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dechang37 (さくら) 中级粉丝
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发表于:2015-09-23 08:21 [只看楼主] [划词开启]
いい人? 群贅がいい人だって? 他人にはそう見えるのだろうか。
「じゃあ中原先生は?」
 私の質問に魚住は唇を尖《とが》らせる。店の照明が暗くてよく分からないが、どうも赤くなっているようだ。
「好きなんでしょう?」
 重ねて聞くと魚住は微かに頷《うなず》いた。黙ってしまったかと思うと、突然話し出す。
「あんたには絶対分からないことよ。私だって好き好んでこんな顔に生まれてきたんじゃないわ。ブスとかデブだけじゃなくて、臭いとかブスがうつるから寄るなとか言われたこともあるわ。性格|歪《ゆが》んで当たり前よ」
「あんたが言うと、説得力あるわねえ」
 ぎろりと魚住がこちらを見た。私は肩をすくめて目で謝る。
「とにかくさ、顔も性格も悪いから親も私のこと見離してたわ。早く家なんか出て自立したかった。だから看護婦になったのよ」
「へええ」
「普通のOLじゃあ、どうせまたブスだのデブだの言われるのが落ちだもんね。なりたくてなったわけじゃないけど、看護婦って私には合ってたみたい。病人って気が弱ってるでしょう。私みたいな、ドーンとした感じの人見ると安心するって言う人多いのよ」
 そうかもしれない。私は素直に頷いた。
「看護婦やってるうちに、私分かったのよ。こんな顔に生まれてきて損したってずっと思ってたけど、人間損得だけで生きてるわけじゃないじゃない。そりゃ、もちろんあんたみたいな奴《やつ》を見ると腹が立つけどさ。本当に損得抜きで、誰にでも親切な人っているのよ。そういう人がいるかぎり、私は顔を整形したりしないわ」
「なるほど」
 私は納得した。中原先生は、条件抜きで本当に誰にでも親切な人なのだ。きっと魚住や私は、努力してもそういう人間にはなれないだろう。妬《ねた》みや嫉《そね》みや優越感を超えて、誰にでも優しく当たれるなんて人間ではなく本物の天使様だ。そういうのって育ちなんだろうか、持って生まれたものなんだろうか。
「あんたが中原先生とデートしたって聞いて、私気が狂いそうなほど腹が立ったの。負けるまいって思ったの。だから」
「だから手編みのセーター渡す気になったってわけね」
 驚いた顔で魚住がこちらを見る。
「アパートで飲んだんでしょ。先生に聞いたわ」
「……あんた、もう先生とできてるの?」
「残念ながらできてないのよ」
 先生に迫って断わられたあの晩のことを、私は正直に話した。魚住はそれを聞いて何やらじっと考える。
「どうかした? 嘘《うそ》なんかついてないわ。本当に何もなかったんだから」
「うん、そうじゃなくてさ……あなた、もし先生が結婚してくれるって言ったら、いっしょに先生の田舎に帰るつもりなの?」
 魚住の質問に私は笑った。
「そんなことまで考えてないわ。だってまだまだ先のことでしょう?」
「明日にでも先生が田舎に帰るって言ったら? そしたらおばあちゃんはどうするの? 代わりに面倒見てくれる人いるの? それともいっしょに連れて行くの?」
 しつこく聞く魚住に、私は顔をしかめる。
「そんなことまで考えてないわよ」
 ぶっきらぼうに言って私はビールを飲み干した。煙草《たばこ》が吸いたかったけれど、魚住が目の前にいたんじゃ吸うに吸えない。
「あんたに一番欠けてるもんが分かったわ」
 冷めた声で魚住が言う。
「想像力よ。あんた先のこと、あれこれ考えたことないでしょう」
「失礼ねえ。これでも真剣に考えてるわよ」
「あんたがさっき、雛子って子を見ても冷静だったわけが分かったわ。自分には関係ないと思ってるんでしょう」
「悪かったわねえ。でも雛子よりはマシなつもりよ。何よ、あれ。ついこの間まで友達面してたくせに」
 私が言うと、魚住は真面目《まじめ》な顔で首を振る。
「あの子を責めるのは間違ってるわ」
「ええー? なんでー」
「ちょっと被害妄想気味だけど、あれが普通の反応かもよ。親切にしてもらったことだってあるんでしょう? あんた雛子さんのこと、本当に友達だと思ってた? 冷たいのはどっちよ。あんたのほうがよっぽど冷酷だわ」
 反論しようにも、あんまり本当のことで何も言えなかった。
「あんたは三歩歩くと、誰かが親切にしてくれたことなんか忘れちゃうんじゃない? 鶏よりひどいわよね。目先のことしか見えないの。先のことを想像する力がないのよ。幸せな人ね、あんたって」
 私は赤く塗った自分の爪《つめ》を眺めながら、魚住の言葉の意味を考えた。
「すごく馬鹿にされた気がするんだけど」
「馬鹿にしたのよ」
 しらっと魚住が言う。
「あんた、群贅さんとセックスするときコンドーム付けてた?」
 明らかに処女に見える魚住からそんな露骨なことを言われて、私はビールを吹きそうになる。
「すごいこと聞くのねー」
「笑ってる場合じゃないわ。あなたこそエイズ検査受けなさい。あの雛子って子が言ってたこと、案外当たってるかもしれないわ。あなたがどっかで感染して、群贅さんにうつしたのかもしれないわよ」
「やめてよ。ひどいわね」
「ここまで言って笑ってられるのは、知識がないからとしか思えないわ。本貸すからお正月の間に読みなさい」
 私はピアスをいじりながら、怒ったような魚住の横顔を見た。
「聞いていい?」
「どうぞ」
「エイズに感染してたらどうなるの? 私も死んじゃうの?」
 何だか急に不安になってきた。かかったら治らない病気だとは知っている。本当に私が感染しているというのだろうか。こんなに元気でぴんぴんしているのに。
「本当に何にも知らないのね。テレビでも雑誌でもがんがんやってるじゃない。いい? エイズのウイルスがからだに入ると抗体ができるのよ。検査してその抗体を持ってる人が陽性なの」
「……はあ」
「でもこの抗体は病気を治す効果はもってないから、数年後には発病するわ。でもね、陽性って出ても感染してない場合もあるし、発病を遅らせる薬だってだいぶ進んでるのよ。発病したって、カリニ肺炎なんかはいい薬があってちゃんと治るそうよ」
 返事をしない私を見て、魚住は重ねて言う。
「あんたもそうだし、さっきの雛子って子もそうだわ。自分には関係ないことだと思ってセックスしてたんでしょう。あんたたちみたいな人が多いから、どんどん広がるし差別だって生まれるのよ。うつるだの死ぬだの大騒ぎして。もっと考えてもの言いなさいよ」
 私はもう一度、赤いマニキュアを塗った自分の手を見下ろした。自分でもきれいだと思う。白くて染みひとつなく、すんなり伸びた十本の指と細い手首。
 エイズが発病した人の写真を見たことがある。からだ中に染みが浮かび、白いシーツの上で枯れ木のように横たわっていた。私のからだも、そうやって朽ち果てるのだろうか。
 そのとき店の扉が勢いよく開いた。弾《はじ》けるような女の子達の声が入って来る。
「お待たせしましたー。あー、先に飲んでるなんてずるい」
「あれ? 椿さん来てくれたんだ。嬉《うれ》しい」
 チーママを含めた女の子が四人、私と魚住を囲んで座る。ビールが並べられ、大騒ぎでメニューを見ては端から食べ物を注文した。
 私服姿の看護婦たちは、その辺にいる若い女の子と見分けがつかなかった。けれど、私がコンパニオンの仕事で知り合ったどの女の子達よりパワーがあった。やけくそで騒いでいるようにも見える。
 明日は元旦《がんたん》から仕事だと言いながら、皆大酒を飲んでカラオケを歌った。私もつられてはしゃいだ。
 大きな声で笑い、グラスのお酒を一気に飲む。女同士でデュエットし、隣りのテーブルのおじさんたちとえげつない話で盛り上がる。
 けれど、カラオケのマイクを離し、ソファに座った瞬間に、私は今まで感じたことのない感覚に襲われた。
 息が苦しく、遠近感が狂う。目の前に繰り広げられる狂乱が何だかよく分からなくなる。大きな声で泣き叫びたい衝動にかられた。
 もう駄目だと思った瞬間、誰かが私の手を握った。ものすごく強い力だったので、私は度肝を抜かれて顔を上げる。魚住の心配そうな目がそこにあった。
「言い過ぎたわ。ごめんね」
 彼女の口がそう動いた。
「いっしょに検査に行きましょう。大丈夫。私がついててあげるから」
 私はやっとの思いで小さく頷《うなず》いた。恐かった。こんな恐ろしい思いはしたことがなかった。魚住の手を握りしめ、私はぶるぶる震えているしか術《すべ》がなかった。

 正月休みが明けるとすぐ、私は保健所に検査を受けに行った。魚住はいっしょに来てくれると言ったけれど、仕事を休ませるのも悪いので、私はひとりで行けると強がりを言った。
 魚住に聞いたとおり、保健所での検査は匿名で受けることができた。ただ、血を採るだけだと聞いていたのに、簡単なカウンセリングがあった。
 人のよさそうな女医が、基本的なエイズの知識を話してくれて、言いたくないのなら構わないと前置きをしてから、こちらの事情を尋ねた。私は何も言わなかった。というより言えなかったのだ。この数年の間、何人の男の人と寝たのか分からないし、その中には名前も連絡先も知らない人が大勢いる。そんなことは、とても口にすることができなかった。
 結果は二週間後に分かるということだった。女医は必ず本人が結果を聞きに来てくださいと念を押した。もし、聞きに来られない場合は必ず電話を入れることを約束させられた。
 門松が取り外され、街から正月気分が抜け始めても、私はまだ仕事を見つけていなかった。派遣会社が仕事をくれないのだ。
 いくら問い合わせても、今は仕事がないからと言われてしまう。しつこく毎日電話をすると、とうとう担当者が他の派遣会社に登録したらと言い出した。それで私はぴんときた。ショールームでのいざこざが派遣会社の耳に入ったのだろう。もう会社は、問題を起こしそうな私を使う気はないのだ。
 働かないわけにもいかなかったので、私はとりあえず、忘年会をしたスナックでバイトをすることにした。
 店のママは機嫌がいいときと悪いときがあったし、親父《おやじ》が歌う下手くそなカラオケに拍手をするのもだるかった。けれど、仕事そのものは楽だった。お愛想を振りまいて、ちゃらちゃらしていればいいのだ。さすがコンパニオンをしてただけあって椿ちゃんは気がきくと、ママが褒めてくれたりもした。楽しくはあったけれど、ずっと続けたいとは思わなかった。
 かと言って他の仕事を捜す気にもなれず、昼間はずっと祖母のそばにいた。スナックでのバイトが終わると、群贅の部屋に帰って寝た。群贅からの連絡を私は待っていた。
 三が日が明けるとすぐ、群贅の仕事先に電話をしてみたが、暮れのうちに休職届が出ていると言われた。実家のほうに昔の知人を装って電話をしてみると、ひとり暮らしを始めたからと、私が今まさに使っている電話番号を教えられてしまった。あれこれ聞いて心配させてもいけないので、私はお礼を言って電話を切った。
 群贅はどこにもいなかった。行きつけのバーにもクラブにも、関係があった女の子達に聞いても、誰も彼の行方を知っている人はいなかった。群贅がエイズだと噂《うわさ》を流したバーテンを問い詰めると、俺《おれ》も店の客から聞いただけだから本当のことは知らないよと無責任なことを言った。質《たち》の悪いただの噂であってほしいと、私は心から思った。
 元旦からずっと私は祖母の世話をして過ごした。食事が来るたびそれを祖母の口に入れ、床擦れができないように寝返りを打たせてあげた。タオルを絞ってからだを拭《ふ》き、時間を見て祖母のおむつを代えた。食事は祖母がなかなか食べてくれないので一時間も二時間もかかるし、おむつを取り替えるのだって赤ちゃんをやるようにはいかない。大きいほうを見た後はさすがにげんなりする。祖母はめっきり口数が減った。一言でいいからちゃんとした祖母の言葉が聞きたくて、私は熱心に祖母に話しかけた。けれど返事は「うん」と「いや」しか返ってこない。
 祖母の愛人だった人のことも、やはり聞き出せないでいた。写真を見せて「これはだあれ?」と聞くと、微かに動揺した表情を見せるのだが、手掛かりになるようなことは何も言ってはくれなかった。
 十日もたったころだろうか、祖母に夕飯を食べさせているとき、私は唐突に思った。いっそ死んでくれればいいと。
 祖母が怪我《けが》をして寝たきりになり、あっという間に正気をなくしても、私はまだ分かってはいなかったのだ。こんなことはきっとすぐ終わることだと思っていた。
 終わらないのだ。容体が急変しないかぎり、これから何年もこのままなのだ。長く病人の付添い婦をやっているというおばさんも、看護婦やよその見舞い客たちも皆同じことを言った。こうなると長いよと。
 今ごろになって、私はやっとそのことを実感した。これから祖母が死ぬまで、私は介護し続けなければならないのだ。想像力がないのよという魚住の言葉を、今になってやっと理解することができた。
 愛する祖母は、今の私にとって重く大きな荷物だった。けれど古い洋服を捨てるようにポリ袋に入れてしまうわけにはいかない。この枯れ果てた老人は、昔私の敬愛する祖母だったのだ。誰よりも愛してくれた肉親だった。その人の死を願うようになるとは、想像もつかないことだった。祖母が死んだら本当に私はひとりぼっちになってしまう。けれど、今でも充分ひとりぼっちならいっそ重い荷物は下ろしたかった。
 祖母が死なないのなら、私が死のうかとぼんやり思った。誰も結婚してくれなくて、仕方なく誰かの愛人になり何とか楽しく暮らしても、最後にぼけ老人になって、病院の硬いベッドの上で他人におむつを代えてもらうぐらいなら、いっそ今のうちに死んでしまおうか。盛りのうちにぽとりと花を落とす椿という名を付けたのは、もしかしたらそういう意味が込められていたのかとさえ思ってしまう。
 いや、自ら花を落とさなくても、もしかしたらあと少しで私は死ぬのかもしれない。ベッド脇《わき》に伏せた魚住から借りた本に私は目をやった。読めば読むほど恐くなった。知らずにいたほうがよかったと真剣に思うぐらいだ。
「明けましておめでとう」
 男の人の声で私は我に返った。顔を上げるとそこに中原先生の顔があった。
「先生っ」
「久しぶりだね」
「ええ。ずいぶん長いことお休みしてたんですね。どうしたんだろうって思ってたんですよ」
 中原先生は暮れから休みをとって、なかなか病院に顔を出さなかった。先生の顔を見るのはあの夜以来だ。ものすごく昔のことに感じて、先生の人のよさそうな笑顔が懐かしかった。
「田舎に帰ってたんだ。はい、お土産《みやげ》」
 そう言って先生はお菓子の箱をくれた。
「私に買ってきてくれたの?」
「そうだよ」
「すごーい。本気で嬉《うれ》しい」
 私がはしゃぐと先生は照れたように頭を掻《か》く。そして祖母の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「調子はどうですか? ああ何だか痩《や》せちゃったなあ」
「最近、食べてくれなくなっちゃって」
 溜息《ためいき》まじりに言うと、先生は私の頭を優しく撫《な》でてくれた。私は心底嬉しくて、猫のように目を細める。私がどんな気持ちで祖母を看病しているか、この人だけは分かってくれている気がした。
「本読んでたの? 意外だなあ」
 そう言って先生がベッドサイドの本に手を伸ばす。私は慌ててそれを遮った。
「見ちゃ駄目。これエッチな漫画なの」
 それを聞いて先生が楽しそうに笑った。私も笑顔を作りながら、冷や汗が浮かぶのを感じた。このことだけは絶対知られちゃいけない。
「椿さん」
 急に真面目《まじめ》な顔になって、先生は私の名を呼んだ。
「あのですね、えっと、実は聞いてもらいたいことが」
「桐島さーん。桐島椿さーん」
 そこで誰かがまた私の名前を呼ぶ。振り返ると事務の女の人が私を呼んでいた。
「お電話がかかってます。お母様から」
「え? 母からですか?」
 驚いて聞き返すと、事務員は無表情に頷《うなず》いた。
「事務室にかかってますけど、どこかに回しますか?」
「あ、えっと」
 何かを言いかけていた先生を私は見上げた。
「僕は後でいいから」
 先生に促されて私は病室を出る。事務員の後を追い掛けて私は階段を下りた。母から電話だなんて、用事は父のことしか考えられなかった。とうとう死んだかなと思いながら、私は受話器を受け取った。
「もしもし? お母さん?」
 私が出ると、唐突に母がこう聞いた。
「おばあちゃんの家から、写真を持って行ったのはあなた?」
「は?」
「おばあちゃんの家の整理をしてるのよ。あなた写真の入った箱を持って行かなかった?」
 母の切羽詰まった声など、私は初めて聞いた気がした。
「持ってるわ」
 私が言うと母は大きく息を吐いた。
「返しなさい」
「いやよ」
「あなたのものじゃないでしょう。返してちょうだい」
 私が返事をしないと、母はもう一度言った。
「返しなさい」
「分かったわ。返してほしかったら、いっしょに写ってる男の人の居場所を教えて」
 たっぷり一分以上母は黙っていた。

 その人の住まいは、海の近くにあった。電車に一時間ほど揺られ、私はその駅に降り立った。高校生ぐらいのころ、一度海水浴に来たことがある。けれど季節外れのその駅は、以前来たときと別の場所かと思うぐらい寂れて見えた。
 駅前でタクシーに乗り、母に聞いた住所を運転手に見せる。車は海岸とは逆方向へ五分ほど走った。坂道を上がり、くねくね曲がった小道を抜けて車は止まった。
 私はその人の住んでいる、コンクリートの建物を見上げた。マンションというよりも一昔前の団地という感じだ。潮風に晒《さら》されているせいなのか、壁にはいくつも亀裂《きれつ》が走り、ところどころ苔《こけ》のようなものが見える。まわりに緑は多いが、それは手入れをしていない雑草だった。鬱蒼《うつそう》とした木々の中に立つその建物は、まるで幽霊屋敷のように見える。
 私はコンクリートの冷たい階段を上り、303と書いてある部屋の前に立った。あちこち錆《さ》びた鉄の扉に、入江杏子《いりえきようこ》と書いた紙がセロハンテープで貼《は》ってあった。私は深呼吸をしてからチャイムを押した。
 すぐその扉は開いた。中から中年の女の人が顔を出す。色が白くふくよかで温和そうな女の人だ。母が着ていたような、おばさんしか着ない色のセーターを着ている。
「はじめまして、桐島椿です。昨日は突然お電話しまして……」
「いいえ。いいんですよ。さあ、どうぞ。ここの場所はすぐ分かりました?」
 にこにこ笑ってその人は言った。あまりの和やかさに拍子抜けしてしまうぐらいの笑顔だった。
 狭くて暗い玄関を抜け、私はリビングに通された。リビングと言っても台所の延長線上に、安っぽいテーブルと椅子《いす》が置いてあるだけだ。
 まず目についたのは、その部屋に不釣り合いなほど立派な仏壇だった。位牌《いはい》と写真がふたつずつ置いてある。片方は男の人でもう片方は女の人だ。線香の煙が鼻をくすぐった。
「お父さん。お孫さんが会いに来てくださったわよ」
 写真に向かってその人は言った。私は黙って祖父である人の写真に見入った。
 昨日、母からここの電話番号を聞き出した。そして祖父の死を知った。去年の十月に彼は亡くなっていた。
 十月と聞いて、私は死ぬほどやり切れない気分になった。祖母が元気をなくし始めたのはそのころだったし、入院したばかりのころ、もう生きてたって楽しいことは何もないと言っていたことを思い出した。
 電話に出た彼の娘は私の素性を聞いた。何も言わずに切ってしまうこともできたけれど、私は正直に話した。桐島牡丹の孫の椿だと。すると彼女、入江杏子はぜひ家に来てくださいと言ってくれたのだ。
 お線香をあげて、私は両手を合わせた。私にとって祖父は最後の希望だった。死んじゃったなんてずるいと、私は胸の内で呟《つぶや》いた。
「どうぞ、座って。紅茶でよかったかしら」
「あ、はい。すみません」
 私は勧められたテーブルの前に腰を下ろした。隣りの椅子の背にはエプロンが掛けっ放しになっているし、部屋の隅には新聞や雑誌が積んである。電気の笠には埃《ほこり》が積もり、紅茶はティーバッグだった。祖母も母も家の中を散らかす人ではなかったので、どうも落ちつかなかった。それにどう見ても裕福な暮らしぶりには見えない。祖父は金持ちなのではなかったのか?
「私なんかが押しかけて来て、ご迷惑じゃなかったですか?」
 とりあえず私は彼女の顔色を窺《うかが》った。彼女はまたふっくら笑って首を振る。
「いいのよ。若い人がそんなことを気にしないで。それより父のお葬式では、お母様にお世話になりまして。よろしくお伝えくださいね」
「え? はい。どうも」
 私は驚きながらも頷《うなず》いた。そうか、母は祖父の葬式に行ったのだ。だから喪服がクリーニングに出してあったのか。妾《めかけ》の子なのにいい度胸をしている。
 頷いてしまうと、もう話すことが見つからなかった。相手が金持ちそうなら、嘘《うそ》泣きでもして祖父の遺産を少しでも取ってやろうと思っていたけれど、これではそんな話をする雰囲気ではない。
「失礼ですけど、おひとりでいらっしゃるんですか?」
 表札に彼女本人の名前が出ていたことを思い出して、私は聞いた。
「ええ。何となく婚期を逃してしまってね。母も父もいなくなったし、とうとう本当にひとりきりだわ」
 台詞《せりふ》の内容のわりに明るい話し方だった。
「……お母様はいつ?」
「一昨年なの。昔からあまり丈夫な人じゃなくてね。あの年まで生きたのが不思議なぐらいだった。母が死んでから、やっぱり父ががっくりきてね、あっという間に衰弱して一年で死んじゃったわ」
 なるほど、正妻さんは愛されていたのだなと私は思った。
「あの聞いてもいいですか?」
「ええ。何かしら」
「私、祖父の名前を知らないんです。入江なにと言うんですか?」
 私が聞くと、彼女はおやという感じで目を丸くした。
「父は入江じゃないわ。桐島よ。桐島|健二郎《けんじろう》」
 今度はこちらが目を見張った。
「え? どうして?」
「あなた、もしかして知らないの? 何も聞かされてないの?」
 私とその人はお互いの顔を見つめた。私は首を振る。どういうことなのだ。
「父と呼んではいたけど、桐島健二郎はあなたのおばあさんの旦那《だんな》さんよ。私の母は妾だったの」
 世界がぐらりと揺れる。天と地が引っ繰り返ったようなショックを受けた。頭の中が激しく混乱する。私は歯を食いしばって平静を保った。テーブルの下で膝《ひざ》が震え、口の中がからからに渇いた。
 祖母は正妻だったと言うのか。
「……嘘よ」
「嘘なんかつかないわ」
「でも、あなたたちはずっといっしょに暮らしてたんでしょう? だから祖父のお葬式もあなたが出したんでしょう?」
 勢い込んで聞くと、彼女は悲しそうに目を伏せた。
「違うわ。父はずっとひとりで暮らしていたの。私達はいっしょに暮らしたかったんだけど、そうすると私達に迷惑がかかるって言ってね」
「……迷惑?」
「本当に何も知らないのね」
 その人は立ち上がると、奥の部屋へ入って行った。そして古い手紙を一通持って来て、私に差し出した。
「母の遺品を整理してたら出てきたのよ」
 宛名《あてな》は入江|百合子《ゆりこ》様と書いてあった。見覚えのある達筆に、私は封筒を裏返す。差出人に桐島牡丹と祖母の名前が書いてあった。
「百合子さんって……」
 何かを思い出せそうになって、私は呟《つぶや》いた。
「私の母よ」
 そう言って彼女は仏壇の写真を目で示した。夫婦のように並ぶ、祖父と百合子という女の人。
「百合……?」
 私は突然ぴんときて、彼女の顔を見た。
「百合の花を持ってお見舞いに来たのは、もしかしたら……」
「ええ、私。白い花はお見舞いにはいけないって分かってたんだけど、母も私も大好きな花だったから。匂《にお》いもいいし、素敵でしょ?」
 まるで悪びれず、彼女は少女のように笑った。私は何だかわけが分からず、その封筒から便箋《びんせん》を取り出した。
 懐かしい祖母の文字。季節の挨拶《あいさつ》から始まるその手紙を私は読んだ。四行目に本題に入り、私は二枚目までを一気に読んだ。便箋は全部で五枚あった。どの便箋にもぎっしり文字が詰まっている。私は三枚目を読む気になれず顔を上げた。
「……これは祖母が書いたんですよね」
「そうでしょうね」
 私は震える指で便箋を畳み、何とか封筒に押し込んだ。夫を返せ、泥棒猫、お前の子供なんか認知させない、死んでしまえとさえ書いてあった。私は両手で顔を覆った。正妻が妾に宛てた、厭味《いやみ》というより脅しに近い手紙だった。
「ごめんなさい」
 謝ったのは私ではなく、手紙を出して来た本人だった。
「あなたにいやな思いをさせるために、読ませたんじゃないの。ただ本当のことを知ってほしくて」
 私は何も言えなかった。ただ端の欠けたティーカップを見つめる。
「お葬式は父の実家のそばのお寺でやったの。喪主はもちろんあなたのおばあさんよ。いっしょには暮らしていなかったけれど、父はやはり私達の家族だった。週に何度も来て泊まって行ったし、週末はよくみんなで出掛けたわ。父と母は愛し合っていたし、私にはただひとりの父だった。だけど、妾の子だもの。親族の人たちといっしょに座るわけにもいかないし、それどころかお線香をあげに行ってもいいのかって悩んだわ。でもね、あなたのお母様がお葬式に出てくださいって言ってくれたの。それで悩んだ末に出掛けたわ。あなたのお母様は、妾の娘の私にとても親切にしてくださった。お骨まで分けてくださったのよ」
 私は穏やかに話すその人の顔を見た。
「どうして、祖父は祖母と離婚しなかったんでしょうか……」
「あなたのおばあさんが承諾しなかったからよ。いくら説得しても離婚だけはいやだと言ったそうなの。それでも何とか別居して、父は毎月お金を送っていたみたい。かなり大きい額のお金を毎月要求されたみたいでね、ちょっとでもお金が少なかったりすると、父のところに押しかけて来て……」
 彼女は言い淀《よど》む。きっと暴れたのだろう。気性の激しいあの祖母だ。ヒステリーを起こしたら何をするか分からない。
「そういう事情があって、父は私達といっしょに住んではくれなかったの。でもね、私も母もあなたのおばあさまを恨んだりしていないわ」
 にっこり笑って、その人は言った。
「あなたのご家族にはとても申し訳ないことだけど、私達は幸せだった。結婚してるかしていないかなんて些細《ささい》なことよ。愛し合っている父と母に私は育てられたのだもの。戸籍もお墓もそんなことはどうでもいいわ。だからあなたもおばあさまを責めたりしちゃいけないわ。あれから、おばあさまの具合はどう? お父様も大変だったわね。私に何かお手伝いできることがあったら言ってね」
 喋《しやべ》り続ける彼女の顔を私は呆然《ぼうぜん》と見つめた。話しているうちに、彼女の顔つきが変わってきたのだ。言っていることと反対に、顔中の筋肉が強張《こわば》り、両目が微かにつり上がった。その目に激しい憎悪が見えた。私は恐くなって思わず立ち上がる。
 この人はどこかで祖母の入院を聞きつけ、自分の母親の名前の花を持って祖母の姿を見に来たのだ。
 祖母にとって、妾である百合子という女は脅威だったに違いない。自分の夫を奪った女だ。恐ろしかったからこそ、あんな手紙を書いたのだ。それを知っていて、この人は百合の花を持って祖母の病床を訪れた。ぼけて醜くなった祖母を見て、笑いが止まらなかったに違いない。そして私の父のところにも、同じ快感を味わいたくて現われたのだろうか。
「あら、もうお帰りになるの」
「……ええ。お邪魔しました」
 私は挨拶《あいさつ》もそこそこにコートを持ち、早足に玄関へ向かった。きっと私がここに来た理由も見透かされているのだろう。ここは本当に幽霊屋敷だったのだ。
「椿さん、でしたっけ」
 急いでパンプスをひっかける私の背中にその人は言った。
「あなた、おばあさまにそっくりね」
 穏やかで何気ないその一言に、からだ中に鳥肌が立つほどぞっとした。お礼も何も言わず私はその部屋を逃げるように飛び出した。

 私は病院の階段を駆け上がった。廊下を走り抜け、父の個室のドアを開け放った。
 母の驚いた顔がこちらを見る。母の手にはスプーンとヨーグルトの瓶があった。父に食べさせていたのだ。
「静かにしなさい」
 母はスプーンを置くと、エプロンで手を拭《ふ》いて立ち上がった。父は私のほうなど見もしない。ぐったりとベッドに凭《もた》れ、焦点の定まらない目で前方の壁を眺めている。
「どうして教えてくれなかったの?」
 私は乱れた息を飲み込んで、やっとの思いでそう言った。母は私の質問を無視して右手を差し出した。
「写真を返してちょうだい。約束でしょう」
「こんなものがどうして欲しいの?」
 私はバッグから写真を取り出すと、力まかせに床に叩《たた》きつける。リノリウムの床に写真が散らばった。母と私の視線が絡む。何か言うかと思ったら、母は黙ってそれを拾い集めた。
「お母さんはおばあちゃんが憎いんでしょう? お母さんを捨てていったその男が憎いんでしょう? どうしてそんな写真が今さら欲しいのよ。こんなもの、妾の娘にでもくれてやればいいんだわっ」
「黙りなさい」
 興奮する私に母は冷たくそう言った。写真を揃《そろ》えると、それをベッド脇《わき》のサイドボードに静かにしまった。
「これで分かったでしょう。あなたの大好きなおばあちゃんの正体が」
 母はベッド脇のスチール椅子《いす》に腰掛けると、掌を父の布団の上に置いた。赤ん坊にするように父の膝《ひざ》のあたりをぽんぽんと叩く。そして突っ立ったままの私を見上げた。
「おばあちゃんはね、私がきれいじゃないからあんまり愛してくれなかったわ。でも別にそんなことはよかったの。父はとても私を可愛《かわい》がってくれたから」
 懐かしそうに笑って、母は独りごとのように言った。
「だから父が家から出て行ったときは本当に悲しかったわ。父は私を残して行くのをとても不安がってたけど、でもしようがなかったの。子供まで持っていかれたら母のプライドはずたずたでしょう。それに私だって、父の新しい恋人をお母さんと呼ぶ気にはなれなかったし」
 私は息をつめて、母の告白を聞いていた。
「父がいなくなってからも、私とおばあちゃんは特に喧嘩《けんか》もしないで平和に暮らしたわ。だってあの人は喧嘩するほど私に興味がなかったんだもの。外に恋人を作っては遊び回ってたしね」
「それが何だって言うのよ! 私には関係ないわ! 私は、私は」
 言葉が続かない。私は頭を振った。からだ中の血管が膨れ上がり爆発してしまいそうだった。
「あなたは知らないでしょうけど」
 頭を抱える私を見て、母は平然と言った。
「私とお父さんは恋愛して結婚したのよ。初めて会ったときと同じように、私はお父さんが好きなの」
「嘘《うそ》よ。どうしてこんな奴《やつ》が好きなのよ」
「少なくとも、おばあちゃんよりは私を愛してくれたわ」
 母は愛しそうに、父の顔を見る。
「あなたには分からないでしょうけど、私達夫婦はうまくいってたのよ。お父さんが浮気してることぐらい私は知ってた。だけどそれは本当に浮気なの。本気じゃないのよ。だから別によかった。つらかったけど、失うよりはよかった。折り合いの悪い振りをしてたけど、おばあちゃんと縒《よ》りが戻っているのも知ってた。だけどお父さんにとっては、そのことも浮気だったから」
 私は母の言っていることが理解できなくて顔をしかめた。何を言ってるんだろう、この人は。私の顔を見て、母は薄く笑った。
「知りたいのなら、何もかも教えてあげる。お父さんは最初、おばあちゃんの恋人だったのよ。私がおばあちゃんから奪ったの。あんなに気持ちのいいことはなかったわ」
「……何言ってるの?」
「本当のことよ。去年の十月、父が死んだとき、やっとおばあちゃんは誰を一番愛してたか気が付いたのね。よほど支えにして生きてきたんでしょうよ。あっという間にぼけちゃって。そんなに好きなら、どうして他の男の人と遊び回ったのかしら。頭が変なのよ」
 母は投げやりな口調で続ける。
「自分の夫が死んでから、あの人支えになる人を必死で捜してたわ。昔付き合いのあった男の人に片っ端から電話してね。もちろんお父さんにも擦り寄って来たわ。知らん顔してたけど、私には分かってた。お父さんとおばあちゃんの乗った車が事故にあったでしょう。あのときだって逢引《あいび》きしてたのよ。会社が危ないのをどこかで聞いて、おばあちゃんはお金を貸すからと言ってお父さんの気を引いたのよ」
 私にさえ正妻であったことを告げなかったプライドの高い祖母。その祖母が父に縋《すが》ったと言うのか。毅然《きぜん》と煙草《たばこ》を吸っていた祖母の内側は、真っ黒にむしばまれていたのか。
 私はそろそろと後ずさりをする。もうこれ以上何も聞きたくなかった。本当のことなど何も知りたくはない。
「あなたを憎いわけじゃないわ」
 母の声が私を追いかける。
「あなたが生まれたとき、おばあちゃんは誰よりも喜んだの。あなた本当に可愛らしい赤ちゃんでね。天使みたいだった。おばあちゃんが欲しいのは、そういう赤ちゃんだったの。だから私は必死であなたを守ったわ。名前だけはおばあちゃんが付けてしまったけど、あなたをおばあちゃんの手には渡すまいって頑張った。でも無駄だったみたいね」
 母は私を見て、眩《まぶ》しそうに目を細める。
「あなた、本当におばあちゃんに似てきたわ。気性も顔も」
「だから、私が嫌いなのね……」
 さらりと言ったつもりだったのに、信じられないほど声が震えていた。
「嫌いじゃないわ。娘だもの。正直に言えば嫉妬《しつと》はしてたと思う。私も椿みたいだったら、おばあちゃんも私を可愛《かわい》がってくれたと思うしね」
 母は下を向いてくすっと笑った。
「でもね、もういいの」
 母は顔を上げる。その表情は見たことがないほど明るかった。
「父が死んで何もかも終わったのよ。私はずっとこの年までいろんなことに縛られてたわ。あのおばあちゃんへのコンプレックスもそうだし、自分の娘であるあなたにもコンプレックスがあった。可愛がってくれたわりには、私を置いて行ってしまった父への恨みもあった。おばあちゃんから奪った男と結婚はしたけど、その人は浮気ばかりするし、本当に不幸な人生だと思ってた」
 母はゆっくり立ち上がる。そして私の顔を正面から見た。
「父も死んだし、母もあのとおりぼけ老人よ。夫は重病人だけどこれ以上は悪くならないわ。この人はもう私なしでは何もできないの。私から離れていくことはもうないのよ」
 母は解放されたのだ。私は生き生きと背筋を伸ばす母を見上げた。そして母の口が私の名前を呼ぶ。
「椿」
 私は動けなかった。母の力強い視線にとらわれ足が動かない。
「おばあちゃんは、あなたが看取《みと》りなさい」
 有無を言わせぬその言葉に、私は頷《うなず》くことすらできなかった。

 群贅の部屋に戻った私は、電気も点《つ》けずに長い時間床の上に座っていた。
 私は死ぬことを考えた。もう何も考えたくなかった。それが今の私にはいちばん楽な解決法だった。群贅の部屋は五階にある。窓を開け、ベランダから飛び下りれば何もかも終わる。
 カーテンの引いていない窓を、私は眺め続けた。夕暮れの空が深く濃い闇《やみ》に変わっていくまで、私は死への入口を見ていた。
 私は祖母になるのが夢だった。祖母と同じ道を行きたかった。その夢は叶《かな》っていたのだ。夢が叶ってしまったら、もうその先の人生はいらない。幸いにも私はまだ若くてきれいだ。花が萎《しお》れて枯れる前に、私は自ら首を落とそう。そうなる運命だったのだ。それを望んで、祖母は私に椿と命名したのだ。
 明日エイズ検査の結果が分かる。もう結果などどうでもいいはずなのに、私はそのことを思うと心底恐ろしかった。あの窓から飛び下りてしまえば、結果を聞きに行かずに済む。死刑の宣告を聞かずに済む。
 なのに私は、窓を開けるどころか立ち上がることすらできなかった。死ねないのだ。死ぬのが恐ろしいのだ。自殺は想像の域を出ず、私はじっとそこから動けないでいた。
 そのとき、暗闇の中で何か光のようなものが点滅した。はっとしてそちらを見る。点滅したのは電話機だった。鳴り出したのと同時に私は受話器に飛びついた。
「もしもしっ?」
 相手は無言だった。私は縋るような思いで問い掛ける。
「グンゼでしょう? 私よ。椿よ。お願い、答えてよ。グンゼなんでしょう?」
「……椿」
 どこか公衆電話からかけているのだろうか。往来の音に紛れて微かに声が聞こえた。
「どこにいるの? 心配したのよ。ねえ、何とか言って」
 群贅は答えない。
「私がこの部屋にいるから、グンゼは帰って来られないの? だったら出て行くから。だから帰って来て。お願いよ」
「椿、お前……」
「なあに? 何が言いたいの?」
「血液検査を受けろ」
 受話器を持った手が凍りつく。
「受けたわ」
 私は必死で言った。
「陰性だったわ。だから安心して。ねえ、グンゼも検査受けたの?」
 私は必死で嘘《うそ》をついた。群贅を安心させたかったのだ。
「グンゼ? どうなのよ?」
「陽性だった」
 私は目を閉じた。きっと群贅も瞼《まぶた》を閉じているだろう。同じ闇に私達は立ちすくんだ。
「……一回じゃ駄目なんだって本で読んだわ。疑似陽性のときもあるんだって。一度しか受けてないならもう一回受けて」
 それでも私は何とかそう言った。黙ったままの受話器の向こうに、彼の痛々しい息づかいが聞こえた。
「帰って来て、グンゼ」
 今にも彼が電話を切ってしまいそうで、私は必死に喋《しやべ》り続ける。
「私今ね、中央公園のそばにあるカレンっていうスナックでバイトしてるの。昼間はおばあちゃんの病院にいるし、バイトが終わったらグンゼの部屋にいるわ。いつでもいいから電話して。ずっと待ってるから」
 電話の向こうで、微かに唸《うな》り声のようなものが聞こえた。まさか泣いているのだろうか。
「……俺はずっと、お前のことを殺してやりたかった」
 震える群贅の声。
「殺していいわ。本当よ。グンゼが私のこと憎んでたのちゃんと知ってる。だから帰って来て」
「うつしてやろうと思った。だけど思うだけにしておけばよかったんだ。本当にお前にうつしちまうなんて……」
「だから言ったでしょう。陰性だったの。うつってないの。安心してよ。お願いよ」
 群贅が電話の向こうでしゃくりあげる。
「どこにいるの? お願い、教えて。迎えに行くわ」
 ひとしきり泣くと、彼は少し落ちついたようだった。大きく息を吐く音がして、彼は言った。
「なあ、椿。俺たちどうしてこんな風になっちまったんだろう。お互いガキだったころはちゃんとした恋人同士みたいだったのにな」
 それはグンゼが他の女の子と寝たからよ。私は口に出さずにそう答えた。
「俺がお前以外の女にも、手を出したからか?」
 私の気持ちを読んだように、群贅は言う。
「駄目なんだよ。分かってるのに、俺はどうしても駄目なんだ。お前ひとりだけじゃ満足できなかったんだ」
「いいわよ。分かってるわ」
「お前が泣いてくれたらよかったんだ。他の女と寝るなって。私だけを抱いてくれって泣いてくれれば俺は」
 私は状況を忘れて、反射的に大きな声を出した。
「私のせいにするのっ?」
「お前は俺以外の男と何人寝たんだよ。考えてみれば、俺がうつさなくてもいつかどっかでうつっただろうな。そうだよ。俺のせいじゃない」
 涙声になって言葉が消えていく。私は息を吸った。
「そうよ。グンゼのせいじゃないわ。自惚《うぬぼ》れないで。あんたなんかに人生左右されてたまるもんですか。そんなに私が憎いなら殺しに来なさいよ。どうせあんたにはできないでしょうけどね」
 絶対何か言い返してくるだろうと思ったのに、受話器は沈黙したままだ。私はいやな予感を感じて叫ぶ。
「グンゼっ。待って、切らないで。私ずっと待ってるから。帰って来てっ」
 ガチャンと音がして電話が切れた。私はがくりと肩を落として受話器を置いた。最後の言葉は聞こえただろうか。私は頭を抱えて床にうずくまる。
 そのとき再び電話が鳴った。私は慌てて受話器を取り上げる。
「グンゼっ!」
 私が叫ぶと、誰かが面食らったようにこう言った、
「……ええと、そちらに桐島椿さんはいらっしゃいますか?」
「わ、私ですけど?」
 誰だろう。この声はどこかで聞いたような、と思っているうちに向こうが名乗った。
「僕です。中原です」
 私は絶句する。裸で群贅と絡んでいるときにドアを開けられたような、ものすごいパニックが襲った。
「な、何で。あ、あの、私がここにいるのは、その」
「ああ、落ちついて。落ちついて」
 優しい声で先生は言った。
「明日の夜はバイトですか? ちょっと話があるんだけど、飯でもいっしょにどうでしょう」
 呑気《のんき》なその台詞《せりふ》に、私はからだ中の力が抜けた。

 先生が指定した店は、立派なフランス料理の店だった。
 私が店に入ると、蝶《ちよう》ネクタイをした中年の男が仰々しく私が脱いだコートを受け取った。持っている服の中で、いちばん上品な服を着て来てよかったと思った。
 店のいちばん奥まった席に私は案内された。スーツ姿の先生が立ち上がり、いつものようにはにかんだ笑顔を見せた。
 椅子《いす》を引いてもらって私は緊張気味に座った。ウェイターが行ってしまうと私はやれやれと力を抜く。
「どうしたんですか? こんな豪華な店で」
 私が聞くと、先生は頬《ほお》を指で掻《か》きながら笑った。
「椿さんを食事に誘うなら、こういう所じゃないといけない気がしちゃって」
「この前は湯豆腐だったじゃない」
「いや、あのときは急だったから」
 少し口ごもり、先生はまた頬を掻く。
「お話ってなあに?」
「食べてからにしましょう。途中で食べられなくなったら悪いから」
「そんなにすごい話なの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 まだ時間が早いせいか、広い店の中にお客はまばらだった。聞こえるか聞こえないかぐらいの音量でクラシックがかかっている。私達は勿体《もつたい》ぶって出されるコース料理をあまり話もしないで食べた。食器が触れ合う音だけがやけに耳に響いた。味なんかまるで分からない。私は居心地が悪くて、ワインばかりがぶがぶ飲んだ。
「カレンでバイトしてるんだって?」
 メインのお肉がテーブルに来ると、先生はやっとまともに口をきいた。
「ええ。先生も飲みに来てね」
「コンパニオンのほうはどうしたの?」
 責めるような聞き方ではなかったけれど、私は少々むっとする。仕事がもらえなくなったと言うのも悔しいので、私は肉を切り分けながらこう言った。
「夜の仕事にすれば、昼間はずっとおばあちゃんに付いててあげられるでしょう。看護婦さんに何もかも任せきりじゃ悪いから」
「なるほど。偉いね」
 先生が本当に感心したように頷《うなず》いたので、私はちょっと罪悪感を感じた。お肉を食べてしまうと、ウェイターがチーズを載せたお皿を持ってやって来た。
「ワイン、もっとどう?」
 先生が私に聞く。彼は最初の一杯しか飲まなかったから、いつの間にかひとりで一本開けてしまったようだった。
「お金持ちなのね、先生」
「そんなことないよ。これで給料の半分はパーだ」
 先生はもう一本同じワインを頼んだ。私は酔いでぼやけた目で店の中を眺めた。漆喰《しつくい》の壁に本物のロートレック。間接照明の下の染みひとつないテーブルクロス。
 まだ私が小学生だったころ、ときどき父が私と母をこういう店に連れて行ってくれた。もうそのころには、父があまりいい父親でないことは勘づいていたけれど、それでもレストランにいるときの父は親切で紳士で、父親らしく振る舞っていた。大人になってからは、いろんな男の人が私を高級な店に連れて行ってくれた。群贅でさえ競馬で儲《もう》かったりボーナスが出ると、ワイン一本二万円みたいなレストランに連れて行ってくれた。
 もう、こんな贅沢《ぜいたく》な食事をすることもないのかもしれないと、私はぼんやり思った。
「この前、群贅君っていう人が僕を訪ねて来たよ」
 新しいワインの栓が抜かれ私のグラスに注がれたとき、先生は話を切り出した。
「いっしょに暮らしてるんだってね」
 私は何も答えず、グラスに口をつける。
「そんないやな顔をしないでくれよ。責めてるわけじゃないんだ。僕が椿さんのことを責める理由はないだろう?」
 そう言われればそうだ。先生は私と付き合っているつもりはなかったのだから。
「グンゼは先生に何を言いに来たの?」
 先生は眼鏡を指で押し上げ、困ったように微笑《ほほえ》んだ。グンゼのことだから、どうせ何かひどいことを言ったに違いない。
「ごめんね、先生」
「どうして椿さんが謝るの?」
「だってグンゼ、何か変なこと言ったでしょう?」
「君のことを愛してるって言ってたよ」
 私は危うくグラスを倒しそうになる。びっくりした私に先生は続けて言った。
「だから、殺してやるんだって言っていた」
「あいつ、頭がおかしいのよ」
 吐き捨てるように言うと、先生は静かに頷《うなず》いた。
「そのとおりだ。放っておいたら危ない」
「……え?」
「ずいぶん混乱してるようだった。できれば医者に連れて行ったほうがいい。椿さんは彼の居場所を知っている?」
 私は首を振った。
「いないの。捜してるんだけど、どこにもいないのよ」
「連絡は?」
「この前先生、電話してくれたでしょ。あの少し前にグンゼから電話がかかってきてたの」
「どうだった?」
「変だったわ。泣いて謝ったかと思うと、突然ひどいこと言い出したりして」
「……何かあったのか?」
 聞きにくそうな顔して先生は私に尋ねた。そうか、群贅はエイズのことは先生に言っていないのだ。
「……分からないわ」
「どちらにしろ、あの調子では自分も他人も傷つけかねない。ご両親や親しい友達に連絡したほうがいいね」
「傷つけるって……?」
「ナイフを持ってた。こんなことは言いたくないけど、椿さんも気を付けたほうがいい」
 それを聞いて、私ははっとした。
「まさか先生、グンゼに何かされた?」
「ああ、平気だよ。ちょっともめたけど、どこも怪我《けが》しなかった」
 先生は私を安心させようとしたのだろうが、その笑顔が余計私を不安にさせた。群贅がそこまで追い詰められているなんて、私は想像もしなかった。彼は本当に私を殺しに来るかもしれない。
「群贅君を、好きなのかい?」
 テーブルの上で両手を組み、先生は真面目《まじめ》な顔で聞いた。私は答えずワインを飲む。
「本当は愛してるんじゃないのか?」
「愛してなんかないわ」
 本当のことだった。愛してなんかいない。彼は女を人間だと思っていなかった。私を本当に大切にしてくれたことなんか一度もない。それが群贅の屈折した愛情なのかもしれないと思ったことはある。でも屈折した愛情なんて私は欲しくなかった。本当に欲しいものは、もっと素朴な感情だ。素直じゃない人間など真っ平だった。本当に欲しいものを欲しいと言えない人間など、私は大嫌いだった。
「今日はそんなことを言いに来たんじゃないんだ」
 先生はワインの瓶を持ち上げて、自分のグラスになみなみ注いだ。それを半分ぐらい一気に飲んだ。
「先生? そんな、いっぺんに飲んで平気なの?」
「平気です。椿さん、結婚してくれませんか」
「は?」
 みるみるうちに先生の顔が赤くなっていく。先生はそれを隠そうと煙草《たばこ》をくわえた。ライターを捜しているのかあちこちのポケットに手を突っ込み、見つからないのが分かると灰皿の上にあった店の紙マッチを手に取った。けれど今度はそれがうまく擦れない。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫。女の人にプロポーズしたのは生まれて初めてだから」
「男の人にはあるの?」
「ないよ」
 そう言っている間に、先生はやっと煙草に火を点《つ》けた。
 私はあまりにも予想外のことを言われて、驚くどころか全然実感が湧《わ》いてこなかった。
「どうして急にそんなことを言うの? 私が迫ったときは逃げたくせに」
「……事情が変わったんだ」
 先生はせっかく点けた煙草を、すぐ灰皿に押しつけた。そして悲しそうな目をして私の顔を見る。
「暮れに父が倒れた。心筋|梗塞《こうそく》だ」
 ああ、また病気の話かと、私は内心うんざりする。
「二度目なんだ。前のときは何とか社会復帰できるまで回復した。だけど、今度は駄目だった。ほとんど自分でからだを動かせなくなってしまった。こんなことを言ったら罰が当たりそうだけど、父のためにも死んでしまったほうがよかったかもしれないと思う」
 中原先生はそこで息をつくと、小さな声で言った。
「僕には母親はいないんだ。子供のころに離婚してね。僕は親父に育てられた」
「……それで?」
「田舎に帰らなくてはならない。いや違うな。自分の意志で帰るんだ。見捨ててはおけない。いっしょに来てくれないか?」
 私はもう少しで笑いそうになってしまった。いちばん結婚したい人がプロポーズしてくれたのだ。
「君がおばあさんを見捨てていけないのは分かってる。だからおばあさんもいっしょに連れて来てくれていい」
「それで先生のお父さんと、並んでベッドに寝かすのね。両方のおむつを取り替えればいいのね」
「いや、そういうことは他の人に頼むつもりだ」
 私は目の前で赤くなっているこの人が大好きだった。群贅を愛していないと確信するのと同じに中原先生が好きだと確信できる。病気の年寄りなんてあと何年か我慢すれば死んでくれるのだ。何をためらうことがある。
「魚住さんに頼んでみたら? 先生のこと本気で好きみたいだし、だいいち看護婦さんじゃない。本職よ」
 私はバッグから自分の煙草を取り出した。そのとき、今朝保健所でもらった一通の茶封筒が手に触れた。私はバッグを閉め、テーブルの上の紙マッチに手を伸ばした。煙草に火を点けると、先生は少し驚いた顔をした。
「椿さんは」
「ええ。何?」
「子供のころ、いや、十代のころ、どういう人と結婚したいと思ってた?」
 急にそんなことを聞かれて、私は考える間もなく答えてしまった。
「好きな人と」
「僕もそうだ」
 沈黙がふたりの間を漂った。
「誰でもいいわけじゃない。好きな人と結婚したいから、プロポーズしたんだ」
 私は煙を吐いて、その行方を目で追った。そしてバッグに潜ませた茶封筒を思った。
 昨日は一晩中眠ることもできず、私は検査の結果のことを考えていた。もし陽性だったとしたら、それを聞いて私はどうするのだろうと思った。陰性だったら? 陽性だったら? 片思いを打ち明ける少女が花占いをするように悩んだ。陽性だったときのことを考えると気が狂いそうだった。それならいっそ、何も知らないほうがいい。このままじっと、何もせずにいるほうがいい。
 夜明け前に、結果など聞かず成り行きのまま生きていこうと決めたのに、朝の光が差すと私は化粧をして群贅の部屋を出た。
 保健所に着いたのは、九時ぴったりだった。検査をしたときと同じドアを開けると、この前の女医が白衣姿で立っていた。にこりともせず、私に一通の封筒を差し出した。
「椿さんが整形した話をしてくれただろう」
 どこか遠いところから、中原先生の声が聞こえる。
「……ええ」
「あのときしようがない人だと思ったんだ。放っておけないと思ったんだ」
 私はゆっくり目を伏せた。望みが叶《かな》ったのだ。
「ありがとう」
 私は煙草を消すと椅子《いす》から立ち上がる。こちらを見上げる天使様に私は言った。
「グンゼがおかしくなったのは、エイズ検査で陽性が出たからよ」
 天使様の顔に驚きが広がる。
「私も検査したの。今日、結果をもらったわ」
「……どうだったんだ?」
「陽性だった」
 言葉を失った先生を残して、私は出口に向かって歩き出した。店に入って来たときコートを脱がせてくれた男が、逆回りのビデオを見るように、私にコートを着せてくれた。
 店を出るとき、私は一度振り返った。ウェイターが慇懃《いんぎん》に頭を下げているだけで、先生の姿はなかった。

 外に出ると、往来を隔てた向こう側に魚住が立っているのが見えた。バス停の陰の暗がりでポケットに手を入れ、マフラーに顔を埋めてこちらを見ていた。私の顔を見てもびくとも動かない。
 私は小走りで横断歩道を渡った。魚住はやって来た私を無表情に見た。
「いつから、ここにいたの?」
 白い息が夜の中に舞う。魚住の鼻の頭は真っ赤だった。
「プロポーズの返事は?」
 魚住が低くそう聞いた。
「あんた……」
「昨日、先生が田舎に帰るって聞いて、それで私」
 彼女は言葉を切って私を見た。
「私を連れて行ってほしいって頼んだのよ。そうしたら、椿さんを連れて帰るって言ったわ。今日プロポーズするって聞いて、先生の後をつけて来たの」
 魚住は泣くでもなく悔しがるでもなく、そう言った。私はバッグを開け茶封筒を出して彼女に渡した。
「何?」
「検査の結果」
 魚住は急いでそれを開ける。三つ折りにされた薄い紙を広げて大きく息を吐いた。そして私の顔を見る。
「よかったわね。そうだ、昨日雛子さんからも陰性だったって電話があったわよ」
「……先生には陽性だったって言っちゃった」
 それを聞いて、最初きょとんとしていた魚住の顔が、お化けでも見たようなすごい顔になった。
「どうしてよっ。何でそんなこと」
「分かんない」
 魚住は呆《あき》れたように首を振るとゆっくり歩き出した。私も彼女と並んで舗道を歩く。私の白いパンプスと彼女のスニーカーが枯れ葉を踏んだ。
「馬鹿もいいとこよ」
 苛《いら》ついた口調で魚住が言う。
「どうしてそんな嘘《うそ》つくのよ。素直に先生と結婚すればいいじゃない。それとも、他人の親の看病まではしたくないわけ?」
 私は立ち止まって魚住を見た。
「そんなんじゃない」
「だったら行きなさいよ。あなた、ひとりじゃ生きていけないんでしょう?」
 魚住が冷ややかに私を見た。
「そうよ」
 私は魚住を睨《にら》みつけて言った。
「ひとりじゃ生きていけないわ。誰だってそうでしょう?」
「じゃあ行きなさいよっ」
「だって先生、追っても来なかったじゃない!」
 私の大きな声に、さすがの彼女も面食らったようだった。肩で息をする私をしばらく見つめてから、ふいに自分の手袋を外してこちらに差し出す。
 私は魚住が貸してくれた手袋をして、また歩き出した。砂利を積んだトラックが埃《ほこり》をたてて通り過ぎる。国道沿いの舗道は、折れ曲がることもなくずっと先のほうまで続いていた。
「誰も助けちゃくれないわ」
 黙って歩いていた魚住がぽつりと言った。
「そんなこと知ってるわ」
「あんたに言ったんじゃないの。自分に言ったの」
「あ、そう」
 私と魚住は、そのまま何も言わず夜の舗道を歩き続けた。寒さで爪先《つまさき》が氷のようだった。いったいどこまで歩けばいいのだろう。歩き続ければ、いつか暖かい所にたどり着けるのだろうか。
 私はそのうち独りごちた。
「待ってるって言っちゃったんだもん」
「え?」
 魚住が不思議そうにこちらを振り向く。
 私は笑おうとしたけれど、寒さで顔が強張《こわば》り、うまく笑うことができなかった。

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