2015.05.12【日译中】信長·秀吉·家康——時代を見据える

发表于:2015-05-12 20:12 [只看楼主] [划词开启]

信長·秀吉·家康——時代を見据える 

信長·秀吉·家康——看清时代

 

    人の人生は、ただ一つのライフサイクルとただ一つの歴史的局面の偶然の出会いであり、人は歴史的局面と生死を共にする。従って、人がよりよく生きるうえで何よりも大切なのは、歴史的局面を見据え、歴史の流れと共生することであろう。古今東西、歴史上で名を成した英雄たちは、まさに時代を見据えた人たちであった。

    人生就是唯一的生命周期和唯一的历史性局面偶然相遇,人是和历史性局面生死共存。因此,比小心翼翼的活着更重要的是认清历史性局面,与历史的潮流共存。古今中外,历史上成名的英雄们,正是那些认清了时代的人。

    多くの植物に群落の性質があるように、人間にも群落の性質がある。日本の中世末期の動乱をしずめ、その後250年に及ぶ幕藩体制を築いた織田信長·豊臣秀吉·徳川家康は、いずれも、今で言えば、愛知県人であった。もちろん、これは偶然ではない。愛知県内には、東海道が通っている。鎌倉時代以降幕末までの日本史で、東海道の沿道以外の場所から起こって天下をにぎった者はいないことに表れているように、東海道は、源頼朝(鎌倉時代)以来、日本史の権力街道であった。天皇の住む京都と将軍の住む東国(関東)を結んで、天下の権力はつねにこの街道を往復した。愛知県は、東海道の中ほどにあり、京都に近く、天下を取る上で好条件であった。

    正如许多植物都有群落的特性,人也有群落的特性。日本在中世末期平息了骚乱,在那之后250年到构筑起幕藩体制的织田信长·豊臣秀吉·徳川家康,无论哪一个都是现今的爱知县人。当然,这并非偶然。爱知县内贯穿着东海道。从镰仓时代到以后的幕府末期,在日本史里没有表明天下被东海道沿途以外的人掌握,东海道自源赖朝(镰仓时代)以来,就是日本史的权力街道。连接京都的天皇和东国(关东)的将军,天下的权利经常就在这条街道往返。爱知县在东海道的中部,靠近京都,是夺取天下的有利条件。

    信長·秀吉·家康の三人のなかから、最初にぬきんでたのは、信長(1534~82年)である。信長が出なかったら、家康も秀吉も歴史に名を残さなかったであろう。信長は戦術感覚、政治感覚において天才的であった。信長は桶狭間の戦い(1560年)で奇跡的な勝利を得た後、急速に勢力をのばして行く。延暦寺を焼き討ちにし、一向一揆と戦い、石山(大阪)の本能寺を屈服させたことに示されているように、中世の常識をこともなく破り、中世のあらゆる価値体系をほろぼした信長は、まさに、破壊に生きた人であった。そして、その破壊は創造のためであった。信長は、旧勢力の人間をどんどんつぶすと同時に、新しい価値体系であるキリスト教を保護し、鉄砲を活用した。破壊と創造に生きた信長は、49歳でその家臣、明智光秀によって暗殺されることになる。

    信長·秀吉·家康三人中首先出人头地的是信长(1534~82年)。没有信长的话,家康和秀吉也不会名流千史。信长是战术和政治感觉方面的天才。他在桶狭间战役中(1560年)取得奇迹般的胜利后,迅速扩张势力。火烧延历寺,大战一向宗僧侣,正如让石山(大阪)的本能寺屈服所表现的那样,信长打破中世的常规,瓦解了中世的价值体系,他是个为破坏而生的人。而破坏是为了创造。信长在逐渐毁掉旧势力的人的同时,还保护了新的价值体系基督教,有效的利用起火枪。为破坏和创造而生的信长在49岁时被家臣明智光秀暗杀。

    秀吉(1536~98年)は、信長が破壊した後の安定と建設が自分の仕事だと考えた。信長が常識を破り、模倣を嫌い創造に生きた天才であったのに対し、秀吉は、信長という天才のやり方を学び、そのやり方を模倣すると同時に、その欠点を、政治性によって埋めようとした。例えば、信長は破壊力の強い火攻めを好んだが、秀吉は、人命をあまりそこなわない水攻めを好み、また、外交を重視した。農家に生まれた秀吉が、天下を統一出来たのは、人との関係を保つ「外交の才」と、利害関係に敏感な「商売の才」があったからであろう。秀吉は、貨幣を鋳造し、市場の制度を整えていく。それと共に、検地を行い、土地制度に基づく税制を確立する。豪壮闊達で陽性な秀吉は、晩年、誇大妄想に陥ったといわれる。

    秀吉(1536~98年)是将信长破坏后进行稳定建设作为自己的事业。与信长的打破常规,讨厌模仿,为创造而生的这种天才相比,秀吉则是学习天才的做事方法,模仿的同时对其缺点进行政治性的弥补。比如,信长喜欢破坏力强的火攻,秀吉则是喜欢不怎么损伤人命的水攻,另外,重视外交。秀吉虽然出身农村却能一统天下,正是因为他有保持人际关系的“外交才能”和对利害关系敏感的“经商才能”。他还铸造货币,整顿市场制度。同时,对土地进行丈量,确立了以土地制度为基础的税收。豪爽豁达又开朗的秀吉,据说晚年陷入自大妄想中。

    その後政権を握った家康(1542~1616年)は、忍耐強い実務家であった。信長が破壊し、秀吉が築いた幕藩体制の基礎を、家康は、忍耐強く、確固たるものにしていった。家康の生涯は、家臣に売られることから始まった。少年家康は3歳で生母と生別した後、6歳からの12年間を囚われの身として過ごした。家康は、まず6歳で今川家に人質として送られた後、織田家に送られ、8歳の時にいったん生家に戻り、その後すぐ、ふたたび、今川家に送られたのである。家康の三河武士団は、後に、団結の強さで武士団の模範とされることになるが、その団結力の強さは、少年時代の悲惨な環境の中で、苦労を共にしたことによる当然の帰結でもあったのだろう。それと同時に、天下を取ってからの家康が、徹底的な封建体制をしき、日本人を階級に分けて、その階級から動くことを禁じ、信頼関係のあつい譜代大名を重要視し、信頼関係の薄い外様大名を容赦なくつぶす極端な徳川家中心主義をとったのは、「家なき子」としてつねに他家のめしを食ってきた悲惨な少年時代の裏返しでもあったのだろう。家康は、関ヶ原の勝利(1600年)により征夷大将軍となった後、秀吉の遺児秀頼を滅ぼすのに、15年の歳月を待っている。家康の生涯は、まさに、忍耐の生涯であった。「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ、勝つ事ばかり知りて負けることを知らざれば害その身に至る。おのれを責めて人をせめるな、及ばざるは過ぎたるにまされり」。家康の遺訓として知られている。 

    之后掌握政权的家康是个忍耐力强的实干家。信长的毁灭,秀吉的构筑幕藩体制,家康是极有耐心的巩固他们的基础。家康的一生是从他卖给家臣开始的。 少年时代的家康3岁就离开生母,之后6岁到12岁期间一直是被囚之身。家康先是6岁被送到今川家做人质,后来又被送到织田家,8岁的时候短暂的回过家,马上又被送到今川家。家康的三河武士团一直是高度团结被其他武士团模仿,这种高度的团结,当然就是在少年时代悲惨的环境中与苦难共度的结果吧。与此同时,夺取天下后家康建立了健全的封建体制,把日本人按阶级划分,在这阶级里限制其活动,重视信赖关系强的谱代大名,毫不留情的粉碎那些信赖关系弱的外藩大名,这是德川家极端的中心思想,也许就是悲惨的少年时代作为“无家可归孩子”常吃别人家饭的换位思考。家康在后来的关原大战取胜而当上征夷大将军,等了15年才把秀吉的遗子秀赖杀掉。家康的一生就是充满耐性。“人的一生就像是背负重物远行,不可操之过急,常想着约束自己就不会不满,常思贫困,方无贪欲之念,忍耐是万事长久的基石,愤怒是敌,只知胜而不知败,必害其身。常思己过,莫论人非,不及尚能补,过之无以救。”一直作为家康的遗训广为人知。


(最后遗训那里,看到有古日语的词都要昏厥过去,实在是表达不好,于是问度娘德川家康的遗训,就。。。)


分类: 日语
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