【春宵苦短少年学习吧】第02课朗读 嘉嘉 2015-05-12

sjbluesky (嘉嘉☪一期一会)
【A+研究所】荣誉会员☆网校制霸
地狱巫师统领
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发表于:2015-05-12 15:27 [只看楼主] [划词开启]



原音频22min.有删截。一次性读成请轻喷。
状态还是不好。这么美的文章读成这个鬼样子。
不得不说最近真的是很浮躁。睡觉也不好好睡。
读书的时候一个劲想着要快点读完。任务观点。
要早些觉悟才好。今天也好好好做人。





自然との出会い

ブナ林の四季

 雪国の春はブナ林の芽吹きから始まると言ってよい。もちろん細かく見ればブナの緑に先駆けてマルバマンサクが咲き、タムシバ(ニオイコブシ)が咲く。しかし人の心にしみじみと春の喜びを感じさせてくれるのは、このブナの芽吹きであろう。まだ風も冷たく、根雪が林地に残っているうちに、ブナの新緑はうっすらと稜線を染める。あるかなきかのこの新緑に、長く厳しい冬に耐えてきた雪国の人は心のときめきを抑えることができない。しかし、まだはっきりと春が訪れたわけではないから、このときめきをあからさまにするのはもう少し待とう、そういった心境だと言えばいいだろうか。この時こそが雪国に暮らす人々にとって最高に幸せな時なのである。

 やがて、誰の目にも明らかに新緑は稜線を染めながら登り、全山を緑で覆っていく。そのころには林内の根雪もほとんど消えて、つつじ類をはじめ、低木類が林床を飾るのである。しかし、いつもながらの春の訪れとは言いながら、どうしてこうも順序を間違えず、次から次へと植物たちは動き出すのであろうか。その移り変りは、恰も生き物たちの成長していくように、森林全体もまた時節とともに変化を遂げていく。天の摂理とは、まさにこのようなことを言うのではなかろうか。

 夏から秋にかけては実りと収穫の時節である。最も収穫というのは人間をはじめ動物側のことだから、植物にとって最も生命感にあぶれる時期こそが夏のだといったもうがいいかもしれない。林業にとってはやっかいな真夏の下刈りという作業も、雑草や小低木かれ見れば、とんでもない迷惑なことである。ここには人それぞれの自然がある。自然保護と林業振興との、いずれの立場が優れているというのでもない。ひとはそれぞれの立場で自然に接するのだということを、我々は心の底で認め合いながら生きでいるのである。

 いかなる存在にも凋落の時が来ることを、自然はその長い年月の移ろいの中でも、また一年という短い間にも示してくる。やがてブナの葉は落ち着くし、樹木全体が冬に備えた厳しい表情に変っていく。その厳かなたたずまいといい、また風雪に耐えるけなげな姿といい、ブナ林が真の迫力を見せるのに、冬に勝る季節はないであろう。或る人はその姿をおそろしいというまもしれない。またある人はそれこそ美の極致と評価するかもしれない。評価はどうあれ、黒々と静まり返った冬のブナ林の中では、もう既に何かが動き始めている。巡り来る春に、再び山をおおいつくす葉が、早くも必要な枚数だ冬芽の中に準備されているのである。ここでもまた、わたしたちは自然の偉大さに驚かずにはいられない。自然の中に身を置いてみて、人間は初めて自然の大きさにふれることができるのである。同時に、大自然の一員ちして、その中に包み込まれた自分をも認識できるであろう。

 ブナ林という自然界の片隅のしかもその移り変りの一断面をのぞいてみただけでも、自然は、いかに多彩で奥行きが深いものであるかを知ることができる。その奥深さが実感できるのは、そこに人間がかかわっているからにほかならない。確かに日本人は自然に極めて強い愛着を抱いている。また自然に対して研ぎ澄まされた感性を持っているの事実である。それは日本文化のさまざまな領域にも反映されていよう。しかし、それはあくまでも抽象的な、観念的な自然でしかないのではなかろうか。自然を人間から切り離して眺めるのではなく、むしろ自然を友とし、自然のこころに迫ることが大切なのである。

 これまで日本では、植物の名前一つにしても、もしろヨーロッパの文学作品から多くを学んだような気がすてならない。実際にみたこともない植物なのに、スグリとカアラセイトウという名前はよく目にしたものである。しかもそれらの植物は、物語の背景としてかなり大切な役割を果たしていた。それに比べれば、詩や歌はともかくとして、日本の物語に登場する森の植物は、その種類も数もしれたものである。ブナなども、今でこそ、名前を知らない人たちは少ないが、ほとん

 ど日本の物語の中に現れていない。こういう、ちょっとした例からみても、日本人がどちらかといえば、感情という側面ばかりで自然と付き合ってきたことを、改めて思わずにはいられないにである。これから必要なのは、実際に大自然の中に身を置き、そこに新たな楽しみを見出していくことであろう。

 何はおいても、まず山を散策し、自然界の生の鼓動に耳を傾けよう。こうした自然との触れ合いの中で、自分自身の心も再び息づいてくるに違いない。





竹とともに

  竹を切って煮て、臼でついて、柔らかい餅にして、紙に漉いたり、人形を面にしたりして二十年たつ。何もかも竹で作った人形で物語を舞(ま)わせてみようとの魂胆からだが、やっているうちに、ものも言わぬ竹ながら、何(なん)やかや教(おそ)わるものが多(おお)い。一つは、この植物(しょくぶつ)は、寒冷地(ち)の軽井沢ではいくら植えても笹になって竹(たけ)に成長しなかったが、在所の若狭などでは、一年に親の背丈を越す新竹となり、ほうっておく と、藪はジャングルだ。そこで、工房も最近(さいきん)は若狭へ移(うつ)して、宅配便で運んだ手間を省いている竹紙は、なかなか味があって、素人が漉(す)いたのでも、筆ののりがいい、岩絵の具のすばらしいにじみと鮮やかさも格別だ。だが、その紙(かみ)も、筍の皮、親竹(だけ)の古(ふる)いのなど、いろいろ取(と)りまぜて漉(す)かねばいいのができぬ。そこらあたりに、頑固な個性(こせい)があるような気(き)がするのである。同(おな)じ繊維でも、若(わか)いのと親(おや)とでは人間でも違うように、うまく言えないが、まぜて一人前の紙(かみ)になるあたりがおもしろい。

    若狭あたりでは、ほとんどの家は適当な藪を持っていて、筍を食うことから始め、何やかや生活用具に、手近なのは箸から、火吹き竹、洗い物かご、桑負い、野菜負い、うなぎ捕りのかごに至(いた)るまで、竹(たけ)を使(つか)って親しんできた。だが今はほとんど村(むら)から竹細工師は消えた。便利なポリエチレン製の容器や、合成樹脂の登場(とうじょう)で、農家は洗い物受けのかごまで、ビニール製の、一色か二色かの量産品を愛用している。したがって、昔は、家の周りに干してあったかごや道具に風味を感じたのに、合成樹脂(じゅし)ではゴミみたいに思(おも)える。だが、人々(ひとびと)はそれを使い捨(す)てては新(あたら)しいのを買(か)っている様子(ようす)だ。そして、持(も)ち藪をジャングルにしている。竹が泣(な)いている。

   子供のころの記憶だけれど、僕の生家は藪(やぶ)に囲まれた村(むら)はずれだったので、夕暮れの鐘がよそより細(ほそ)く届いた。なぜよそより細かったか、今(いま)にしてわかった。竹(たけ)は空洞に音をためて生(い)きるのだそうだ。それゆえ、藪に囲(かこ)まれていると、自然(しぜん)の防音装置になり、シンと閑寂なのである。尺八の音色が美(うつく)しいのは、生(う)まれてずうっとためた音(おと)を、人の息(いき)に誘われて引(ひ)き出(だ)すからだ、と言(い)った人(ひと)がいた。まさかと思(おも)って聞(き)いていたが、あるいは事実かもしれぬ。竹(たけ)にきいてみなければわからぬが、生(う)まれた場所に小(ちい)さな清流でもあれば、日がなそのせせらぐ音は子守唄だったはず、親(おや)の梢 の葉(は)にそよぐ風も、子(こ)は音楽のように聞いて育ったのかもしれぬ。

  中国の成都へ行ったことがある。四川大学のそばに望江園という竹の公園があると聞(き)いて行(い)ってみた。巨大な竹(たけ)の藪(やぶ)を、上手に切って遊歩道にしている。竹(たけ)は根(ね)が張(は)るから、よそへ出(で)ぬようにがっちり石垣がある。案内(あんない)者(しゃ)にきくと、三百種を越す竹(たけ)の保存だそうだ。石垣(いしがき)のわきは道になっていて、適度な日が落ちてくる。そこに石(いし)の机がある。わきに石(いし)の丸(まる)いすがあって、大学生が、本を読(よ)んだり、ノートをとったりしている。

    「蚊やブヨに襲われませんか。」


 きいてみたら、

    「蚊やブヨがいてこそ鳥(とり)がやってきますよ。すずめの来ない竹(たけ)藪(やぶ)は寂(さび)しいでしよう。」

    との答(こた)えだった。成都は竹の都と言っていい。百貨店をのぞいても、いすから机から、一切の生活(せいかつ)用具に竹製(せい)が多く、しかもそれが安かった。器用に編み込(こ)まれた紋(もん)様入(い)りのフタつき大(おお)かごが千円(えん)もしない。赤(あか)ちゃんが竹(たけ)製(せい)の乳母車で押(お)されてゆくのも見た。竹(たけ)の在所(ざいしょ)が、長(なが)い年月を、竹(たけ)とともに暮(く)らしている。当たり前のことに感動(かんどう)をおぼえた。

    京都の西の京など、昔は竹(たけ)藪の海(うみ)だった。そこを開発して、今(いま)は巨大(きょだい)都市(とし)が誕生している。日本(にっぽん)の場合は、根(ね)こそぎ地(ち)の皮をめくるみたいに、竹を切り殺して、造成に取(と)りかかる。それゆえ、町ができても、そこに、成都のようないくつかの竹の生木をかたまりとした、歩道も、アプローチもない。殺風景だ。竹(たけ)が号泣している気(き)がする。

    「松のことは松に習へ、竹(たけ)のことは竹(たけ)に習へ。」と言ったのは昔(むかし)の俳聖である。僕ら門外漢には、竹(たけ)の嘆(なげ)きを深(ふか)く聞(き)く才覚はないが、七日も煮(に)て、三日も水車臼でついて竹(たけ)餅(もち)を作っていると、青竹だった生命(せいめい)がもう一つの生命に化身してゆくすばらしさが見(み)えてくる,そうして、その竹(たけ)がどのような歴史を生(い)きたかについても考(かんが)えさせられる。在所(ざいしょ)の藪(やぶ)のありかはだいたいわかっているので、そこの持(も)ち主(ぬし)の長男で、戦死した同級生(どうきゅうせい)のことや、もちろんこれも冥界の人(ひと)だが話(はなし)好(ず)きだった親爺(おやじ)さんの黒(くろ)い脂(あぶら)ぎった顔(かお)などまで思(おも)い出(だ)されてくる。僕(ぼく)は、このごろ自然(しぜん)というものは、やっぱり頑固(がんこ)に守(まも)らないと、歴史(れきし)が崩(くず)れるような気(き)がする。身近(みぢか)の作業(さぎょう)の日常(にちじょう)が、そんな思(おも)いにさせるのである。

  学知世界(せかい)もいいが、たまには竹がためてきたことを聞(き)いてやる時間は、これまた美しいものとの邂逅と言える。この世(よ)の末期のみやげには学知よりも、そばに青竹が一本光を浴(あ)びていればいい、そっちのほうに美(うつく)しさがある、と思う。





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@小姗宝贝_  @skybei  @tikipon  @WGAMJGMGWG
よろしくお願いします!


最后编辑于:2015-11-26 10:38

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分类: 朗读

标签: 日文时光

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