1Q84上:第24章 天吾 ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう

发表于:2015-05-10 22:52 [只看楼主] [划词开启]
时间:2015-05-10 22:51~2015-05-31 02:00
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第24章 天吾

      ここではない世界であることの

      意味はどこにあるのだろう

 

 

 木曜日は朝から雨が降っていた。それほど激しい降りではないが、おそろしく執拗な性質を持った雨だった。前日の昼過ぎに降り始めてから一度も降り止んでいない。そろそろ降り止みそうかなと思ったところで、また思い出したように雨脚が強くなる。すでに七月も半ば過ぎだというのに、梅雨が終わる気配はまるで見えなかった。空は蓋をかぶせられたように暗く、世界中が重い湿り気を帯びていた。

 昼前、レインコートを着て帽子をかぶり、近所に買い物に行こうとして、郵便受けにパッド入りの分厚い茶色の封筒が入っているのを目にした。封筒には消印はなく、切手も貼られていない。住所も書かれていない。差出人の名前もない。表の中央にはボールペンの小さな堅い字で「天吾」と書いてあった。乾いた粘土の上を釘でひっかいたような書体だ。いかにもふかえりの書きそうな字だった。封を切ると、中にはきわめて事務的な見かけのTDKの六十分テープが一本入っていた。手紙もメモも何も添えられていない。ケースもなく、テープにラベルも貼られていない。

 天吾は少し迷ったが、買い物に出るのはやめて、部屋に戻ってそのテープを聴いてみることにした。カセットテープを宙にかざし、それから何度か振ってみた。いくぶん謎めいた趣はあるにせよ、どう見てもあたりまえの大量生産品だ。再生してみたらカセットテープが爆発した、というようなこともなさそうだ。

 彼はレインコートを脱ぎ、台所のテーブルの上にラジオカセットを置いた。封筒からカセットテープを取り出し、そこにセットした。記録を必要とするときのために、メモ用紙とボールペンを用意した。あたりを見まわして誰もいないことを確認してから再生ボタンを押した。

 始めのうち何の音も聞こえなかった。無音の部分がひとしきり続いた。ただのブランク・テープじゃないのかと思い始めたときに、急にごとごとという背景音が聞こえた。椅子を引く音のようだ。軽い咳払い(らしきもの)も聞こえた。それから唐突にふかえりが話し始めた。

「テンゴさん」とふかえりが発声のテストをするみたいに言った。ふかえりが天吾の名前をまともに呼んだのは、天吾の記憶によれば、おそらくそれが初めてだ。

 彼女はもう一度咳払いをした。少し緊張しているようだ。

 

[#ここから1字下げ]

 てがみをかけるといいんだけどにがてなのでテープにふきこむ。でんわをするよりこっちのほうがラクにはなせる。でんわはたちぎきしているかわからない。ちょっとまってみずをのむ。

[#ここで字下げ終わり]

 

 ふかえりがグラスを手に取り、一口飲み、それを(たぶん)テーブルの上に戻す音が聞こえた。アクセントや疑問符や読点を欠いた、彼女の独特のしゃべり方は、テープに吹き込まれると、会話をしているとき以上に普通ではない印象を聞くものに与えた。非現実的と言ってもいいくらいだ。しかしとにかくテープでは会話のときとは違って、彼女は複数のセンテンスを積み重ねて話していた。

 

[#ここから1字下げ]

 わたしのゆくえがわからなくなっていることをミミにした。しんぱいしているかもしれない。でもだいじょうぶわたしはいまのところきけんのないところ。そのことをしらせたかった。ほんとうはいけないのだけれどしらせたほうがいいとおもった。

(十秒の沈黙)

 だれにもおしえないようにいわれている。わたしがここにいると。センセイはわたしのソウサクねがいをケイサツにだした。しかしケイサツはうごきださない。こどもがイエデをするのはめずらしいことではないし。だからわたしはしばらくここでじつとしている。

(十五秒の沈黙)

 ここはとおくのバショでそとをあるきまわったりしないかぎりだれにもみつからない。とてもとおく。アザミがこのテープをとどける。ユウビンでおくるのはよくない。チュウイふかくならなくてはならない。ちょっとまって。ロクオンされているかみてみる。

(かたんという音。少し間が空く。また音がする)

 だいじょうぶロクオンされている。

[#ここで字下げ終わり]

 

 遠くの方で子供たちが叫んでいる声が聞こえる。微かに音楽も聞こえる。たぶん開いた窓の外から入ってくる音だろう。近くに幼稚園があるのかもしれない。

 

[#ここから1字下げ]

 このあいだへやにとめてくれてありがとう。そうするヒツヨウがあった。あなたのことをしるヒツヨウもあった。ホンをよんでくれてありがとう。ギリヤークじんにはこころをひかれる。ギリヤークじんはなぜひろいドウロをあるかないでもりのぬかるみをあるくのか。

(天吾はそのあとにそっと疑問符を添えた)

 ドウロがべんりでもギリヤークじんたちはドウロからはなれてもりをあるいたほうがラクだ。ドウロをあるくにはあるくことをはじめからつくりなおさなくてはならない。あるくことをつくりなおすとほかのこともつくりなおさなくてはならない。わたしはギリヤークじんのようにはくらせない。おとこたちにしょっちゅうぶたれるのもいやだ。うじのたくさんいるフケツなくらしもいやだ。でもわたしもひろいドウロをあるくことはあまりすきではない。またみずをのむ。

[#ここで字下げ終わり]

 

 ふかえりはまた水を飲んだ。しばし沈黙の時間があり、グラスがことんという音を立ててテーブルの上に戻された。それから指先で唇を拭う間があった。この少女はテープレコーダーに録音一時停止ボタンがついていることを知らないのだろうか?

 

[#ここから1字下げ]

 わたしがいなくなってこまるかもしれない。でもわたしはショウセツカになるつもりはないしこれいじょうなにかをかくつもりもない。ギリヤークじんについてアザミにしらべてもらった。アザミはとしょかんにいってしらべた。ギリヤークじんはサハリンにすんでいてアイヌやアメリカ・インディアンとおなじでジをもたない。キロクものこさない。わたしもおなじ。いったんジになるとそれはわたしのはなしではなくなる。あなたはうまくそれをジにかえたしだれもあなたのようにはうまくできなかったとおもう。でもそれはもうわたしのはなしではない。でもしんぱいない。あなたのせいではない。ひろいドウロからはなれてあるいているだけだから。

[#ここで字下げ終わり]

 

 そこでふかえりはまた間を置いた。天吾はその少女が広い道路から離れたところを、一人で黙々と歩いている光景を想像した。

 

[#ここから1字下げ]

 センセイはおおきなちからとふかいちえももっている。でもリトル・ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル・ピープルがいる。リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。

[#ここで字下げ終わり]

 

 ふかえりはそれだけをほとんど一息に言ってしまうと、大きく深呼吸をした。マイクから顔を背けずにそうしたものだから、ビルの谷間を吹き抜ける突風のような音が録音されていた。それが収まると、今度は遠くの方で自動車がクラクションを鳴らす音が聞こえた。大型トラック特有の、霧笛のような深い音だ。短く二度。彼女のいるところは幹線道路から遠くないところのようだ。

 

[#ここから1字下げ]

(咳払い)こえがかすれてきた。わたしのことをしんぱいしてくれてありがとう。わたしのムネのかたちをきにいってくれてへやにとめてくれてパジャマをかしてくれてありがとう。あえることはしばらくないかもしれない。リトル・ピープルのことをジにしたことでリトル・ピープルははらをたてているかもしれない。でもしんぱいしなくていい。わたしはもりになれている。さよなら。

[#ここで字下げ終わり]

 

 そこで音がして、録音が終わった。

 天吾はスイッチを押してテープを停め、頭のところまで巻き戻した。軒から落ちる雨だれを聴きながら、何度か深呼吸をし、手の中でプラスチックのボールペンをくるくると回した。それからボールペンをテーブルの上に置いた。天吾は結局なにひとつメモに書き留めなかった。ただふかえりのいつもながら特徴的な語り声にじつと聞き入っていただけだ。しかし書き留めるまでもなく、ふかえりのメッセージのポイントははっきりしていた。

 

[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]

(1)彼女は誘拐されたのではなく、しばらくどこかに姿を隠しているだけだ。心配することはない。

(2)これ以上本を出すつもりはない。彼女の物語は口述のためのものであって、活字には馴染まない。

(3)リトル・ピープルは戎野先生に負けない知恵と力を持っている。気をつけること。

[#ここで字下げ終わり]

 

 その三つが、彼女の伝えようとしたポイントだった。ほかにはギリヤーク人の話。広い道路から離れて歩かなくてはならない一群の人々。

 天吾は台所に行ってコーヒーを作った。そしてコーヒーを飲みながら、カセットテープをあてもなく眺めた。そして冒頭からもう一度テープを聴き直してみた。今度は念のために、ところどころで一時停止ボタンを押し、要点を簡単に書き留めていった。そして書き留めたものを目で辿ってみた。そこにとくに新しい発見はなかった。

 ふかえりは最初に簡単なメモを作って、それに沿って話をしたのだろうか? 天吾にはそうは思えなかった。そういうタイプじゃない。リアルタイムで(一時停止ボタンさえ押さず)、思いつくままにマイクに向かってしゃべったに違いない。

 彼女はいったいどんな場所にいるのだろう。録音された背景音は、それほど多くのヒントを天吾に与えてはくれなかった。遠くでドアがばたんと閉まる音。開いた窓から入ってくるらしい子供の叫び声。幼稚園? 大型トラックのクラクション。ふかえりのいる場所はどうやら深い森の中ではないらしい。そこはどこかの都会の一角のように思える。おそらく時刻は朝遅くか、あるいは昼下がりだ。ドアが閉まる音は、彼女が一人きりでいるのではないことを示唆しているかもしれない。

 ひとつはっきりしているのは、ふかえりが自ら進んでその場所に身を隠しているということだ。

それは誰かに強制されて吹き込まされたテープではない。声やしゃべり方を聞けばわかる。冒頭の部分で多少の緊張はうかがえるものの、それを別にすれば彼女は自由に、マイクに向かって自分が思った通りのことを語っているようだ。

 

[#ここからゴシック体]

 センセイはおおきなちからとふかいちえももっている。でもリトル・ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル・ピープルがいる。リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。

[#ここでゴシック体終わり]

 

 天吾はその部分をもう一度再生してみた。ふかえりはその部分をいくぶん早口でしゃべっていた。センテンスとセンテンスのあいだに入る間も心持ち短かった。リトル・ピープルは天吾に対して、あるいは戎野先生に対して、害をなす可能性を持つ存在なのだ。しかしふかえりの口調には、リトル・ピープルを邪悪なものとして決めつける響きは聴き取れなかった。彼女の言い方からすれば、彼らはどちらにでも転ぶ中立的な存在のように感じられた。もう一カ所、天吾に気にかかる部分があった。

 

 [#ゴシック体]リトル・ピープルのことをジにしたことでリトル・ピープルははらをたてているかもしれない。[#ゴシック体終わり]

 

 もし本当にリトル・ピープルが腹を立てているのだとしたら、その腹立ちの対象の中には当然ながら天吾も含まれているはずだった。なにしろ彼らの存在を活字のかたちにして世間に広めた張本人のひとりなのだから。悪意はなかったと弁解してもきつと聞き入れてはもらえないだろう。

 リトル・ピープルはいったいどのような害を人にもたらすのだろう? しかしそんなことが天吾にわかるわけはなかった。天吾はカセットテープをもう一度巻き戻し、封筒に入れて抽斗にしまった。もう一度レインコートを着込み、帽子をかぶり、降りしきる雨の中を買い物に出かけた。

 

 その夜の九時過ぎに小松から電話がかかってきた。そのときも受話器を取る前から、それが小松からの電話だとわかった。天吾はベッドに入って本を読んでいた。三度ベルを鳴らしておいてからゆっくり起きあがり、台所のテーブルの前で受話器をとった。

「よう天吾くん」と小松は言った。「今、酒は飲んでるか?」

「いいえ、素面です」

「この話のあとでは酒が飲みたくなるかもしれない」と小松は言った。

「さぞかし愉快な話なんでしょうね」

「どうだろう。それほど愉快な話ではないと思うね。逆説的なおかしみならいくらかあるかもしれないが」

「チェーホフの短編小説のように」

「そのとおり」と小松は言った。「チェーホフの短編小説のように。言い得て妙だ。天吾くんの表現はいつも簡潔で当を得ている」

 天吾は黙っていた。小松は続けた。

「いささか面倒なことになってきた。戎野先生の出したふかえりの捜索願を受けて、警察が捜索を公式に開始したんだ。まあ警察だって本腰を入れて捜査するところまではいかないだろう。身代金の請求が来ているわけでもないしな。ただうっちゃっておいて、何かがあると具合が悪いからとりあえず動いているというところを見せておくだけだろう。ただしマスコミはそんなに簡単に放っておいちゃくれない。俺のところにもいくつか新聞から問い合わせが来た。俺はもちろん『なんにも知らない』という姿勢を貫いたよ。だって今のところ話すことなんて何もないからな。連中は今頃はもうふかえりと戎野先生の関係、そして革命家としての両親の経歴みたいなものを洗い出しているはずだ。そういう事実もおいおい表に出てくるだろう。問題は週刊誌だ。フリーのライターだかジャーナリストだかが、血の臭いを嗅ぎつけた鮫みたいにうようよ集まってくる。あいつらはみんな腕がいいし、食いついたら放さない。なにしろ生活がかかっているからな。プライバシーとか節度とか、そんなものにはかまっちゃいられない。同じ物書きでも、天吾くんみたいなおっとりした文学青年とはわけが違うからね」

「だから僕も気をつけた方がいいということですか」

「そのとおり。覚悟して身辺を固めておいた方がいい。どこから何を嗅ぎつけるか知れたものじゃないからな」

 小さなボートが鮫の群れに取り囲まれている情景を、天吾は頭の中で想像した。しかしそれはうまい落ちがついていない一コマ漫画にしか見えなかった。「リトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない」とふかえりは言った。それはいったいどんなものなのだろう?

「しかし小松さん、こういう風になるというのが、戎野先生がそもそも目論んでいたことじゃなかったんですか」

「ああ、そうかもな」と小松は言った。「俺たちは体よく利用されたということになるのかもしれない。しかし先方の考えは最初からある程度わかってはいたんだ。先生は決して自分の目論見を隠していたわけではなかったからね。そういう意味ではまあ、フェアな取り引きではあった。その時点でこっちも『先生、そいつはやばいですよ。ちょっと乗れませんね』と断ることもできた。まともな編集者なら間違いなくそうしていたはずだ。ところが俺は天吾くんも知ってのとおり、まともな編集者とは言えない。そのとき事態は既に前に進み出していたし、こっちにも欲があった。それでいささか脇が甘くなったかもしれない」

 電話口で沈黙があった。短いが緊密な沈黙だった。

 天吾が口を開いた。「つまり小松さんの立てた計画は途中から戎野先生に乗っ取られたような格好になったわけだ」

「そういう言い方もできるだろう。つまりあっちの思惑の方がより強く前に出てきたということになる」

 天吾は言った。「戎野先生はこの騒ぎをうまく着地させられると思いますか?」

「戎野先生はもちろんできると考えている。読みの深い人だし、自信家だからな。あるいはそのとおりうまくいくかもしれない。しかしもし今回の騒ぎが、戎野先生の思惑さえ超えたものになってしまったら、あるいは収拾がつかなくなるかもしれない。どんなに優れた人間であれ、一人の人間の能力には限界というものがある。だからシートベルトだけはしっかり締めておいた方がいい」

「小松さん、墜落する飛行機に乗り合わせたら、シートベルトをいくらしっかり締めていたところで、役には立ちませんよ」

「しかし気休めにはなる」

 天吾は思わず微笑んでしまった。力のない微笑みではあったけれど。「それがこの話の骨子ですか? 決して愉快ではないけれど、逆説的なおかしみならいくらかあるかもしれない話の?」

「君をこんなことに巻き込んで悪かったとは思っているんだ。正直なところ」と小松は表情を欠いた声で言った。

「僕のことはかまいません。とくに失って困るようなものはありません。家族もいないし、社会的地位もないし、たいした将来があるわけでもない。それより心配なのはふかえりのことです。まだ十七歳の女の子ですよ」

「俺にももちろんそれは気になる。気にならないわけがないさ。しかしそれは、今ここで俺たちがあれこれ考えたところで、どうにもならんことだよ、天吾くん。とりあえずは、俺たちが強風をくらってどっかに飛ばされないように、身体をしっかりしたところに縛りつけておくことを考えよう。当分新聞はこまめに読んでおいた方がいいぜ」

「ここのところ、新聞は毎日読むように心がけています」

「それがいい」と小松は言った。「ところでふかえりの行方について、何か思い当たる節はないか? どんなことでもいいんだけど」

「何もありません」と天吾は言った。彼は嘘をつくのが得意ではない。そして小松には妙に勘の良いところがある。しかし小松は、天吾の声の微妙な震えには気がつかないようだった。自分のことで頭がいっぱいなのだろう。

「何かあったらまた連絡をする」、小松はそう言って電話を切った。

 受話器を置いたあと天吾がまずやったのは、グラスを出し、バーボン・ウィスキーを二センチばかり注ぐことだった。小松の言ったとおり、電話のあとには酒が必要だった。

 

 金曜日にガールフレンドがいつもどおり彼の部屋にやってきた。雨は降り止んでいたが、空はまだ灰色の雲に隙間なく覆われていた。二人は軽く食事をし、ベッドに入った。天吾はセックスのあいだもいろんなことを切れ切れに考え続けていたが、それが性行為のもたらす肉体的な喜びを損なうことはなかった。彼女は天吾の中にある一週間ぶんの性欲を、いつもどおり手際よく引き出し、てきぱきと処理していった。そして彼女自身もそこから十分な満足を味わった。帳簿の数字の複雑な操作に深い喜びを見いだす有能な税理士のように。それでもやはり、天吾がほかの何かに気をとられていることを、彼女は見抜いたようだった。

「ここのところ、ウィスキーがかなり減っているみたいだけど」と彼女は言った。その手はセックスの余韻を味わうように、天吾の厚い胸に載せられていた。薬指には小振りな、しかしよく輝くダイヤモンドの結婚指輪がはまっている。ずいぶん以前から棚に置きっぱなしになっているワイルド・ターキーの瓶のことを、彼女は言っているのだ。年下の男と性的な関係を持っている中年の女性の多くがそうであるように、彼女はいろんな風景の細かい変化に目をとめた。

「最近、夜中に目が覚めることが多いんだ」と天吾は言った。

「恋をしているんじゃないわよね」

 天吾は首を振った。「恋はしていない」

「仕事がうまくいかないとか?」

「仕事は今のところ順調にはかどっている。少なくとも[#傍点]どこか[#傍点終わり]には進んでいる」

「それにもかかわらず、何か気にかかることがあるみたい」

「どうだろう。ただうまく眠れないだけだよ。そういうことってあまりないんだけどね。僕はもともと眠るときはぐっすり眠るタイプだから」

「かわいそうな天吾くん」と彼女は言って、天吾の睾丸を、指輪をはめていない方の手のひらでやさしくマッサージした。「それで、いやな夢は見る?」

「夢はほとんど見ない」と天吾は言った。それは事実だった。

「私はよく夢を見る。それも同じ夢を何度も見るの。夢の中で『これは前にも見たことあるよ』って、自分で気がつくことがあるくらい。そんなのって変だと思わない?」

「たとえばどんな夢?」

「たとえば、そうねえ、森の中にある小屋の夢」

「森の中の小屋」と天吾は言った。彼は森の中にいる人々のことを考えた。ギリヤーク人、リトル・ピープル、そしてふかえり。「それはどんな小屋なんだろう?」

「ほんとにその話を聞きたいの? 他人の夢の話なんて退屈じゃない」

「いや、そんなことはない。よかったら聞きたいな」と天吾は正直に言った。

「私は森の中を一人で歩いている。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだような、深い不吉な森じゃない。軽量級の明るっぽい森なの。午後で、温かくて気持ちよくて、私はそこを気楽な感じで歩いている。すると行く手に小さな家があるの。煙突がついていて、小さなポーチがある、窓にはギンガム・チェックのカーテンがかかっている。要するにけっこうフレンドリーな外観なの。私はドアをノックして、『こんにちは』って言う。でも返事はない。もう一度前より少し強くノックしたら、ドアが勝手に開いた。ちゃんと閉まっていなかったのね。私は家の中に入る。『こんにちは。あの、誰もいないんですか。中に入りますけど』って断りながら」

 彼女は睾丸を優しく撫でながら、天吾の顔を見た。「そこまでの雰囲気ってわかる?」

「わかるよ」

「一部屋しかない小屋なの。とてもシンプルな作り。小さな台所があり、ベッドがあり、食堂がある。真ん中に薪ストーブがあり、テーブルには四人分の料理がきれいに並べられている。お皿からは白い湯気が立っている。ところがうちの中には誰もいない。食事の用意もできて、さあみんなでいただこうというときに、何か異様なことが起こって、たとえば怪物みたいなものがひょいと現れて、みんながあわてて外に逃げ出していったみたいな感じなの。でも椅子は乱れていない。すべては平穏で、不思議なくらい日常的なままなの。ただ人がいないだけ」

「テーブルの上にあったのはどんな料理だった?」

 彼女は首を傾げた。「それは思い出せない。そういえば、どんな料理だったんだろう。でもね、料理の内容はそこでは問題じゃないの。それがアツアツの[#傍点]できたてだった[#傍点終わり]ということが問題なの。何はともあれ私は椅子のひとつに腰を下ろして、そこに住む家族が戻ってくるのを待っている。そのときの私には、彼らの帰りを待つ必要があったわけ。どんな必要だかはわからない。なにしろ夢だから、すべての事情がきちんと説明されているわけじゃない。たぶん帰り道を教えてほしいとか、何かを手に入れなくてはならなかったとか、何かそういうこと。それでとにかく、私はその人たちの帰りをじつと待っている。しかしどれだけ待っても、誰も帰ってこない。食事は湯気を立て続けている。それを見ていると、私はすごくお腹が減ってくる。しかしいくらお腹が減ったからといって、そのうちの人がいないのに、勝手にテーブルの上の料理に手をつけるわけにはいかない。そう思うでしょ?」

「たぶんそう思うと思う」と天吾は言った。「夢の中のことだから、僕にもそれほど自信が持てないけど」

「でもそうこうするうちに日が暮れてくるの。小屋の中もうす暗くなってくる。まわりの森はどんどん深くなっていく。小屋の中の明かりをつけたいんだけど、つけ方がわからない。私は次第に不安になってくる。そしてあることにふと気がつく。不思議なことに、料理から立ち上る湯気の量はさっきからぜんぜん減らないのよ。何時間もたっているのに、料理はみんな[#傍点]ほかほか[#傍点終わり]のままなの。それでどうも変だなって私は思い始める。何かが間違っている。そこで夢は終わる」

「そのあとにどんなことが起こるかはわからない」

「きつと何かがそのあとに起こるんだと思う」と彼女は言った。「日が暮れて、帰り道もわからなくて、そのわけのわからない小屋の中で私は一人ぼっちでいる。何かが起ころうとしている。それはあまり好ましいことではないような気がする。でもいつもそこで夢は終わる。そして何度も何度も、その同じ夢を繰り返し見るの」

 彼女は睾丸を撫でるのをやめて、天吾の胸に頬をつけた。「その夢は何かを示唆しているのかもしれない」

「たとえばどんなことを?」

 彼女は質問には答えなかった。かわりに質問をした。「天吾くん、この夢のいちばん恐ろしい部分がどういうところかを聞きたい?」

「聞きたい」

 彼女が深く息を吐くと、それは狭い海峡を越えて吹き渡ってくる熱風のように天吾の乳首にあたった。「それはね、私自身がその怪物なのかもしれないということなの。あるときその可能性に思い当たった。私が歩いて近づいてきたからこそ、それを目にした人々はあわてて食事を中断し、家から逃げ出していったんじゃないか。そして私がそこにいる限り、その人たちは戻ってくることができないんじゃないか。しかしそれにもかかわらず、私は小屋の中で彼らの帰りをじつと待ち続けていなくてはならない。そう考えるととても怖い。救いってものがないじゃない」

「それとも」と天吾は言った。「そこは君自身の家で、君は逃げ出した自分自身を待っているのかもしれない」

 そう口にしてしまってから、そんなことは言うべきではなかったと天吾は気づいた。しかしいったん出てしまった言葉は引っ込められない。彼女は長く黙っていた。それから彼の睾丸を思い切り握った。呼吸ができなくなってしまうくらい強く。

「どうしてそんなひどいことを言うの?」

「意味はないよ。ただふと思いついたんだ」、天吾はなんとか声を絞り出した。

 彼女は睾丸を握った手をゆるめ、ため息をついた。そして言った。「今度は何かあなたの夢の話をして。天吾くんの見る夢の話」

 天吾はようやく呼吸を整えて言った。「さっきも言ったように僕はほとんど夢を見ないんだ。とくにここ最近は」

「少しくらいは見るでしょう。まったく夢を見ない人なんて世界のどこにもいないんだから。そんなことを言ったら、フロイト博士が気を悪くするわよ」

「見てるのかもしれないけど、目が覚めたら夢のことはろくに覚えてないんだ。何か夢を見たらしいという感触が残っていても、内容はまるで思い出せない」

 彼女は柔らかくなったままの天吾のペニスを手のひらに載せ、その重さを慎重にはかった。まるでその重みが何か重要な事実を物語っているみたいに。「じゃあ、夢の話はいい。そのかわり今書いている小説の話をして」

「今書いている小説の話は、できればしたくないんだ」

「あのね、筋書きを頭から全部そっくり話せっていってるわけじゃないのよ。私だってそこまでは要求しない。天吾くんが体格のわりにセンシティブな青年であることはよくわかっているから。ただ、道具立ての一部でもいい、ちょっとした脇道のエピソードでもいい、何か少しでも話してくれればいい。世の中の他の誰もがまだ知らないことを、私にだけ打ち明けてほしいの。あなたが私にひどいことを言ったから、その埋め合わせをしてもらいたいわけ。私の言っている意味はわかる?」

「たぶんわかると思うけど」と天吾は自信のない声で言った。

「じゃあ、話して」

 ペニスを彼女の手のひらに載せたまま、天吾は話した。「それは僕自身についての話なんだ。あるいは僕自身をモデルにした誰かについての話なんだ」

「たぶんそうなのでしょうね」とガールフレンドは言った。「それで、私はその話の中に出てくるのかしら?」

「出てこない。僕がいるのはここではない世界だから」

「ここではない世界には私はいない」

「君だけじゃない。ここの世界にいる人は、ここではない世界にはいない」

「ここではない世界は、ここの世界とどう違うのかしら。今自分がどちらの世界にいるか、見分けはつくのかな?」

「見分けはつくよ。僕が書いているんだから」

「私が言っているのは、[#傍点]あなた以外のほかの人々にとって[#傍点終わり]ということ。たとえば何かの加減で、私がふとそこの世界に紛れ込んでしまったとしたら」

「たぶん見分けはつくと思う」と天吾は言った。「たとえば、ここではない世界には月が二個あるんだ。だから違いがわかる」

 月が空に二個浮かんでいる世界という設定は『空気さなぎ』から運び入れたものだ。天吾はその世界についてもっと長い複雑な物語を——そして彼自身の物語を——書こうとしていた。設定が同じであることは、後日あるいは問題になるかもしれない。しかし天吾は今、月が二個ある世界の物語をどうしても書いてみたかった。あとのことはあとで考えればいい。

 彼女は言った。「つまり夜になって空を見上げて、そこに月が二個浮かんでいたら、『ああ、ここはここではない世界だな』ってわかるわけね?」

「それがしるしだから」

「その二つの月は重なり合ったりはしない」と彼女は尋ねた。

 天吾は首を振った。「何故かはわからないけれど、二つの月のあいだの距離はいつも一定に保たれている」

 ガールフレンドはその世界についてしばらくのあいだ一人で考えていた。彼女の指が天吾の裸の胸の上で何かの図形を描いていた。

「ねえ、英語の lunatic と insane はどう違うか知っている?」と彼女が尋ねた。

「どちらも精神に異常をきたしているという形容詞だ。細かい違いまではわからない」

「insane はたぶんうまれつき頭に問題のあること。専門的な治療を受けるのが望ましいと考えられる。それに対して lunatic というのは月によって、つまり luna によって一時的に正気を奪われること。十九世紀のイギリスでは、 lunatic であると認められた人は何か犯罪を犯しても、その罪は一等減じられたの。その人自身の責任というよりは、月の光に惑わされたためだという理由で。信じられないことだけど、そういう法律が現実に存在したのよ。つまり月が人の精神を狂わせることは、法律の上からも認められていたわけ」

「どうしてそんなことを知っているの?」と天吾は驚いて尋ねた。

「そんなにびっくりすることはないでしょう。私はあなたより十年ばかり長く生きてるのよ。だったら、あなたより多くのことを知っていてもおかしくない」

 確かにそのとおりだと天吾は認めた。

「正確に言えば、日本女子大学の英文学の講義で教わったの。デイッケンズの講読。変わった先生で、小説の筋とは関係のない余談ばかりしていた。それで私が言いたかったのはね、今ある月ひとつだけでもじゅうぶん人を狂わせるんだから、月がふたつも空に浮かんでいれば、人の頭はますますおかしくなるんじゃないかってこと。潮の満ち干だって変わるし、女の人の生理不順も増えるはずよ。まともじゃないことが次々に出てくると思う」

 天吾はそれについて考えてみた。「たしかにそうかもしれない」

「その世界では人はしょっちゅう頭がおかしくなるの?」

「いや、そうでもない。とくに頭がおかしくなるわけじゃない。というか、ここにいる我々とだいたい同じようなことをしている」

 彼女は天吾のペニスを柔らかく握った。「ここではない世界で、人々はここにいる私たちとだいたい同じようなことをしている。だとしたら、ここではない世界であることの意味はいったいどこにあるのかしら?」

「ここではない世界であることの意味は、ここにある世界の過去を書き換えられることなんだ」と天吾は言った。

「好きなだけ、好きなように過去を書き換えることができる?」

「そう」

「あなたは過去を書き換えたいの?」

「君は過去を書き換えたくないの?」

 彼女は首を振った。「私は過去だとか歴史だとか、そんなものを書き換えたいとはちっとも思わない。私が書き換えたいのはね、今ここにある現在よ」

「でも過去を書き換えれば、当然ながら現在だって変わる。現在というのは過去の集積によって形作られているわけだから」

 彼女はまた深いため息をついた。そして天吾のペニスを載せた手のひらを何度か上下させた。エレベーターの試験運転でもしているみたいに。「ひとつだけ言えることがある。あなたはかつての数学の神童で、柔道の有段者で、長い小説だって書いている。それにもかかわらず、あなたにはこの世界のことが[#傍点]なんにもわかっていない[#傍点終わり]。何ひとつ」

 そうきっぱり断定されても天吾はとくに驚きを感じなかった。自分には何もわかってはいないというのはここのところ天吾にとって、いわば通常の状態のようになっていた。とりたてて新しい発見ではない。

「でもいいのよ、何もわからなくても」、年上のガールフレンドは身体の向きを変え、乳房を天吾の身体に押しつけた。「天吾くんはね、来る日も来る日も長い小説を書き続けている、夢見る予備校の数学の先生なの。そのままでいなさい。私はあなたのおちんちんがけっこう大好きなの。かたちも大きさも手触りも。硬いときにも柔らかいときにも。病めるときにも健やかなるときにも。そしてここのところしばらくは、それは私だけのものになっている。そうよね、たしか?」

「そのとおり」と天吾は認めた。

「ねえ、私がすごく嫉妬深い人間だっていうことは前に言ったっけ?」

「聞いたよ。論理を超えて嫉妬深い」

「[#傍点]あらゆる[#傍点終わり]論理を超えて。昔から一貫してそうだった」、そして彼女は指をゆっくりと立体的に動かし始めた。「すぐにもう一度硬くしてあげる。それについてなにか異存はあるかしら?」

 とくに異存はないと天吾は言った。

「今どんなことを考えている?」

「君が大学生で、日本女子大で英文学の講義を受けているところを」

「テキストは『マーティン・チャズルウィット』。私は十八歳で、フリルのついたかわいいワンピースを着て、髪はポニーテイル。すごく真面目な学生で、そのときは処女だった。なんだか前世の話をしているみたいだけど、とにかく lunatic と insane の違いが、大学に入って最初に身につけた知識だった。どう、想像して興奮する?」

「もちろん」、彼は目を閉じて、フリルのついたワンピースとポニーテイルを想像した。すごく真面目な学生にして処女。でもあらゆる論理を超えて嫉妬深い。ディッケンズのロンドンを照らす月。そこを俳徊するインセインな人々と、ルナティックな人々。彼らは似たような帽子をかぶり、似たような髭をはやしている。どこで違いを見分ければいいのだろう? 目を閉じると、今どの世界に自分が所属しているのか、天吾には自信がもてなくなった。



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