑み、部屋を出てドアを閉め、階段を降りていった。あとにはつばさという十歳の女の子が残った。部屋には食事用の小さなテーブルが置かれていた。女の子と老婦人と青豆は三人でそのテーブルについた。窓には厚いカーテンが引かれていた。

「このお姉さんはアオマメさんっていうの」と老婦人は少女に向かって言った。「私といっしょにお仕事をしている人。だから心配しなくていい」

 少女は青豆の顔をちらりと見て、それからかすかに肯いた。見逃してしまいそうなくらいの小さな動きだ。

「この子はつばさちゃん」と老婦人は紹介した。そして少女に尋ねた。「つばさちゃんはここに来てどれくらいになるのかな?」

 わからない、という風に少女は首をやはりほんの少し横に振った。一センチもないくらいだろう。

「六週間と三日」と老婦人は言った。「あなたは数えていないかもしれないけど、私はちゃんと数えているのよ。どうしてだかわかる?」

 少女はまたかすかに首を横に振った。

「ある場合には、時間というのはとても大事なものになるからよ」と老婦人は言った。「ただそれを数えるということが、大きな意味を持つことになるの」

 青豆の目には、つばさという女の子はどこにでもいる十歳の女の子として映った。その年齢にしては背は高い方だろうが、やせて胸の膨らみはまだなかった。慢性的に栄養が不足しているみたいに見える。顔立ちは悪くないのだが、印象がひどく薄い。瞳は曇ったガラス窓を思わせた。のぞき込んでも内側がよく見えない。乾いた薄い唇はときおり落ち着きなく動いて、何かの言葉を形づくろうとしているようにも見えたが、それが実際に音になることはなかった。

 老婦人は持参した紙袋からチョコレートの箱を出した。スイスの山あいの風景が箱に描かれていた。ひとつひとつかたちの違う美しいチョコレートが一ダースばかりそこに入っていた。老婦人はそのひとつをつばさに差し出し、ひとつを青豆に差し出し、ひとつを自分の口に入れた。青豆もそれを口に入れた。二人がそうするのを見届けてから、つばさも同じようにそれを食べた。三人はしばらく黙ってチョコレートを食べていた。

「あなたは自分が十歳だったときのことを覚えていますか?」と老婦人は青豆に尋ねた。

「よく覚えています」と青豆は言った。その年に彼女は一人の男の子の手を握り、一生彼を愛し続けることを誓った。その数ヶ月後に初潮を迎えた。青豆の中でそのときに多くのものごとが変化を遂げた。彼女は信仰を離れ、両親と縁を切ることを決断した。

「私もよく覚えています」と老婦人は言った。「十歳の年に、父親に連れられてパリに行き、そこに一年ばかり滞在しました。父親は当時外交官の仕事をしていました。私たちはリュクサンブール公園の近くにある古いアパルトマンに住んでいました。第一次世界大戦の末期で、駅は負傷した兵隊さんであふれていました。まだ子供のような兵隊さんもいれば、年老いた人もいました。パリはすべての季節をとおして息を呑むほど美しい街ですが、私には血まみれの印象しか残っていません。前線では激しい錘壕戦が繰り広げられており、腕や脚や目を失った人々が、見捨てられた亡霊のように通りをさすらっていました。彼らの巻いた包帯の白さと、女たちの腕につけられた喪章の黒さばかりが目につきました。多くの新しい棺が墓地に向けて、馬車で運ばれていきました。棺が通り過ぎていくとき、道を行く人々は目をそらし、口をつぐみました」

 老婦人はテーブル越しに手を伸ばした。少女は少し考えてから、膝の上に置いていた手をあげ、老婦人の手の上に重ねた。老婦人は少女の手を握った。老婦人もおそらくは少女時代、パリの街角で棺を積み重ねた馬車とすれ違うとき、父親か母親に同じようにしっかりと手を握られたのだろう。そして何も心配することはないと励まされたのだろう。大丈夫、お前は安全な場所にいる、何もおそれなくていいのだ、と。

「男たちは毎日数百万匹の精子をつくります」と老婦人は青豆に言った。「そのことは知っていましたか?」

「細かい数は知りませんが」と青豆は言った。

「端数まではもちろん私も知りません。とにかく無数です。彼らはそれを一度に送り出します。しかし女性が送り出す成熟した卵子の数は限られています。いくつか知っていますか?」

「正確には知りません」

「生涯を通しても約四百個に過ぎません」と老婦人は言った。「卵子は月々新しくつくられるわけではなく、それは生まれたときから女性の体内にそっくり蓄えられています。女性は初潮を迎えたあと、それを月にひとつずつ成熟させ外に出していくのです。この子の中にもそんな卵子が蓄えられています。まだ生理は始まっていませんから、ほとんど手つかずであるはずです。引き出しの中にしっかりと納められているはずです。それらの卵子の役目は言うまでもなく、精子を迎え入れて受胎することです」

 青豆は肯いた。

「男性と女性のメンタリティーの違いの多くは、このような生殖システムの差違から生まれているようです。私たち女性は、純粋に生理学的見地から言えば、限定された数の卵子を護ることを主題として生きているのです。あなたも、私も、この子も」、そして彼女は淡い微笑みを口元に浮かべた。「私の場合はもちろん、[#傍点]生きてきた[#傍点終わり]と過去形になりますが」

 私はこれまで既にざっと二百個の卵子を排出したことになる、と青豆は頭の中で素早く計算した。だいたいあと半分が私の中に残っている。おそらくは「予約済み」という札を貼られて。

「しかし彼女の卵子が受胎をすることはありません」と老婦人は言った。「先週、知り合いの医師に検査をしてもらいました。彼女の子宮は破壊されています」

 青豆は顔をゆがめ、老婦人を見た。それから小さく首を曲げて少女に目をやった。言葉はなかなか出てこなかった。「破壊された?」

「そうです。破壊されたのです」と老婦人は言った。「手術をしても、もとに戻ることはありません」

「いったい誰がそんなことを?」と青豆は言った。

「はっきりしたことはまだわかりません」と老婦人が言った。

「リトル・ピープル」と少女が言った。

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